第2話 最下位の朝

 しばらく外を眺めてから、重い腰をあげ、ベッドから降りた。

 気づくと、つけっぱなしのテレビからは星座占いが流れている。

  

 占いなんてばかばかしい。

 そう思いながらも、つい自分の星座が何位なのか気になってしまう。こういう自分の乙女チックな部分が女々しくて嫌いだ。

  

 綾斗はテレビ画面を目の端で確認しながら、出社の支度を進めた。

  

 白シャツに紺のネクタイを締め、黒のスラックスにベルトを通す。

 つい先日、ベルトの穴を内側に新しくあけた。

 今年に入って体重が急減したのだ。

 

 原因はわかっている。年末に恋人と別れたからだ。

  

 別れたその日から、綾斗は働きまくった。心の隙間を埋めるように、物理的な時間の隙間を埋めるように。

 少しでも時間があると、寂寥感に襲われてしまいそうだった。

 ご飯を食べる時間も削り、ただ働いて、寝て、そして働いた。

  

 そんな生活を続けて半年。体重は驚くほどに減っていった。

 元々華奢だった腕は更に細くなり、あと一歩で不健康というところまできている。

  

 去年の夏より二つも位置がずれたベルトを見ながら、男として情けなく思う。

 テレビの横に置かれた姿見に映る自分を見て、貧相という言葉が浮かんだ。

 脂肪はないが、筋肉もない。とても魅力的には見えない。

  

 現実の自分の姿から目を逸らすように、ふたたびテレビに目を向ける。


 依然として自分の星座は呼ばれていない。

 この流れだと確実に順位は下だ。何だか嫌な予感がする。


――せめて最下位ではありませんように。


 そう祈るようにテレビ画面を見つめる。

 だが、その祈りは虚しくも、あっけなく散った。

  

『十二位は、ごめんなさい、牡羊座のあなた。油断していると、仕事でミスをしてしまうかも。でも大丈夫! ラッキーアイテムの黒い靴を履けば、運命の相手に会えること間違いなし』

  

 占いなんて信じてはいない。これっぽちも興味ない。

 だけど、十二位なのは解せない。


 占い最下位という称号に、支度する手が一層遅くなる。

 

 そもそも『運命の相手に会えること間違いなし』だなんて言い切っていいのか。

 それを信じた人から『黒い靴を履いたけど、運命の人に会いませんでした』なんて苦情を言われたりしないのだろうか。

  

 たかがテレビの占いに感情的になっていると、画面左上のデジタルの時刻表示が目に留まった。

 十時十分。

  

 瞬間、体中の血が逆流したように、ぐわっと熱くなった。何かの間違いであるのを祈るように、部屋の壁にかけられたアナログ時計を急いで見る。

  

 十時十分。

 時計の針は動きを止めない。

  

 一気に熱くなった身体は、今度は一気に冷えていく。全身の血が重力を持って下に降りていくようだった。

 たらりと背中に冷たい汗が流れる。

  

 完全に遅刻だ。

 よりによって今日遅刻するとは。またゴキ原に嫌味を言われる。

  

 ゴキ原とは、塾で同じ国語を担当している郷原のことだ。

 真っ黒の髪に塗られたポマードがやけにテカテカしていることから、ゴキブリのようだと、生徒に影で『ゴキ原』と呼ばれている。


 ただでさえ目をつけられているのに、遅刻でもした日にはもっと粘っこく責められるに決まっている。ゴキ原のドヤ顔が脳裏に浮かんで胃が痛む。

  

 ちゃんと朝早くに起きたのに。のんびりしすぎて遅刻なんて。

 今日はついてない。最前の占いを思い出しながら、早速当たっていると泣きたくなる。

  

 慌ただしく玄関へ向かい、いつも履いている茶色の革靴に足を入れようとして、綾斗は動きを止めた。

  

 先ほどの占いが頭をよぎる。


――ラッキーアイテムは黒い靴。


 一秒でも早く家を出なければいけない状況だ。でも、どうせ遅れるなら数秒の差はもはや誤差だろう。

  

 綾斗は靴箱から、黒の革靴を取り出した。少し埃を被っているが、いまはそんなこと気にしてる場合じゃない。

  

――ラッキーアイテムよ、どうかこの状況を救ってくれ。


 そう、藁にも縋るような気持ちで、年季の入った靴に足を入れ、これで運気が上がらなかったら、テレビ局に苦情をいれてやると鼻息荒く、飛び出るように部屋を出た。

  

 時間よ止まってくれ。

 いや、止まっても遅刻は変わらない。時間よ戻ってくれ。

 パニックになっている頭でそんなことを考えながら部屋にカギをかけ、アパートの通路に目を向けた時、体が止まった。


 目の前に、行く手を阻むように、ダンボールの山が置かれているのだ。

  

「・・・・・・まじかぁ」


 どうやら神様は自分を職場まで行かせないつもりらしい。

 今日の運勢が重くのしかかる。

  

 その時、ダンボールの隙間から、空き部屋のはずの隣のドアが開いているのが見えた。

 部屋の中から人の声がする。どうやら新しく越してきたようだ。

  

 綾斗の角部屋の隣は、もう一年以上空き部屋だった。

 それもそのはず、綺麗なマンションが立ち並ぶ中、このアパートは、そこだけ時代に取り残されたようにボロい。


 外壁には蔦がはり巡らされていて、元の白い壁は見る影もない。

 五階建てだというのに、エレベーターはついていないし、いまどき洗濯機が室外だなんて時代錯誤もいいところだ。

 そして、とにかく壁が薄い。

  

 前の住人は、連日のように夜な夜な女を連れ込んでは、ことをいたしていた。

 壁一枚むこうでの卑猥な声に、何度、安眠を妨害されたことか。


 職場から近く、この辺りにしては破格の安さで、さらに、朝陽が綺麗に見えるところが気に入っているので、引っ越すこともできず、ひたすらに耐えた。

  

 今回のお隣さんは、まともでありますように。そう願わずにはいられない。


 それにしても、段ボールが邪魔だ。

 こんなところに置かれては一生仕事にいけない。

 いや、もう一生このままでもいいかもしれない。そうすればゴキ原に嫌味を言われることもないのだ。

  

 行く手を阻む段ボールを目の前に、現実逃避しながら、なんで何もかもがうまくいかないんだ、と悔しさのあまり目を潤ませる。


 その時。ざわっと風が吹きぬけ、木々の擦れる音と共に、隣の部屋から一人の青年が出てきた。

  

 その姿を見て、綾斗は思わず息を吞んだ。

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