【BL】十年越しの朝ごはんを君と

迫いつき

第1話 伸ばした手

 これは夢だ。


 そう気づくのに時間はかからなかった。


 眩しいほど白い空間に、たちばな綾斗あやとは立っていた。


 その向かいには、十歳ほどの少年が綾斗を見上げて立っている。

 少年の顔はもやがかかったようにぼやけていて、いまいち輪郭がつかめない。

 

 けれどそれが誰なのか、すぐにわかった。


 夢だと確信したのは、少年の姿が、十年前のあの頃のままだったから。

 現実であれば二十歳になっているはずの彼は、あの夏を切り取った幼い姿でそこにいた。


 夢だとしても、久しぶりの再会に胸が熱くなる。嬉しさが込み上げてくる。

 話したいことが、聞きたいことが、たくさんあるんだ。

 

 溢れる思いを言葉にしようとしたとき、少年が先に口を開いた。


『思い出って風化していくっていうけど、僕はあの夏のこと忘れないよ。

 忘れないように、何度も何度も思い出そうと思う。出会ってくれて、ありがとう』


 空気を含んだ色素の薄い髪が、蒲公英の綿毛のようにふわふわなびく。

 少年は小さく微笑むと、長い睫毛を伏せ、踵を返して歩き始めた。


 去っていく小さな背中がどこかさみしげで、綾斗は手を伸ばした。


 ――待って。


 呼びかけても、少年は振り返らない。

 追いかけたくて一歩踏み出そうとするも、足は鉛のように重く、びくとも動かない。

 そうしてる間にも、少年の背中はどんどん小さくなっていく。


 ――待ってくれ。ハル! ハルっ……!


 久しぶりに呼んだその名前は、少年には届かなかった。


 もう一度。

 もう一度、ハルに会いたかったんだ。



 ジリリリリリリリリ――


 けたたましいスマホのアラームに、一瞬にして現実に引き戻される。


 薄く目を開けるとそこには、家賃四万八千円のボロアパートの天井が広がっていた。

 ああ、やっぱり夢か。わかってはいたけれど。


 夢の中で少年を掴もうと伸ばされた手は、現実では天井に向けられていた。

 掴む対象を失った手はやり場をなくし、重力に沿って力なくベッドに落ちた。


 少しだけ開いたカーテンの隙間から差し込む光が、空中を舞う埃をキラキラと反射させる。

 綾斗はしばらくその様子を眺めた後、小さくため息を付いて、上体を起こした。


 寝起きの体は、想像以上に重い。通常の何倍もの重力がかかっているかのようだ。

 このままもう一度眠りたくなる誘惑に負けないように、ベッドの上からカーテンに手を伸ばした。


 カーテンを全開にすると、朝陽が部屋いっぱいに広がる。

 目を逸らしたくなるほどに眩しい。

 朝陽がきれいに見えることだけが取り柄のこの部屋に住んでいるのは、多分、あの夏にみた景色が今も忘れられないからだ。


 おもむろにつけたテレビの角に映る時刻は、いつもより数時間も早かった。

 そういえば、今日は朝から出勤だ。気が重い。


 塾講師をしている綾斗は、普段は昼近くまで寝ている。

 しかし今日は来月末から始まる夏期講習のカリキュラム選定のため、いつもより早く家を出ないといけない。


 早く出社準備をしなければ。そう頭ではわかっているものの、重い腰が上がらない。

 ベッドに強い磁場があるように離れられない。

 

 現実逃避でもするように、今朝の夢を、ハルのことを、思い出した。

 

 少しだけ開けていた窓の隙間から、生暖かい風が吹く。

 その風とともに、チリチリチリチリと、せっかちなセミの鳴き声がかすかに聞こえた。

 例年より短かった梅雨が終わり、世界は新しい季節に移り変わろうとしている。


 夏が、もうそこまで来ている。


「あれから十年経つのか……。ハルは……元気かな」


 綾斗は一人だけの部屋で、あの夏の少年を思いながら呟いた。

 言葉はただ宙を舞い、誰の鼓膜も揺らさずに、しゃぼん玉のようにぱちんと消えた。

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