第2話 男子部屋の電話


 旅館『海月荘』の夜は、若さという名の無秩序なエネルギーによって飽和していた。

 三十畳の大広間に敷き詰められた二十人分の布団は、すでに寝具としての秩序を失い、白い波飛沫のように乱れている。消灯の合図とともに教師が去った直後から、部屋は野獣の檻が解放されたかのような喧騒に支配されていた。枕が風を切って飛び交う鈍い音、隠し持ってきたスナック菓子を開けるアルミ袋の乾いた音、そして抑制の効かない笑い声と猥雑な囁き。それらが湿った畳の匂いと、日中に流した汗の酸っぱい臭気と混ざり合い、強烈な男臭さとなって空間に澱んでいる。私はその熱狂の中心から意図的に距離を置き、部屋の隅に陣取った自分の布団の中に頭まで潜り込んでいた。外界の騒音を物理的に遮断する綿布団の重みと、そこに籠る自分の呼気の熱さだけが、今の私を正気につなぎとめる唯一の殻だった。


 掌の中で握りしめたスマートフォンの画面が、暗闇の中で青白く発光している。

 時刻は二十三時を回っていた。本来なら熟睡していなければならない時間だが、私の神経は覚醒剤を打たれたかのように鋭敏に尖り、末端まで痺れるような緊張感に支配されている。液晶画面に表示された「高梨琴音」の四文字が、単なる連絡先の名前ではなく、触れれば火傷をしそうな熱源のように感じられた。昼間の保健室での出来事、彼女の指先が私の太腿に食い込んだ感触、そして「夜、部屋に来て」という背徳的な招待状。それらが脳裏でフラッシュバックを繰り返し、私の心臓を肋骨の裏側から激しく叩き続けている。私は一度深く息を吸い込み、肺の中に充満する熱い空気を吐き出すと、震える指先で通話ボタンをタップした。


 呼び出し音は鳴らなかった。まるで向こうもその瞬間に画面を見つめていたかのように、ワンコールもしないうちに通話がつながる。


「……もしもし、悠真?」


 イヤースピーカーから流れてきた声は、想像していたよりもずっと近く、そして生々しく鼓膜を震わせた。電波に乗って圧縮されているはずの音声なのに、彼女の吐息の湿り気や、唇が離れる瞬間の微かな粘着音までもが、直接耳元で囁かれているかのように鮮明に伝わってくる。私は布団の中で身体を丸め、受話器を耳に強く押し当てた。この薄いプラスチックの板一枚の向こう側に、禁断の果実がある。その感覚が、私の下腹部に重く鈍い疼きをもたらした。


「……ああ、俺だ。今、大丈夫か?」


 私は声を極限まで潜め、布団の繊維に唇を擦り付けるようにして問いかけた。周囲では、隣のクラスのバスケ部員が「好きな女子ランキング」の発表を大声で始めており、その野卑な笑い声が私の「秘密」を脅かすノイズとなって降り注ぐ。この薄い結界の外側には、ありふれた健全で下世話な男子高校生の日常がある。しかし、私が今つながっている回線は、そんな日常とは隔絶された、罪の周波数で調整されていた。


「うん、大丈夫だよ。みんなで恋バナしてて、盛り上がってるとこ。……ちょっと抜けてきた」


 琴音の声は、不自然なほどに明るく、弾んでいた。

 背景からは、キャーキャーという黄色い歓声や、手を叩いて笑う女子たちの声が微かに漏れ聞こえてくる。それは修学旅行という非日常を楽しむ少女たちの、屈託のない祝祭の音だった。しかし、私の耳はその「明るさ」の裏側に張り付いている、微細なノイズを聞き逃さなかった。彼女の声のトーンは、普段のそれよりも半音高く、そして語尾が僅かに震えている。それは、無理をして作った笑顔が頬の筋肉を痙攣させるように、痛みを隠して振る舞う人間特有の、脆い響きを含んでいた。


「足、どうだ。痛みは引いたか?」


 私は努めて冷静な、委員長としての「管理者」の口調を装った。しかし、その言葉の裏には、彼女の柔らかなふくらはぎの感触や、テーピングを巻く際に感じた肌の熱さを確かめたいという、どうしようもない渇望が潜んでいる。自分の声が、偽善者のそれのように響くことに嫌悪感を抱きながらも、私は彼女の反応を待った。


