第二幕 人の影、神の影

 気持ちが急いだところで、身体からだがついていかなければ意味がない。

 どうにか追手から距離きょりを離し、隠れることはできないものか――。 

正規せいきの道から外れましょう」

 肩を上下させて息を整えつつ、シンシアが小声でマルティナに言った。

「馬鹿を言うな。ただでさえ、私たちは登山の備えがないのに、整えられた道から外れることは危険でしかない」

「わかっているわ。けれど、わたくしがいる。険しい道のりだけど、草木は私が願えば道をひらいてくれる。鳥や獣も安全な道を教えてくれるわ。追手以外の危険ならば、わたくしは遠ざけることができるの。わたくしを傷つけることができるのは、我欲を持った人間だけよ」

 現人神あらびとがみがそう言うのであれば、納得するしかない。

 マルティナはしぶしぶうなずいた。

 念のため人が途切れるのを見計みはからい、二人は登山道から外れた木々の間に、素早く入り込む。

 本来ならば、山で整えられた道筋から外れることは、命をかえりみない愚行ぐこうだ。

 生い茂る木々、点在する岩は似通っていて、目印にはならず、方向感覚を見失う。

 足場も悪く、転倒もしやすい。

 思いがけず急な斜面に行き当たれば、滑落かつらくの危険もある。

 毒虫や獣に遭遇することもあり、何よりも真っ先に藪漕やぶこぎで体力を奪われる。

 しかし、シンシアにそれらの危険は通用しなかった。 

 登山道とは逆に、シンシアが先に立って歩く。

 鬱蒼うっそうと足元を埋め尽くすたくましい雑草は、シンシアの歩む先々でしなやかに身を折って道を作る。

 美しいひだを描く白いローブのすそと、足元をめる草がしなやかに道を創る光景は、まるで海を切り開いて歩む神話の一場面のようだ。

 こけむした地面や岩にわずかに足を取られることはあれど、虫にたかられることもなく、時折感じる獣の気配は遠巻きに二人を見つめている。

「最初から、こうしていれば良かったじゃないか……」

 マルティナのぼやきに、シンシアはわずかにうつむいた。

民草たみぐさに…ほんの少しでも長く、触れたかったの…最後だから」

 申し訳なさそうな、消え入りそうな声に、とがめる気持ちもえる。

「以前は、慰問いもんや儀式で市井しせいに出向いたことがあったけれど……。塔ができてからは、外に出たことがなくて……」

「アンタが出たいって言えば、誰も逆らわないんじゃないの?」

「国王と…大神官が……、それぞれの思惑で……私を外に出したがらなくて……。いさかいを生むのは、もうまっぴらだから…服従はしないけれど、抵抗せずにいたのよ…」

 疲労で息を乱しながらも、シンシアは自分なりの言葉を返してくる。

 突飛とっぴな行動や好奇心、そして無邪気な慈悲――じかに接して一日もていないが、現人神あらびとかみという前提がなければ、シンシアは見た目の年齢に相応ふさわしい、素直な乙女だった。 

 けれどその姿は、マルティナが長く持っていた現人神の印象に違和感を芽生えさせ、落ち着かない気持ちにさせる。

 世に降り立った唯一の神として、冷徹れいてつに自身への信仰を要求する権高けんだかい存在。

 マルティナのみならず、それはミルミアールからの侵略を受けた国の民であれば、ほぼ同じ認識だ。

 貴族でさえたやすく手にできない質の良い絹や宝石で身を包みながら、庶民しょみんが親しむ土産物屋の屑石くずいしに目を輝かせる乙女とは、かけ離れている。

 異なる二つの印象を並べれば、どちらかが嘘としてくだけ散る。

 目の前の現実に揺さぶられるマルティナの耳に、ついさっきまで入り混じっていた参拝登山を楽しむ人々のはしゃぎ声が、木々の隙間すきまをぬって届いた。

 ほんの少し前にいた場所が、だいぶ遠くに感じられる。

 立っていた場所から一歩でも進んだ途端、景色は変わり、たちまち過去になっていく事実が、今日はことの外、重たく感じられた。

いさかいを生むのは、もうまっぴら』―――シンシアのこの言葉から、彼女の歩んできたこれまでがほんのり透けて見えたからだ。

 望まぬ変化にまれ、様々なものを失っていくのは、マルティナやごく当たり前の民ばかりではなく、現人神であるシンシアも同じなのかもしれない……。

「それにしても、体ぐらいきたえておきなよ。室内でもできることはあるだろう」

 自分のうちに生じた揺らぎを振り切るように、またシンシアにとげのある声をかける。

「もともとひ弱なの。すぐに疲れて動けなくなってしまうから、周りにじっとしているように囲い込まれてきたわ。老いないし、死なないだけ。

 神の力は、血肉を持った器には大きすぎる。肉体の強さと、神通力はつり合いが取れない。存在すべきものではないのだから、いびつなのは当然ね」

 マルティナは、口をつぐんで目を伏せた。

 不老不死を求める人間は、多くいる。

 けれど、老いず、死ぬことがなくても、脆弱ぜいじゃく身体からだで生き続けることは、終わらない苦痛なのではないか……?

 それは祝福ではなく、呪いなのではなかろうか……?

