第9話
目が覚めると、隣で私の手を握ったままの歌子さんがいた。
皐月はすぐに、記憶が失われていないかを確かめた。だが、私は「記憶喪失だった」という記憶がちゃんと残っていることに気づき、ほっと胸をなでおろす。
歌子さんは目が覚めた私に気づくと、ぱっと顔を明るくした。そのまま私の手を顔に寄せて、
「良かった、お姉さんが死ななくて……」
と、小さく呟く。その声は微かに震えていた。
すぐに表情を引き締め、今度は
「皐月様が目覚めました! さあ、きびきびと動きなさい!」
と部屋の使用人たちを一括。
「少し待っていてください」と私に言い残し、部屋から去っていった。
……この既視感、前にもあったな。
今いるのはこの間とは違う部屋らしい。どこだか分からないけれど、異様に優しい歌子さんがいるならきっと大丈夫だろう……いや、むしろ警戒すべき?
そんな複雑な思いで考え込んでいると、一人の男が入ってきた。
難しい専門用語ばかり並べているので、すぐに医者だとわかった。私の様子を一目見ると、入っていいぞ、と彼は言った。すると歌子も戻り、ついでに目を赤く潤ませた香具土も部屋に飛び込んできた。
「お嬢様ぁ……生きてて良かったぁ……死んじゃうかと思ったぁ……」
香具土は私の胸に顔を埋め、わんわんと泣き始めた。
「私はそんなに簡単に死なないわよ」と彼女を宥めていると、先ほどの医者が口を開く。
「いや、さっきまでお前、死にかけだったぞ」
あまりにも冷静にそんなことを言うので、私はぽかんと口を開けてしまった。
「狼退治のとき、結構な霊力使っただろ? 一体どうやって群れを追い払ったんだ?」
そう聞かれ、私はぽつぽつと答える。
「最初はただの凶暴な狼の群れだと思って。でもあまりにも強いから……。いろいろ考えているうちに、山犬という妖怪のことを思い出したの。普段なら“ご苦労だった”と言えば帰ってくれる。でも今回は正気じゃなかったから、少し霊力を込めておにぎりを作った。そうしたら落ち着いて、私の言葉に従って山に帰っていったの」
そう説明しながら、あの後に出会った“白い影”のことを思い出す。また大きな寒気に襲われる。……でも、みんなを不安にさせたくなくて、そのことは黙っていることにした。
そして、皐月はまた新たな謎に気づく。なぜ、私はあんなに自然と霊力が使えたのだろう。
すると、ずっと立っていた歌子さんが静かに口を開く。
「そこに立っているのは、円慈という医者です。」
私は円慈さんの方を向き、深く頭を下げた。
「この度は死にかけたところを助けていただき、本当にありがとうございました。」
だが、円慈はそっぽを向いてぶっきらぼうに言う。
「いや、今回は俺はほとんど何もしてねぇよ。全部歌子だ。こいつ、お前のなくなった分の霊力、ずっと注いでたんだぞ?」
私は思わず顔が青ざめる。
(さっき手を握っていたのは、そういう理由だったのか!?)
今までどれだけ迷惑をかけたか……指を折って数えてみようとしたが、全然足りなくて、ただただ申し訳なさが胸に詰まる。
そんな私の様子を察して、歌子さんは柔らかく微笑んで「どうか気にしないでください」と優しく声をかけてくれる。
「五月様、もし体調が回復していたら……二人で少し、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「今は空いています」
そう答えると、歌子さんは無言で他の二人を部屋から追い出し、部屋の隅に座布団を置いて、その上に静かに座った。その表情はどこか真剣で、けれどとても大切に思っているのが伝わってくる。
「お身体は、本当に大丈夫ですか?」
心からの心配そうな声音に、私は改めて感謝の気持ちが溢れる。
「はい、おかげさまで。身体はすっかり元気です。本当にありがとうございます。どうご恩を返せば良いか……」
そう言いかけると、歌子さんが慌てて両手を振って遮る。
「本当に気にしないでください。それに、もう十分、むしろ余るほどいただいています。先日の狼の騒ぎで、この国のために本当にありがとうございました。」
そう深々と頭を下げる歌子に、私は慌てて口を開く。
「い、いえ。本当に偶然その場にいただけですから。困っている人がいれば、助けるのは当然でしょう…?」
そう言うと、歌子さんは少しずつ頭を上げていった。
少し空気が重くなり、皐月は話題を変えようとした。
「そういえば、さっき私が目を覚ましたときに、歌子さんが“お姉さん”って呼んでいましたけど……なぜですか?私の方がどう見ても年下でしょうに」
「わ、私、そんなこと言っていましたか……?恥ずかしい……。」
歌子は一気に顔を赤らめ、両手で顔を覆ってしまう。
やがて、指の隙間から少しだけこちらを見て、ゆっくりと手を下ろすと、ひと呼吸置いて言葉を続けた。
「……皐月さん、あなたが私の昔とても尊敬していた恩人と雰囲気がよく似ているんです。その人のことを“お姉さん”と呼んでいて、その名残かもしれません」
