第2話 愛毒士
「あ、いらっしゃい!」
翌日。事務所の扉を開けると、ほんのり消毒液の香りと花の香りが鼻をくすぐった。
しかし、どこを見渡しても花なんて見当たらない。佐藤さんの香水の匂いだろうか。
「いいよ、ここ座りな」
テーブルから資料を移動して、椅子を用意してくれる。昨日は無事に門限に間に合ったが、それからずっと本当に検査に協力していいのか悩んでいる。
私が従うべきなのは佐藤さんじゃない。パパとママなのだ。
「どうかした?」
私の考えを見透かしたかのように、不思議そうな顔をした佐藤さんがこちらを覗き込む。
「あの、やっぱり検査しないっていうのはダメですか? 他のことなら何でもするから。昨日送ってもらっちゃったし……」
一度した約束を破るのは、自分としても不本意だ。折角優しくしてもらったのに、それを無下にするわけにはいかない。だから、その代わりに一つ指示を聞く。とても良い案だと思う。
「月夜ちゃん、危ないから何でもとか言わない方が良いよ。何されるか分からないし」
「佐藤さんは、愛毒症にかこつけて詐欺なんてしないでしょ」
最近は暴力だけじゃなくて、愛毒症のせいで不安に陥っている人を対象に、詐欺をしている輩もいるらしい。
「……詐欺ね。何でもって言われて詐欺以外の可能性が考えられてない時点でアウトだよ」
「私、指示ないとどうしたらいいか分からないです。代わりに出来ることがあるなら何かするので、許してもらえませんか」
訊ねてみても、返事は返ってこない。隣に座っている佐藤さんは、椅子を
「今日使おうと思ってた検査キット、正規品じゃないんだ。僕の幼馴染が試作品くれた。アプリに情報と毒素の変化も記録されるから便利なんだよね」
その意図が分からず、とりあえず相槌を打つことに専念する。
「そんなにすごい幼馴染がいるんですね! でも、私は両親の指示で検査はしないようにって言われてるんです。だから……」
「そのさ、指示って上書き可能なの?」
「上書き?」
「月夜ちゃん、検査受けてよ」
佐藤さんが優しく微笑みかけてくる。見た目は天使寄りだがやっていることは悪魔より悪魔だ。
私は、逆らえないのに。
「指示いただきましたぁ! じゃあ、受けますね。やったー、指示貰っちゃった」
こんなのおかしいのは分かっているが指示をもらえると安心する。その通りに生きれば認めてもらえることが分かっているから。成功すれば褒めてもらえるかもしれないから。
心のどこかで、自分がおかしいことは十分に分かっている。それでも、ネガティブを並べて生きているくらいなら、いっそポジティブに人の言うことを聞いていた方が楽だと知ってしまった。
「うんうん、今研究室にそのデバイス置いてあるんだけど……あと三十秒くらいかな。その間にアプリ入れよっか」
まんまと誘導されながらアプリをダウンロードする。「ドックん」という名前の、見たこともない不可思議なアイコンだった。
「おー、ダウンロードできました! ……って、だあああ引っかかった!! 最悪!! ってか、何が三十秒ってなですか」
やっぱり、自分で決めないとダメだ。そう思うのはいつも、既に指示を承諾した後だ。
三十秒なら、もうす——。
「お邪魔します。デバイス持ってきたわよ」
「誰か来た!?」
「時間ピッタリ、流石だね。すごく効率的! ありがとう
蜜熊と呼ばれた女の人は、カバンからプラスチックで塗装された機会を取り出した。その口元には大きな傷跡がある。それについて尋ねるか迷って、口を
「……ちょっと、人来てるなら言ってよ!! マスクするわね。あたしは
見ていたのがバレたのだろうか。もしそうなら不快な気持ちにさせてしまったかもしれない。
「私は別に気にしないので大丈夫です!! あ、気にしないって言うのも失礼なのか」
どうやっても失礼なことしか口から出てこなくて、佐藤さんから渡されたプラスチックの塊に視線を移す。
「これが、デバイス……? あ、この方が幼馴染の!」
「違うよ。この人は幼馴染と同じゼミの人。これはさっきのドックんと連携させて、ここに指置いて。そう。指紋認証と採血で毒の種類分かるから」
佐藤さんが使い方を教えてくれる。指がデバイスに触れた瞬間、細い針が刺さって指先からピリピリとした衝撃が伝わり全身を駆け巡る。
呼吸が苦しくなってきて、心臓が掴まれるような痛みに襲われる。眩暈が起こるのと同時に目の前にうっすらと人の形が見えた。歴史の教科書で何度も見たことがある。
「初代、トリカブト……?」
