第二幕 人の影、神の影
気持ちが急いだところで、
どうにか追手から
「
肩を上下させて息を整えつつ、シンシアが小声でマルティナに言った。
「馬鹿を言うな。ただでさえ、私たちは登山の備えがないのに、整えられた道から外れることは危険でしかない」
「わかっているわ。けれど、わたくしがいる。険しい道のりだけど、草木は私が願えば道を
マルティナはしぶしぶ
念のため人が途切れるのを
本来ならば、山で整えられた道筋から外れることは、命を
生い茂る木々、点在する岩は似通っていて、目印にはならず、方向感覚を見失う。
足場も悪く、転倒もしやすい。
思いがけず急な斜面に行き当たれば、
毒虫や獣に遭遇することもあり、何よりも真っ先に
しかし、シンシアにそれらの危険は通用しなかった。
登山道とは逆に、シンシアが先に立って歩く。
美しいひだを描く白いローブの
「最初から、こうしていれば良かったじゃないか……」
マルティナのぼやきに、シンシアはわずかにうつむいた。
「
申し訳なさそうな、消え入りそうな声に、
「以前は、
「アンタが出たいって言えば、誰も逆らわないんじゃないの?」
「国王と…大神官が……、それぞれの思惑で……私を外に出したがらなくて……。
疲労で息を乱しながらも、シンシアは自分なりの言葉を返してくる。
けれどその姿は、マルティナが長く持っていた現人神の印象に違和感を芽生えさせ、落ち着かない気持ちにさせる。
世に降り立った唯一の神として、
マルティナのみならず、それはミルミアールからの侵略を受けた国の民であれば、ほぼ同じ認識だ。
貴族でさえたやすく手にできない質の良い絹や宝石で身を包みながら、
異なる二つの印象を並べれば、どちらかが嘘として
目の前の現実に揺さぶられるマルティナの耳に、ついさっきまで入り混じっていた参拝登山を楽しむ人々のはしゃぎ声が、木々の
ほんの少し前にいた場所が、だいぶ遠くに感じられる。
立っていた場所から一歩でも進んだ途端、景色は変わり、たちまち過去になっていく事実が、今日は
『
望まぬ変化に
「それにしても、体ぐらい
自分の
「もともとひ弱なの。すぐに疲れて動けなくなってしまうから、周りにじっとしているように囲い込まれてきたわ。老いないし、死なないだけ。
神の力は、血肉を持った器には大きすぎる。肉体の強さと、神通力はつり合いが取れない。存在すべきものではないのだから、いびつなのは当然ね」
マルティナは、口をつぐんで目を伏せた。
不老不死を求める人間は、多くいる。
けれど、老いず、死ぬことがなくても、
それは祝福ではなく、呪いなのではなかろうか……?
ふと視界の隅に入った岩の方へ目を向けると、それは岩ではなく、黒々とした熊だった。
気配を悟れなかったことに驚きながらも
顔を巡らせて周囲を観察すると、
鳥たちは木々の上でシンシアの歩みに合わせて、先導するように穏やかに木から木へと飛んでいる。
異様で、そして現実離れした神聖な光景だった。
―――――わたくしを傷つけることができるのは、我欲を持った人間だけよ―――――
シンシアの言葉が
昨夜、強く心臓を貫いたが、すぐに息を吹き返したことにばかり気を取られ、深く考えることをしなかった。
不死であるとは聞いていたが、まさか本当に心臓を
死にはする――けれど
人の
自分とて多くの苦痛を心身共に受けてはきたが、死に至る痛みを味わったことはない。
その時は、生の終わりを迎えるのだから、記憶できるはずもない。
けれど――目の前の、今にも折れてしまいそうな華奢な乙女は、自分が与えた以外にも、死に至る傷を負ったことがあるのではないだろうか?
ただひたすらに持ち上げられ、守られ、上から人を動かすだけの存在ではないとしたら――……布教という名の侵略は、彼女の意思を無視して行われているものだとしたら……?
そう思い至った時、マルティナのこめかみから冷たく血の気が引いた。
同時に、
青ざめたマルティナへと、シンシアの気まずそうな顔が振り向けられた。
「見つかってしまったわ」
周囲の空気の密度が変わり、マルティナは総毛立った。
危険なものが来るのだと、血が
早まる鼓動を深呼吸で抑えつつ、まとった紺色のローブに手を入れた。
チュニックの
『おいたが過ぎますぞ……』
金糸銀糸の
白髪の頭には、高位の神職者がかぶる独特の形をした長い帽子。
最高位の神官なのだろう。
その強い通力を表すかのように、その身からは背後の景色がうっすら透けて見え、彼が
精神だけ、今自分たちの目の前に飛ばしているのだ。
『お心穏やかにお過ごしであられると思いきや、このようなところをそぞろ歩くとは…。散歩はもう十分でしょう。どうぞ、あなたのために用意された聖なる塔にお戻りください』
「
背後で、シンシアが冷たく言い放った。
刃を突き立てた時でさえおっとりしていたシンシアからは、想像できない冷ややかさだった。
『
「わたくしはあなた自身に何も望んだことはありませんし、これからもないでしょう。どんなにわたくしに執着したところで、あなたの望みは叶えられないと、何度言ったらわかるの?
