第2話

 片耳を失った動物が、神様に愛されて「モーフェ」となる。


 それは、伝説のような、おとぎ話のような、事実だった。


 馬のメアの父、ファグはモーフェだった。メアは幼い頃、父がモーフェだと知らなかった。だから、モーフェの話を聞いても信じなかった。


「父さんはモーフェじゃないもの。神様は片耳を失っても愛してくれやしないよ」


 そんなメアの価値観を壊したのは、メアが思春期に入ったくらいの頃、父と喧嘩をした時だった。


「父さんはなんでそんなに偉そうなの!?確かに職場じゃ部下がいるのはわかる、でも家でまで母さんを従える意味がわからない!そんな大人にはなりたくない!」


「メア、別に僕は偉そうにしてはいないよ」


「嘘だ、だって今も余裕じゃん!こっちは本気で嫌なのに!」


「メア、よく聞きなさい。僕はモーフェなんだ。証明書もある。偉そうにしているように見えるのは、周囲が勝手に僕を持ち上げるだけなんだよ」


 メアはそれでも反論しようとして、口が開いたまま閉じなかった。


 父さんが、モーフェ?偉そうじゃなくて、偉いの?モーフェっておとぎ話じゃないの?


 メアが何も言えなくなったのを見たファグは、ゆっくり口を開いた。


「僕がモーフェになったのは、お前より少し若いくらいの頃だった。その後、お前の母さんとの縁談が組まれて、お前が生まれて、母さんは僕に尽くす妻となってしまった。僕は、一緒に人生を歩んでくれるパートナーがよかったけどね。母さんは、僕の立場だけで人生を変えられてしまった一人なんだ。母さんが自ら僕に尽くすことも、僕がそれを否定できない弱い馬であるだけなんだ」


 メアは地面を見ながら、「モーフェって、辛い?」と聞いた。


「辛いかどうかで言えば、わからないとしか。僕は僕の人生しか知らないからね。でも、モーフェであることで周囲をかしずかせるのは、ちょっと嫌だな。僕は僕のせいで人生をゆがめられた人たちに、何も言えないくらい気が弱いから。お前も、その一人だと思うよ。あ、今の話は母さんには内緒にしてくれ。母さんは僕がそう望めば無一文で野原に出て行ってしまうような人だから」


 穏やかに、けれどどこか寂しそうに言うファグの口調に、メアは自分の浅慮を恥じた。


 特別な立場も、人を動かしてしまう称号も、父さんには重かったんだ。父さんが両耳のある馬なら、きっと普通に好きになった人と結婚して、子供を作って、穏やかな家庭を築いて。そして、今のように重圧に押しつぶされそうにはならなかったんだ。


「父さんの耳がないのって、なんでだっけ」


「ずいぶん昔に話したから、覚えていないかな。昔、狼に襲われて、噛み千切られたんだ。その狼は一族揃って謝罪をしてくれたけど、当然僕の一族はそれを受け入れなかった。下手をすれば殺されていたくらい、僕は重症だったからね」


 メアは父の頭を見た。そこには確かに傷跡があり、今でも毛の生え方が歪だ。


「でも、僕ら馬は、耳より目が大切だからね。生活に不便はなかったし、幼かった僕はなんで一族がそんなに怒っているのかわからなかった」


 ファグがメアの顔を見たが、メアは涙が潤んでいるのを隠したくて目を逸らした。ファグも目を逸らして、何かを想像するように目を細めた。


「後から気が付いたけど、馬はとても仲間を大切にするんだね。僕はその感情をどこかで失ってしまったよ。モーフェになったからか、愛のない結婚をしたからか。それとも、最初からなかったのかもしれない」


 メアは震える声を抑えながら、ぼそぼそと言った。


「父さんは、優しいと思う。表情筋は硬いし何考えてるかわからないし、人を使うのが上手いうえにそれを気に病んでる風を見せない。相手が純粋に、父さんに従ってるんだって思える。でも、私は従いたくて一緒にいるわけじゃなかったから、誤解してたのかも」


 ファグに届いているかわからなかったが、ファグの顔は少し穏やかに見えた。


「笑うのが苦手だから分かりづらいだろうけど、僕は今とても幸せだよ」


 メアには、ファグの声がとても穏やかに聞こえた。


 それから、メアはモーフェの話をしなくなった。おとぎ話だと笑うこともなく、ただ穏やかに聞いているだけだった。


 やがてメアは結婚し、子供を授かった。子供にモーフェの話をしたとき、メアはそっと言った。


「お前のおじいちゃんは、モーフェなんだよ。でも、決してすごい人じゃない。普通の動物なんだ」

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片耳のモーフェ 一条志築 @s-ichijo

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