「全然平気! 湿布貼ってるし、これくらい余裕だよ。……心配しすぎだってば、悠真は」


 琴音は笑った。しかし、その笑い声の直後に、小さく息を呑むような「っ」という音が混じったのを、私は聞き逃さなかった。

 嘘だ。

 昼間見たあの赤黒い腫れと熱感が、数時間で引くはずがない。彼女は今、この瞬間も激痛に耐えながら、周囲の友人に悟られないように笑顔の仮面を貼り付け、私に対してさえも気丈に振る舞おうとしている。その健気さと、痛々しいほどの強がりが、私の胸を鋭利な刃物で抉るように締め付けた。彼女は「平気」と言うことで、私を安心させようとしているのか、それとも「来てほしい」という本音を隠すための逆説的なサインなのか。


「……本当に平気なのか? 熱持ってたぞ」


「平気だってば。……でも、ちょっとだけ、ズキズキするかな」


 受話器の向こうで、衣擦れの音がした。おそらく彼女は今、部屋の隅か廊下に出て、壁に寄りかかりながら患部をさすっているのだろう。その姿がありありと脳裏に浮かび、私の想像力を刺激する。彼女の孤独。華やかな女子部屋の喧騒の中で、たった一人、誰にも言えない痛みを抱えている少女。その孤独を共有し、癒やすことができるのは、世界で私一人しかいない。その事実が、私の中に眠っていた歪んだ使命感と、男としての独占欲に火をつけた。


「……薬、飲んだか? 痛み止めの予備、俺が持ってる」


 それは、自分でも驚くほど自然に出てきた「口実」だった。

 痛み止めなら保健室に行けばもらえるはずだ。あるいは、引率の教師に言えばいい。わざわざ男子生徒が、消灯後の女子部屋に届ける必要など論理的には存在しない。しかし、私の脳は瞬時にして「彼女は移動が困難である」「教師に知られれば大ごとになり、彼女が恐れる『集団行動の阻害』につながる」というロジックを構築し、私の行動を正当化する準備を完了させていた。


「え……いいの? でも、男子禁制だよ?」


 琴音の声色が揺らいだ。拒絶ではなく、期待を含んだ躊躇い。

 彼女もまた、この会話が単なる「体調確認」ではなく、その先にある「密会」への助走であることを理解しているのだ。電話回線という電子的な緒を通じて、互いの体温と欲望が共振し、増幅していくのを感じる。男子部屋の汗臭い熱気とは異なる、もっと甘く、そして危険な熱が、私の血管の中を駆け巡る。


「誰も見てない。先生の見回りはさっき終わった。……今から行く」


 言葉にした瞬間、心臓が爆発しそうなほど高鳴った。

 もう後戻りはできない。この布団を出て、廊下を歩き、彼女のいる場所へ向かう。それは単なる移動ではなく、私たちがこれまで守ってきた「優等生」「委員長」「幼馴染」といった安全な殻を脱ぎ捨て、共犯者という名の泥沼へと足を踏み入れる儀式だった。


「……うん。待ってる。……鍵、開けとくから」


 その囁き声は、まるで悪魔の誘惑のように甘美で、私の理性の最後の砦を粉々に打ち砕いた。「鍵を開けておく」。その言葉が意味するのは、物理的な錠の開錠だけではない。彼女の心、そして彼女の身体へのアクセス権を、私に委ねるという降伏宣言に他ならなかった。


 通話が切れた後も、私はしばらく動けなかった。

 耳の奥にはまだ彼女の声の残滓がこびりつき、掌にはスマートフォンの熱が残っている。布団の外からは相変わらず、男子たちの馬鹿騒ぎが聞こえてくる。「お前、マジでA組の佐々木狙ってんの?」「やめとけって、あいつ彼氏持ちだろ」。彼らの会話は、あまりにも無邪気で、そして遠い。彼らは知らないのだ。この薄い壁の向こう側で、もっと切実で、もっと深い秘密が進行していることを。


 私はゆっくりと布団を跳ね除けた。

 冷房の効いた部屋の空気が、火照った肌に冷たく触れる。私はジャージのポケットに、昼間保健室からくすねてきた鎮痛剤のシートと、気休め程度の冷却ジェルシートをねじ込んだ。これが私の通行手形であり、言い訳であり、そして武器だ。

 立ち上がると、視界が少しだけ揺れた。友人の一人が「おい望月、トイレか?」と声をかけてきたが、私は曖昧に頷き、振り返らずに部屋を出た。


 廊下は静まり返り、非常灯の緑色の光だけがぼんやりと足元を照らしている。

 長い廊下の先、女子棟へと続く闇は、怪物の口のように大きく開いていた。私はスリッパの音を極限まで殺し、忍び足でその闇へと歩を進める。一歩進むごとに、背中の後ろで「日常」の扉が閉じていく音が聞こえるような気がした。もう、引き返せない。私の足は、磁石に吸い寄せられる鉄粉のように、琴音の待つ熱源へと向かっていた。


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