夜更けの迷い路

ヌーバ

帰り道の冒険

 学校が家に近いことは、良いばかりではない。あの頃の自分にとっては、遅刻や忘れ物のリスク対策よりも、友達と一緒に帰れる距離のほうが、ずっと切実な問題であった。後に事情があって家が学校から遠くなった時は、これで友達と一緒に下校できると、密かに喜んだものだ。家族は体力テスト最下位争い常連の私の体力を心配していたようだったが。実際、あの頃を思い浮かべて最初に出てくるのは、元の家からはかなり遠ざかった美しい一本道を友達と歩いている場面である。道は車一台がやっと通れるほど狭く、いわゆる農道であった。両側には田園が広がり、夕焼けが一階建ての地域センターの向こうから、あの日の我々を照らしていた。初めてこの道を通った日には、まるで新世界を発見した冒険者のような気分であった。

 あの道が学年中に広まったきっかけについては、様々な説がある。第一発見者については、疑いの余地がない。だがその後については、友人の記憶と己の記憶が一致しないのだ。どちらもある程度正しい、というのが真相に近そうだ。子供の世界の噂は、短時間で遠くまで広がる一方、身近なところには案外届いていなかったりするものだ。伝言ゲームの途中で中身が欠失した、ということもありうる。前者に関しては、まさに灯台下暗し、といったところか。

 灯台下暗し、という言葉の意味はなんとなく知っていたが、当時はこれと、大正デモクラシーを何故か同じようなものだと思っていた。確かに語感は似ている。大正デモクラシーという言葉とは、小学校の図書室に置かれていた厚めの歴史漫画の背表紙で出会ったが、中身を読んでもデモクラシーの意味は分からなかった。大正時代には、明治のころには見過ごされていた様々な社会問題に注目が集まり始めるので、類似点はなくもないといえるだろう。この手の間違いでは、「うさぎ美味しいかの山」が有名だが、当時の自分はこの歌詞を、「うさぎ追い鹿の山」だと思っていた。なぜこんなおかしな方向に間違えたのだろうか。目立ちたかったから?いや、この解釈が独自の発明であることに気づいたのはずっと後のことであった。カモシカが裏山にいたから。これがおそらく真実である。近所のお婆さんは、家の窓から時々カモシカが見えると言っていた。こうした環境が、「鹿の山」という珍解釈の素地になったのだろう。

 さて、道の話に戻れば、あの道は半年ほど使われたのち、先生に露見して、通行禁止を言い渡されたはずだ。通学路以外を通ってはいけない、というのが、主な理由だった。露見のきっかけは、定かではない。それから数年、私はしばしばその道を一人で歩いたが、一度も小学生の集団と会わなかったことから、のちの世代があの道を開拓することはなかったようである。きっと彼らには別の冒険があったことだろう。

 中学、高校と進学していくにつれ、家と学校との距離は開いていったが、結局、帰り道が同じなのは同じ小学校の面子くらいであったから、友人と帰る機会は減り、小学生の時のように喜ぶわけにはいかなかった。当時仲の良かった友人と帰れる距離は変わらず短いままで、一人で歩く距離ばかり長くなった。しかし歩く距離が伸びたことで、体力は確かに向上したので、損ばかりしたというわけではなかろう。今や行動範囲は格段に広がり、未踏の地を歩く機会も多く、当時は知る由もなかった気持ちも言葉も数多く知っているが、あの日の焦燥と胸の高鳴りは、何処を探しても見つかりそうにない。

 

 

 

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