目の前に現れた幻覚は、とても優しそうな顔をした青年だった。トリカブトの肖像画として歴史の教科書に載っていたものよりずっと若い。
『さぁ、解毒を始めよう』
「お゛、お゛え゛っ……」
「月夜ちゃーん聞……るー? この……、副……を疑似体験することで……なデータを……仕組みになって……けど、まだ苦しい?」
耳の奥でドクドクと心臓の音が鮮明に聞こえる。その間、佐藤さんが何か喋っていることは認識出来るが内容までは聞き取れない。
「これ、バレたら絶対怒られる……おえっ」
でも、何よりも恐ろしいのは、本当に病気であることが両親にバレることだ。私は、要らない子になってしまうのだろうか。嫌われてしまうのだろうか。
「ほら苦しいんじゃん、無理しないの」
自分よりも一回り大きな手が近づいてくる。背中をさすろうとしてくれたのは察することが出来るが、それすらも怖くて払いのけてしまう。
「ご、ごめ、なさっ」
「大丈夫。この画面見てごらん。四十三%だって、中々だね」
佐藤さんは、謝ろうとした私を遮って床に落ちていたスマホを拾い上げている。こんな短期間で二回も同じことをするとは思わなかった。お礼を言って受け取る。
アプリに表示された毒素ゲージは四十三%と表示していた。毒名にはツキヨタケと書かれている。
「タケ……? 毒キノコ、ですか? 四十三%なら、まだ半分以上大丈夫ですね」
「えぇー、考えてみなよ。君いくつ? 二十歳でしょ? 人の寿命を考えたら相当高いよこれ。まぁ、相当無理な願い事しない限りは僕が死ぬまで持つと思うけどさ」
それなら、平均よりも倍以上毒素が高いということになる。つまり先輩が生き続ける選択をしたら、このままだと平均の半分も生きられない。
「月夜ちゃんってさ、ご両親のことをがっかりさせちゃうのが怖いの? それとも、縛られること自体が怖いの?」
「分からない。自分で考えられないから……うー、まだ気持ち悪い」
私は、何が怖いのだろう。自分でも分からない。分からないものに怯えながら生きていると思う。
「それならそこで休んでから帰りな。突っ伏すくらいしかできないけど。月夜ちゃんの門限十九時だよね?」
「そうですよ。え、なんで知ってるんですか? 昨日は例外で二十時まで引き延ばしてもらってたのに」
「電子決済の利用履歴見たら分かるじゃん。君は遅くても十九時より前には家の最寄り駅に着いてるよね」
それがどうした、とでも言うかのような顔をして答える。
「そういうことを聞いてるんじゃなくて、なんで履歴を見られるのか聞いてるんですけど。普通に犯罪ですよ」
電子決済している私の履歴を知っているということは、スマホをハッキングしているということだろう。
「僕は捕まっても問題ないし、そもそも捕まらないから大丈夫だよ」
「どうしてですか?」
「だって、僕はトリカブトだからね!」
手は腰に、胸を張って得意げな顔をしている。トリカブトはそんなにも多くの特権を与えられるのだろうか。
いや、そんなはずはない。むしろ世界から狙われるような大犯罪者だ。
「昨日も聞いた、それ」
「門限を破ると、管理厳しくなるんでしょ。位置情報の共有、検索履歴とアプリの使用時間とその内訳。今のところ監視が厳しいのはこのあたりかな」
「うそ、佐藤さんそこまで調べたの? 流石に気色悪いわよ」
椅子に座ってスマホをいじりながら話を聞いていた渡辺さんが、佐藤さんを見て怪訝そうな顔をしている。
「あらかじめ調べておくと効率が良いんだってば。それに、僕は
手持ち無沙汰なのか、手元の資料をペラペラ意味もなくめくっている。
「はいはい。私は高橋に車出せるか聞いてみるわ。鈴木を送ってもらわないといけない」
今日も送ってもらえるのだろうか。本当は佐藤さんも運転できるはずなのに、やっぱり嘘をついているらしい。こっそり視線を向けると人差し指を口元に当てていた。
「
「分かった。あ、もしもし……」
壁に体重をかけてスマホをいじっていた渡辺さんが部屋から出て行ってしまった。
「まだ苦しい?」
顔色を窺うように覗き込まれる。年齢の割には少しだけ幼い綺麗な顔が眼の前に現れて後ずさる。
人より大きい分、その瞳は反射する光も多いはずなのに、真っ黒だ。吸い込まれそうになって返事が出来ずにいると首をかしげて微笑まれる。
「何か言いたいことがあるなら言った方が良いと思うよ」
「間違いだったら申し訳ないんですけど、活動の目的、嘘ついてないですか?」
「……へぇ、」
その真っ黒な瞳が、意味ありげに揺れた。
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