第8話 水族館飼育員・河村さんの日常

第一章:白濁した眼球と、漂う糸

 『コースト・アクアパーク』の朝。

 魚類担当の飼育員、河村湊(かわむらみなと・三十一歳)は、メイン水槽「大洋の回遊」の前で立ち尽くしていた。

「……また、色が悪いな」

 水槽の水が重い。

 透明度は維持されているはずなのに、ライトの光が奥まで届かず、吸い込まれるように鈍く濁っている。

 さらに、泳いでいるクロマグロの群れの中に、動きの鈍い個体が混ざっていた。

 よく見ると、そのマグロの眼球が薄く白濁している。

「河村さん、サメたちの食欲も落ちてます。それに、水中になんか……ゴミみたいなのが」

 後輩が指さした先を凝視する。

 水流に乗って、白い蜘蛛の糸のような粘液が無数に漂っていた。

 それはプランクトンの死骸ではない。何かの生物から剥がれ落ちた、感染性のあるタンパク質の繊維だ。

「……フィルターが機能してないのか?」

 河村は無意識に自分の手首を掻いた。

 ゴム手袋と袖の隙間に、赤い湿疹ができている。痒くはないが、ピリピリと熱い。

 最近、水槽の水に触れるスタッフ全員に、この謎の湿疹が出始めていた。すぐに消えるが、また忘れた頃に現れる。

 まるで、水の中に溶け込んだ「見えない何か」が、人間の肌で培養実験をしているかのように。

 河村はバックヤードへの扉を開けた。

 表の幻想的なブルーとは対照的な、カビと塩素と、腐った魚の臭いが充満するコンクリートの迷宮へ。

 排水溝のグレーチングに、半透明の物体が引っかかっていた。

 『Zクラゲ』の傘の破片だ。

 その破片は、水流に揉まれてボロボロになりながらも、ポンプの振動に合わせて微かに収縮を繰り返していた。

 死んでもなお動き続けるこの破片が、少しずつ溶け出し、あの白い糸となって水槽全体へ「Zウイルス」を撒き散らしているのだ。


第二章:溶解する鱗と、背後の気配

 「俺が注水パイプを見てくる。お前は予備タンクの点検だ」

 河村は懐中電灯を手に、バックヤードの奥深くへと進んだ。

 頭上の配管からは「ゴウウウ……」という水流音が響き、壁には結露が汗のように張り付いている。

 メインポンプ室の前。

 床が濡れていた。

 だが、ただの水ではない。床に撒かれている塩素系消毒剤と反応して、シュワシュワと白く泡立っている。

(……何かが、ここにいた?)

 河村は足を止めた。

 足音はしなかった。水流音にかき消されているのか、それとも「それ」が音もなく移動しているのか。

 

 ピチャッ。

 背後で、水滴が落ちる音がした。

 河村が振り返るのと同時に、配管の隙間から緑色の影がぬるりと滑り出した。

 子供サイズの半魚人――『Zサハギン(幼体)』だ。

 

 その姿は酸鼻を極めていた。

 全身の皮膚がふやけて剥離し、歩くたびにボタボタと肉片を落としている。落ちた肉片が床の塩素に触れ、シュワッと音を立てて溶ける。

 眼球は飛び出し、白く濁りきっている。

「……ッ!」

 河村が息を呑んだ瞬間、Zサハギンが動いた。

 足音がない。

 関節のない軟体動物のように、ヌルリと音もなく距離を詰めてくる。

 その手には、鋭い爪が生えていた。

 襲ってくる――そう思った瞬間、天井の配管から結露の水滴が落ち、サハギンの肩に当たった。

 ビクンッ!

 サハギンは過剰に反応し、痙攣しながら床に転がった。

 どうやら、神経系がウイルスに侵され、外部刺激に対してバグを起こしているらしい。

 河村はその隙に「害獣用スタンガン」を押し当てた。

 バチバチッ!

 サハギンは悲鳴も上げず、泥のように崩れ落ちて動かなくなった。

「……こんなのが、配管を這い回っているのか」

 河村は震える手で無線を取った。

 サハギンの口元からは、昨日の餌であるアジの頭がこぼれ落ちていた。

 こいつは、配管の中で餌を食い、排泄し、そして自分の爛れた皮膚を撒き散らしていたのだ。


第三章:深海の肉塊と、大人の判断

 応急処置を終えた頃には、夜の帳が下りていた。

 「ナイト・アクアリウム」の開館時間だ。

 館内は暗く落とされ、水槽だけが青白く浮かび上がる。

 河村は、一番奥にある「深海コーナー」の特殊水槽の前に立っていた。

 高水圧を再現した、光の届かない世界。

「河村さん……あれ、なんですか?」

 後輩が、震える声で水槽の底を指さした。

 岩陰に、「それ」はあった。

 一見すると、白っぽい岩か、巨大なカイメンに見える。

 だが、河村がペンライトの光を当てた瞬間、その輪郭が浮かび上がった。

 

 水圧で押しつぶされ、ひしゃげているが、それは確かに二本の腕と、頭部を持つ人型だった。

 Z化した水棲モンスターの成れの果てか、それとも――。

 その「頭部」と思われる部分の両脇にだけ、びっしりとフジツボが付着していた。

 まるで、「耳」の形を模倣するように。

 

 さらに、水槽の循環ポンプが「ブーン」と唸るたびに、その肉塊の一部が、ゆっくりと、風船のように膨らんでいくのが見えた。

 呼吸ではない。

 水槽内の汚れとウイルスを吸い込み、体内で培養し、また吐き出しているのだ。

「……生きてるんですか、あれ」

「さあな。だが、あれを引き上げようとしたら、水槽の水が一気に濁るぞ。ウイルス濃度が跳ね上がる」

 後輩が青ざめた顔で言う。

「閉館しましょう。今すぐ水を抜いて、消毒しないと……」

 河村は、ガラスに映った客たちの笑顔を見た。

 そして、脳裏に浮かんだのは、今月の売り上げデータと、来週出産を控えている同僚の顔、そして奨学金を返しているアルバイトたちの顔だった。

 ここで「全館閉鎖・消毒」を宣言すれば、風評被害も含めて、この水族館は終わるかもしれない。彼らの生活も道連れにして。

 河村は、手首の赤い湿疹を強く掻きむしった。

 痛みで、良心を誤魔化すために。

「……いや、そのままにしておけ」

「えっ?」

「あれは、今日から展示物だ。『深海の謎の生態』とでも言っておけ」

 河村は後輩から目を逸らし、バックヤードへと歩き出した。

 ガラスの向こうでは、カップルが肉塊を指差し、「なんか動いた!」「キモかわいくない?」とはしゃいでいる。

 水族館の閉鎖された水の中で、死なない命のスープが循環し続ける。

 河村の背中は、水槽の青い光に照らされて、どこか幽霊のように頼りなく揺れていた。

(第八話 完)

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