ジャージの下の衝動

舞夢宜人

第1話 医務室の消毒液と熱


 十月の斜陽が、古びた校舎の廊下を毒々しいほどの茜色に染め上げていた。明日に迫った修学旅行の予感が、放課後の空気を微熱を帯びたものに変えている。教室からは浮足立った生徒たちの笑い声や、ガイドブックを叩く乾いた音が絶え間なく響いてくるが、保健室の重い引き戸を一歩またぐと、世界は薬品の冷たい匂いと沈黙に支配された。外界の喧騒が水底のように遠のき、鼻腔を突くエタノールと湿ったリノリウムの臭気が、私の意識を強制的に「責任」という名の現実に引き戻す。私は手にした救急箱の冷ややかな感触を確かめ、薄暗い部屋の奥にあるパイプベッドへと視線を向けた。


「ごめんね、悠真。なんか、大げさになっちゃって」


 カーテンの隙間から漏れる西日を浴びて、高梨琴音がベッドの縁に腰掛けていた。彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げて笑ったが、その表情には隠しきれない焦燥と、脂汗のような湿り気が張り付いている。普段はクラスのムードメーカーとして太陽のように振る舞う彼女だが、今はその明るさが、ひび割れた仮面のように危うく見えた。私は無言で首を振り、彼女の足元に跪く。それはまるで、これから始まる背徳的な儀式の前の、恭しい服従の姿勢のようでもあった。


「いいから、見せてみろよ。明日は京都中を歩き回るんだぞ。悪化してたらどうするんだ」


 努めて事務的な口調を装ったが、自分の声が喉の奥で僅かに軋むのを感じた。琴音は躊躇いながらも、エンジ色のジャージの裾に指をかけ、ゆっくりと、本当にゆっくりと引き上げ始める。衣擦れの音が、静まり返った保健室の中で異様に大きく鼓膜を叩いた。


 露わになったのは、白磁のように滑らかなふくらはぎと、それとは対照的に赤黒く腫れ上がり、湿布のかぶれで無惨に爛れた足首だった。私は息を呑んだ。それは単なる捻挫の痕ではなかった。彼女が「みんなに迷惑をかけたくない」という一心で、痛みを隠し、無理やり歩き続けた代償そのものだった。皮膚は熱を持って張り詰め、脈打つ血管が透けて見えるほどに薄くなっている。消毒液を含ませた脱脂綿を近づけると、彼女の足指がキュッと内側に丸まり、小さく痙攣した。


「痛いか?」


「ううん……ちょっと、沁みるだけ」


 嘘だ。彼女の喉元が小さく上下し、腿の上で握りしめた拳が小刻みに震えているのが視界の端に見える。私は脱脂綿を患部に押し当てないよう、細心の注意を払って汚れを拭い取っていく。指先を通して伝わってくる彼女の体温は、平熱よりも明らかに高く、触れている私の指の腹まで火傷しそうなほどの熱量を孕んでいた。消毒液の揮発する冷たさと、彼女の肌の生々しい熱さが混じり合い、私の指先で奇妙な感覚の渦を作る。それは「治療」という聖域の中で許された、合法的な接触の快楽に近いものだった。


 私は新しいテーピングテープを取り出し、彼女の足首を固定しにかかった。足首を掴むと、彼女の身体がビクリと跳ねた。私の掌は大きく、彼女の華奢な足首など容易に握り潰せてしまいそうだ。その脆弱さが、私の内側にある、庇護欲とも加虐心ともつかない昏い衝動を刺激する。足の甲から踵へ、そして足首へとテープを巻き上げるたびに、私の指は必然的に彼女の肌の上を這うことになる。ジャージの裾から覗く素肌の面積が、私の視線を引き寄せて離さない。健康的な筋肉のついたふくらはぎの曲線、膝裏の白く柔らかそうな窪み。そこには、教室で見せる「元気な高梨さん」ではなく、痛みと熱に晒された一人の「雌」としての肉体があった。私は視線を患部だけに固定しようと必死になりながら、乾いた唇を舐めた。


「……こんなになるまで、なんで我慢したんだ」


 テープを切りながら問いかけると、琴音は溜息混じりに天井を見上げた。その横顔に落ちるまつ毛の影が、西日で長く伸びている。


「だって、修学旅行だよ? 私が歩けないとか言ったら、班のみんなが気を使うでしょ。美咲とか、絶対『マジ最悪』って言うし。……私、そういう空気になっちゃうのが一番怖いんだ」


