はじける

眼鏡犬

短編

平日、に続いて有給と繋げると、どことなく浮き足だった感覚。そわりそわりとした感覚は、初めて訪れた土地と朝の澄んだ空気で、よりもっと浮き足だってしまう。

目的はあった。

遠いフランスから日本に来た絵画の見物、それに散策。けれども、私は一人旅行なので今すぐにこの予定を止めてしまってもいいのだ。自由、あぁ自由。乗ってきた電車が事故で遅れていたことでも、この感覚は消すことはできない。

何にもできる、束の間と知りつつも万能感。

例えば、よく知りもしない路地にこうして、ひょいと入り込んでしまっても良いのだ。

さらには、そのまま進んでしまっても良いのだ。迷っても、時間の損失以外には困ったことはない。なにせ私は自由、あぁ自由。

「ちょっとさ、乗せて運んでくれないか?」

かけられた声に足が止まる。

誰もいない薄暗い路地だ。民家と塀と細い道路と停められた車と自転車。猫もいない。

「ここ、ここ」

男、の声だ。若くはないが、老いてもいない。ここ、の方向には並べられた朝顔の鉢があった。朝顔が喋ることはない。

見ざる、聞こえざるで去るのは簡単だ。けれども、私は身を屈めていた。通勤途中なら思いもしない、好奇心。

「ここ」

朝顔の茂った葉に隠れるように、それはあった。

生首。

生首、ごろり。

傷はない、二十代後半から三十代前半の、眼鏡のない黒髪の男の、生首だった。

確かに私は叫んだ。

生首が謝罪したからだ、突然にごめんと。それにまた、私は叫んだ。

遅れて、心臓が跳ねる。

「何度もごめん。でもお願いがあって。そこの台車に乗せて、この道を真っ直ぐに進んで、僕を運んでくれないか?」

あまりにも平然と喋る生首に、私は釣られた。

「は、運ぶって何?」

「僕を」

「生首を」

「うん。台車はそこ。道はこの道」

「どうして」

「飛ばされすぎちゃった、らしくて。見つからないままなのは、嫌でしょ」

わかるような、わからないような生首の視線の向こうを見る。台車があった。鉢をいくつか乗せている。植え替え途中なのか、肥料とスコップも見えた。

「お願いします」

真剣な声に、また生首を見てしまった。今、私は夢の中だろうか。それとも電車の事故は、私の身に降りかかった出来事、死にゆく瞬間の夢なのか。人身事故とは覚えているから、ひやりとした可能性を感じた。

私はどうすべきか。屈んでいた身体が痛くなり、立ち上がる。ついでに、青い空が見えた。どこまでも、青い。

「よし」

私は決めた。

謝罪をして、不必要な鉢を台車から退かす。大きめの鉢だけは残した。生首を入れるためだ。

「乗せるよ」

「ありがと」

破顔する生首を、恐る恐る持ち上げて鉢の中に置く。お化け屋敷準備中、小道具搬送中、に見えなくもない。

ゆっくりと歩いた。台車の音が路地に響く。大きな音に、誰かに怒られないかと、誰か確認に出てこないかと、脇の下が濡れた。路地は長い。川なんて、見えてこない。

焦り、不安、灰色の感情で足が速くなる。はやい、と喜ぶ生首に、思い出したのは子どもの頃。

町内会のゴミ掃除。台車の運搬係は大人気だった。自分が乗って楽しむものではないのに。

あの金色の一滴が胸中に広がる。

楽しい。

この笑い声は誰だろう。

生首だ、生首も楽しいのだ。

「自由だーっ!」

浮き足立つ。バシン、叩きつけられる万能感。そうだ、私は自由、あぁ自由なのだ。

先に叫んだ生首に負けじと、私も叫ぶ。

走った。走って、走った。

薄暗かった路地が明るくなっていく。風が吹いてきた。水の、音と匂い。

川が見える。見覚えがある。朝の電車から見た川だ。何を探しているのだろう。警察が大勢いる。人を轢いた事故は滞りなく処理されたのか、と一瞬気になるも、私にとっては遠い。フランスから来た絵画が、まだ私には近い。いや、それよりも笑い出した生首だ。川の煌めきだ。空の青さだ。

カンカンカン。踏切の音。

川へ。跳ぶ。

ガコンだがバガンだか、とにかく酷い音がした。台車とガードレールの大接触。前のめりになった私は、次は後ろに台車と共に倒れて。

跳んだのは、生首だけ。

無音。美術品のごとく、青空に鉢入り生首。

「ばいばい。いってきます」

一瞬の出来事で。水音もせずに。台車と私だけが現実で。

笑った。

笑うしかない。

起き上がり、台車を捨てた。ちょうど見えていた自販機に向かう。この気分にピッタリなのは、サイダーのみ。

冷たすぎる缶を手にしたとき。

急に戻ってきた。

人のざわめき、におい、風。じわり、汗をかく。

見つけたぞ、叫びには振り返らない。私にとっては、この喉を鳴らすサイダーがすべて。

「ぷっはぁ」

さぁ私はどこへ行こう。自由、あぁ自由。

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