そう言って歌子は苦笑いをした。
その目はどこか寂しそうで、悲しそうで――けれど、まっすぐに皐月を見つめていた。
また沈黙が流れる。気まずさを感じたのか、歌子がすぐに話題を切り替えた。
「……本題を忘れていました。皐月様、これからどうなさいますか?」
「どうする、というのは?」
歌子は真剣な顔をして続ける。
「皐月様は今、記憶を無くしておられます。探したい気持ちは当然としても、香具土の話では大した手がかりもなかったようです。そこで、二つ案があります。一つは、このままこの国や他の国で記憶を探すこと。もう一つは、過去に囚われず、この国で一から暮らしてみること――正直、迷うところだとは思いますが、私は後者も悪くない選択だと思っているんです」
皐月はしばらく考えてから、ゆっくりと答えた。
「こんなに私のことを考えてくださり、ありがとうございます。二つ目の案も素敵だと思います。でも……やっぱり自分の過去は知りたいです。自分のことは、自分でもちゃんと知っておきたいので……」
皐月の言葉に、歌子はほんの少し、寂しそうに微笑んだ。
「わかりました。では、これから住む場所についてですが……もしこれからあちこちを巡るなら、決まった家を持つのは難しくなると思います。新しい提案なのですが、先日の山犬の件で、お釣りが返るほど十分すぎるお礼をいただいてしまいましたので、その資金をお渡しして宿に――」
皐月は慌てて話を遮った。
「そ、そんなにいただけません! 今まで本当にお世話になったのに、これ以上は……」
「本当に気にしないでください!」
歌子も負けじと押し返してくる。
「でも……」
皐月が遠慮がちに言葉を濁すと、歌子がおずおずと続きを口にした。
「じゃ、じゃあ、一つだけ、我儘を言ってもいいですか? 烏滸がましいのは重々承知です……」
不思議そうに皐月は首を傾げる。
「何ですか?」
歌子は恥ずかしそうに、もじもじと打ち明ける。
「あ、あの、もう私に敬語を使わなくていいんです。香具土や他の人と話すみたいに、普通に。もしよければ呼び捨てで……。その、お姉さんを思い出して安心する、というか……その……」
歌子がボソボソと目を逸らしながら言っているのを見て、皐月は思わず吹き出してしまった。
「ど、どうして笑うんですか!?」
顔を真っ赤にした歌子に、ますます面白くなり、皐月はしばらく笑いを堪えられなかった。
国主として皆から威厳をもって恐れられている歌子が、自分みたいな相手にそんなお願いをする——その不釣り合いさが、どうしようもなく愛おしくて可笑しかった。
「ごめんなさい。わかった、もう敬語やめるわ。……たくさんありがとう、歌子。」
そう言うと、さっきまで俯いていた歌子がパッと顔をあげ、目を潤ませながら、嬉しそうにこちらに向かって優しく微笑んだ。
「もし今後困ったことがあれば、遠慮せず私のところへ来てください。それか、さっきの医者――円慈のところでも。彼は、私の親友なんです。さっきはちょっと冷たかったですが……まあ腹の虫の居所が悪かったのでしょう。一応、信頼はできる男のはずです。」
そう言って歌子はゆっくりと立ち上がった。
「今日はもうお休みください。病み上がりで体も疲れているでしょう。必要な手配はこちらで整えておきますから。」
柔らかな物腰のまま歌子はそっと部屋を後にする。
私は今までどれだけ彼女に助けられてきただろう。この優しさが時に怪しく感じても、どうしても甘えてしまう、安心してしまうのだ。
そんなことを考えているうちに、体の疲れがどっと押し寄せ、まぶたがゆっくりと閉じていった。
――夢を見た。
目の前にそびえる大きな大木。人々が集い、みんな幸せそうに笑っている。その空気に包まれながら、私は“願いごと”を唱える。
ふと目線の先に、あの黒髪の少女が立っていた。彼女を見ると、どうしようもなく心が温かくなってー。
目が覚めると、歌子さんが静かに隣に立っていた。
「おや、起こしてしまいましたか?すみません」
微笑む声が、朝の光に溶け込む。
「何をしているの?」
「花の手入れをしていました。」
歌子は私の枕元に飾られた花を指差す。
「皐月様が自由に旅をできる準備も整ったので、少しぼんやり花を見ていたんです。こうしていると、心が落ち着くのです。」
そう言って彼女は、小ぶりで丁寧に編まれた葛籠を私に手渡した。少し重みがある。
「きっとこれがあれば、旅先でも困ることは少ないでしょう。生活に必要なもの、資金、服などが入ってます」
「本当に……こんなに……ありがとう」
私は葛籠をぎゅっと抱きしめた。すると歌子は、そっと力強く微笑んだ。
「では、私はやらなければならないことがあるので、これで失礼します。
皐月様の旅が良いものになりますように」
そう優しく告げて、歌子は静かに部屋を後にした。
-共に居たい。 うとな @utn_710_2525
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