 彼女の言葉は、この年代特有の強迫観念に満ちていた。集団の調和を乱すことは、死に等しい。そのためなら、自分の肉体が悲鳴を上げていても笑顔で蓋をする。その歪な自己犠牲の精神が、私には痛々しく、そして堪らなく愛おしく思えた。彼女の足首の腫れは、彼女が必死に守ろうとしている「日常」の重みに他ならない。私は巻き終えたテーピングを掌で包み込み、接着を安定させるという名目で、その熱をもう少しだけ感じていたかった。


「無理するなよ。……痛かったら、俺にだけは言え」


 その言葉は、委員長としての責任感から出たものだったはずだ。しかし、口にした瞬間、それが「二人だけの秘密」を提案する誘い文句に変質したことに気づき、背筋に冷ややかな汗が流れた。琴音が視線をゆっくりと下ろし、私を見る。夕闇が迫る部屋の中で、彼女の瞳だけが濡れたように潤み、妖しい光を宿していた。彼女は私の意図を、あるいは無意識の下心を見透かしたかのように、少しだけ口角を上げた。


「じゃあ、明日も見てくれる?」


 その声は甘く、粘り気を帯びて鼓膜に絡みついた。


「……明日は移動が多い。新幹線の中とか、宿に着いてからとか、確認しないと悪化するかもしれないしな」


 私は早口で、誰に聞かれているわけでもない言い訳を並べ立てた。医学的な根拠、管理責任者の義務。それらの言葉の盾を並べれば並べるほど、自分の動機が不純なものに染まっていくのを自覚する。


「うん。お願い。……悠真の手、大きくてあったかいから。触ってもらうと、痛いの飛んでいく気がする」


 琴音はそう言って、テーピングされた足を私の太腿に押し付けるようにして体重を預けてきた。ジャージ越しの接触だが、その重みと体温がダイレクトに伝わり、私の下腹部に重く鈍い熱を灯す。彼女は知っているのだ。自分の弱さが、男にとってどれほどの武器になるかを。あるいは、痛みによる心細さが、彼女の本能的な防衛本能を狂わせ、誰かに縋りつかせようとしているのかもしれない。


 遠くで、下校を促す放送のチャイムが鳴り響いた。それは、この密室の魔法を解く合図であると同時に、私たちが越えてはならない一線を越えるための開始のゴングのようにも聞こえた。私はゆっくりと彼女の足をベッドに戻し、立ち上がる。膝の関節が軋み、長い時間緊張していたことを身体が訴えていた。


「……とりあえず、今日は家で冷やしておけよ。湿布、余分に持たせるから」


「ありがとう。……ねえ、悠真」


 帰り支度を始めた私の背中に、琴音が声をかけた。振り返ると、彼女はベッドの縁を両手で強く握りしめ、上目遣いで私を見つめている。


「夜、部屋に来てくれるよね? ……みんなには内緒で、足の具合、見てほしいから」


 心臓が、肋骨を内側から殴りつけるように跳ねた。女子部屋への入室は校則で厳禁されている。ましてや夜間など、見つかれば即刻停学、あるいは退学処分もあり得る重大な違反だ。しかし、彼女の瞳の奥にある「拒絶されることへの恐怖」と「共犯者への期待」が入り混じった光を見た瞬間、私の口から拒否の言葉は出てこなかった。


「……ああ。点呼が終わった後、連絡する」


 それは、私が「望月悠真」というただの真面目な男子生徒から、彼女たちの「共犯者」へと堕ちていく契約の瞬間だった。琴音は安堵したように息を吐き、花が綻ぶような、それでいてどこか共犯めいた笑みを浮かべた。


「待ってるね」


 保健室を出ると、廊下はすでに夜の闇に沈みかけていた。窓の外には、明日私たちが向かう街の灯りが遠くに見える。私の右手には、まだ琴音の足首の熱さと、消毒液のツンとする匂いがこびりついて離れない。私はその手をズボンのポケットに深く押し込み、誰にも見られないように拳を握りしめた。掌に残る感触は、これから始まる修学旅行が、決して明るい青春の思い出になどなり得ないことを、残酷なほど雄弁に物語っていた。熱病のような衝動は、もう始まっている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る