わたくしの望みを叶えてくれるのは……」
シンシアは一歩進み出て、マルティナの腕にしがみついた。
「この人だけです。わたくしは、この人に自分の望みのすべてを
シンシアの言葉を受け、大神官の視線が初めてマルティナに向けられた。
静かな……一見すると
『邪教の娘……血塗られた手を持つ、
あからさまな
そもそも、ミルミアールの神に救いなど求めていない。
マルティナは鼻で笑い、いよいよ武器を揮おうとした時、凄まじい空気の圧で周囲の草木がたわんだ。
その圧はそのまま、大神官へと突進する。
「この人を侮辱することは許しません」
腕にしがみつくシンシアの力が強まる。
「今あなたが放った
実体を持たない大神官の
マルティナは、様変わりしたシンシアの様子に圧倒されて動けない。
血だまりの中から蘇生した時も驚いたが、今の彼女に、土産物屋を覗いてはしゃいでいた無邪気な面影はまるでなかった。
五感の全てに染み入るような強烈な存在感、魂まで震えるような犯し難い神々しさ―――髪の一本に至るまで、強力な神気に満ち満ちている。
「神に最も近いとされる位にありながら、さもしく
『シ……ンシ…さ、ま……』
「私の名を呼ぶことを、あなたには許していません」
シンシアから向けられた神気の圧に顔を歪めながらも、大神官は
『どうして……おわかりくださらぬ…?…
言いながら大神官は砕けるように
ホッとする間もなく、人々のざわめきが耳に届く。
けたたましく
大神官が、自分たちの位置を追手として放った
「おい、ちょっと離れ……」
マルティナは、改めて武器を構えようと、
しかし
「おい……」
「ごめんなさい……止められない……」
シンシアが呟くのと同時に、突然雷鳴がとどろいた。
天を振り
いよいよ追手がこちらを
緑の中に見え隠れする
先頭を切っていた大型犬が草むらから
何とかしなければ――そう思って無理にでもシンシアを振りほどこうとした
目を焼くような閃光にいっとき目を閉じたが、確かに稲妻は、ありえない状態でよぎった。
まるで、意志を持っているかのように。
犬と人の悲鳴が
マルティナは恐る恐る
何事かと、参拝登山の人々も騒ぎ始めた気配が伝わってくる。
やっと安定した視界の先で、草に
身に着けた
草や
山の天気は変わりやすいとはいえ、明らかに
突風も同時に吹き荒れ、登山客の
半ば途方に暮れるマルティナの横で、力を失ったシンシアが、しおれるようにくず折れた。
顔からは血の気が引き、体は冷たい。
「なんてこった」
マルティナは腕にぶら下がったシンシアを急ぎ背負うと、
だが、シンシアの誘導がなければ、どこをどう行っていいのかわからない。
その目の前に突然、獣が滑り出るように現れて立ち
追手が連れていた犬が正気に返ったのかと身構えたが、違った。
視界の悪い中でも不思議にはっきりと見えるそれは、犬に似てはいるがはるかに大きい。
金の目を持つ、
マルティナは息をのむ。
良く似た姿を、昔見たことがあった。
それは、
「……まさか……」
白い狼は、マルティナをじっと見つめた。
気がつけば、周囲は狼の群れに囲まれている。
狼はリーダーを決め、群れで行動するものだ。
白狼は、群れのリーダーであるらしい。
動きあぐねるマルティナの前で、白い狼は背を向けて
そして振り返り、またマルティナを見つめる。
「……ついてこい、と……?」
そうだと言わんばかりに白狼は尻尾を一振りすると、また先を行く。
―……このまま雨に打たれながら闇雲に進むより、不思議なこの獣に
そう思い切ってマルティナは、シンシアを背負って白狼の後についていった。
土砂降りの中でも、不思議なことにその白い毛皮は水をはじいて
見えない膜がその身を包んでいるようだ。
シンシアのように茂る雑草が自ら
それでも充分に足元に気を付け、草を分け、踏みしめていく。
水を吸った衣装は重みを増してはいるが、それでも背中のシンシアは軽く、まるで子どもを背負っているようで、心もとないほどだ。
やがて、不意に乱立する木々ばかりの景色が開け、足が平らな地を踏んだ。
伸び放題の草に埋もれた丸太小屋が、マルティナの前に現れる。
速足で小屋の扉を開け、中に入り込んだ。
やや
部屋の隅に置かれた
もう、白狼の姿はなかった。
しかし、小屋周辺には狼たちの気配がある。
―……守っているのか……。
決して、彼らは自分たちを
同時に、なぜ今、という思いがこみ上げた。
幼き日に、父母と過ごした神殿――そこに他国の兵士たちが
どうか今この瞬間に現れ、聖域を踏みにじり、破壊し、
祈りは聞き届けられぬまま、あれから十年以上経ち、今になってなぜかマルティナの前にその姿は現れた。
―……なぜ、今さら……。
憎む気持ちには、なれなかった。
マルティナを見つめる白狼の金の瞳はあたたかく――父母を思い出させる
けれど、やりきれない思いは
複雑に入り乱れる思いを抱いて、マルティナは静かに湿った重たい扉を閉めた。
次の更新予定
試みの箱庭―悠遠の残響― 花風花音 @rosalie0201
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