第2話理人の苦悩

 俺は別れてからも忘れられず、弥刀の様子を見に行った。

 気付かれないように、ガラス越しに店の奥を覗く。


 弥刀は、髪を少し切って少し痩せたように見える。

 でも相変わらず、笑うと目がくしゃっとして優しい。

(……生きてる、ちゃんと前を向いてるんだ)


 それだけで、胸が痛いほど安心する。

 そして同時に、自分がその笑顔の“外”にいることを実感して、刺さるように寂しくなる。


 通りを歩く人に紛れながら、ふと独り言のように呟く。(また来よう。見られるだけでいいから)


 そして、次の現場へ向かうタクシーの中で、窓の外に流れる街並みを見つめながら、ふと笑ってしまう。

(片想いのときと一緒だな。何も変わってない。変わったのは、俺の立場だけか…)


 それから2ヶ月後の夕暮れどきの街、柔らかい灯りが店の窓に映る。

 時間ができた理人は、黒いキャップを目深にかぶり、マスクで顔を隠して立っていた。

(また来てしまった、俺やばいな)

 ただの通行人のふり。けれど、目は一瞬も弥刀から離れない。


 店の中では弥刀が、男性客と笑顔で話していた。

 年上の常連らしい、軽い冗談を言って笑わせている。


(その笑い方……俺の前でもしてたよな。違う。あの笑顔は俺だけのもんだったはずだろ)


 喉の奥が焼けるように痛い。

 胸の奥がぎゅっと縮んで、息が乱れる。

(誰だよ、あいつ。なに話してんだよ。そんな近くで、名前呼んでんじゃねえ)


 理性が崩れる音がした。

 気づいたらポケットの中で拳を握りしめていた。

(笑ってるのが嬉しいはずなのに、なんでこんなに気持ち悪くなるんだろ。どうして“安心”と“嫉妬”が同じ場所にあるんだ)


 弥刀がその客にお釣りを渡すとき、指先が一瞬触れた。

 ほんの数センチの距離。

 それだけで、頭の中が真っ白になる。

(無理だ。見てられない)


 足が勝手に動く。

 その場を離れるように歩き出すが、視界の端にまだ弥刀の店の灯りが残っていて、遠ざかるたびに胸が締めつけられる。

(なんで別れたんだっけ。弥刀のためとか、格好つけて。結局、俺が逃げただけじゃねえか)


 街灯が連なって、夜の風が吹く。

 理人は思わず壁に手をつき、下を向いた。

 マスクの下で、息が荒くなる。

(弥刀に触れた男の指。その指を洗ってほしいって思ってしまう自分が、最低だ)


 スマホを開く。

 LINEのトーク画面には「弥刀」という名前。

 指が震えて、“既読つかない”ことをわかっていながら、文字を打つ。


「笑ってたな」

「元気そうだった」

「でも、俺はまだ、だめみたいだ」


 送信ボタンを押さず、全部消す。

(俺、まだ弥刀の隣にいける人間じゃない)


 顔を上げると、店の明かりが消えていた。

 代わりに、ショーウィンドウのガラスに、自分の顔が映っている。

 俳優の顔でもなく、男としても情けない、壊れかけた自分の顔。


(……お前、なにやってんだよ)

 ポツリと呟いて、歩き出す。


 夜の街は、やけにうるさい。

 笑い声、グラスの音、香水の匂い、全部が“紛らわせ”のために混ざりあっている。

(忘れる。今日は、弥刀の顔、思い出さない)


 そう決めて、誘われるままに飲みに出る。

 向かいに座る女の子が笑ってる。

 長いまつ毛、派手なネイル。

 こっちの話に「すご〜い」って手を叩いてくれる。


 けど、その拍のタイミングが、弥刀と違う。

(あ、違う。弥刀は、驚いたとき眉がちょっと下がるんだ)


 グラスを口に運んでも、味がわからない。

 その子が腕に触れてくる。

 一瞬、ゾワっとして息を呑む。

(やめてくれ。そこに触れられると、“弥刀”を思い出す)


 気づけば、話が続かない。

「疲れてるの?」って聞かれて、無理に笑ってごまかす。


(この子のせいじゃない。悪いのは俺だ)


 夜が終わって、家に帰る途中。

 歩道橋の下を通る風が冷たくて、やけに静か。

(楽しかったふり、してるだけだったな。誰といても、笑い声の間に弥刀の声が差し込んでくる)


 ポケットの中でスマホが震える。

 別の子からの「また飲もうね♡」のメッセージ。

 返信しない。画面を伏せる。


(俺が欲しいのは、弥刀からの連絡だけなんだよ)


 誰も悪くない夜。

 でも、誰も埋められない夜。

 そんな夜が、増えていく。

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