 ふと視界の隅に入った岩の方へ目を向けると、それは岩ではなく、黒々とした熊だった。

 気配を悟れなかったことに驚きながらも身構みがまえたが、熊は木々の隙間でじっと動かず、シンシアへと鼻先を向けている。

 顔を巡らせて周囲を観察すると、いのししきつねといった獣も、襲い来るようなことはせず、祈りを捧げるようにシンシアを見つめていた。

 鳥たちは木々の上でシンシアの歩みに合わせて、先導するように穏やかに木から木へと飛んでいる。

 異様で、そして現実離れした神聖な光景だった。

 ―――――わたくしを傷つけることができるのは、我欲を持った人間だけよ―――――

 シンシアの言葉が脳裏のうりによみがえり、改めて重くマルティナの胸に響いた。

 昨夜、強く心臓を貫いたが、すぐに息を吹き返したことにばかり気を取られ、深く考えることをしなかった。

 不死であるとは聞いていたが、まさか本当に心臓を穿うがっても死なないとは、この目で見るまで信じられなかった。

 死にはする――けれどよみがえる。

 人のことわり超越ちょうえつしてはいるけれど、苦痛がないわけではないと、疲労を色濃く見せるシンシアの様子からうかがい知れる。

 自分とて多くの苦痛を心身共に受けてはきたが、死に至る痛みを味わったことはない。

 その時は、生の終わりを迎えるのだから、記憶できるはずもない。

 けれど――目の前の、今にも折れてしまいそうな華奢な乙女は、自分が与えた以外にも、死に至る傷を負ったことがあるのではないだろうか?

 ただひたすらに持ち上げられ、守られ、上から人を動かすだけの存在ではないとしたら――……布教という名の侵略は、彼女の意思を無視して行われているものだとしたら……?

 そう思い至った時、マルティナのこめかみから冷たく血の気が引いた。

 同時に、唐突とうとつにシンシアの足が止まる。

 青ざめたマルティナへと、シンシアの気まずそうな顔が振り向けられた。

「見つかってしまったわ」

 周囲の空気の密度が変わり、マルティナは総毛立った。

 危険なものが来るのだと、血がき立ってうったえている。

 早まる鼓動を深呼吸で抑えつつ、まとった紺色のローブに手を入れた。

 チュニックのすそに隠して太ももに巻いた、ベルトに装備している短剣を握って素早くシンシアの前に立つ。 

『おいたが過ぎますぞ……』

 よわいを感じさせる、けれど良く通る声が聞こえた時、二人の前には一人の老人が立っていた。

 金糸銀糸の刺繍ししゅうほどこされた祭服さいふくは、輝くような純白。

 白髪の頭には、高位の神職者がかぶる独特の形をした長い帽子。

 最高位の神官なのだろう。

 その強い通力を表すかのように、その身からは背後の景色がうっすら透けて見え、彼が実体じったいでないことを物語っている。

 精神だけ、今自分たちの目の前に飛ばしているのだ。

『お心穏やかにお過ごしであられると思いきや、このようなところをそぞろ歩くとは…。散歩はもう十分でしょう。どうぞ、あなたのために用意された聖なる塔にお戻りください』

無駄むだよ、大神官。わたくしはもう、戻らないわ」

 背後で、シンシアが冷たく言い放った。

 刃を突き立てた時でさえおっとりしていたシンシアからは、想像できない冷ややかさだった。

頑是がんぜないことをおっしゃるものではありません。あなたさまのために、私がどれほど心を尽くしてきたか……。あなたをお守りできるのは、私しかおらぬ。いつになったら認めていただけるのか……』

「わたくしはあなた自身に何も望んだことはありませんし、これからもないでしょう。どんなにわたくしに執着したところで、あなたの望みは叶えられないと、何度言ったらわかるの?

 わたくしの望みを叶えてくれるのは……」

 シンシアは一歩進み出て、マルティナの腕にしがみついた。

「この人だけです。わたくしは、この人に自分の望みのすべてをたくし、わたくしのすべてをゆだねます。わかったら、さっさと消えなさい」

 シンシアの言葉を受け、大神官の視線が初めてマルティナに向けられた。

 静かな……一見すると物腰穏ものごしおだやかな品の良い聖人の目には、似つかわしくないねばついた強い感情がみなぎっていた。

 侮蔑ぶべつ、憎悪、そして嫉妬だった。

『邪教の娘……血塗られた手を持つ、けがらわしい女。今すぐシンシアさまを置いて去れ。さすればいくばくか罪も軽くなろう』

 あからさまな侮辱ぶじょくなど、何度も受けてきた。

 そもそも、ミルミアールの神に救いなど求めていない。

 マルティナは鼻で笑い、いよいよ武器を揮おうとした時、凄まじい空気の圧で周囲の草木がたわんだ。

 その圧はそのまま、大神官へと突進する。

「この人を侮辱することは許しません」

 腕にしがみつくシンシアの力が強まる。

 いな、それだけではない―――……。

「今あなたが放った禍々まがまがしい言葉、すべてあなたに返します」

 実体を持たない大神官の身体からだがのけ反り、顔に苦悶が浮かんだ。

 マルティナは、様変わりしたシンシアの様子に圧倒されて動けない。

 血だまりの中から蘇生した時も驚いたが、今の彼女に、土産物屋を覗いてはしゃいでいた無邪気な面影はまるでなかった。

 五感の全てに染み入るような強烈な存在感、魂まで震えるような犯し難い神々しさ―――髪の一本に至るまで、強力な神気に満ち満ちている。

「神に最も近いとされる位にありながら、さもしく我欲がよくとらわれる、あなたの性根しょうねこそけがらわしいわ」 

『シ……ンシ…さ、ま……』

「私の名を呼ぶことを、あなたには許していません」

 シンシアから向けられた神気の圧に顔を歪めながらも、大神官はすがるように手を伸ばす。

『どうして……おわかりくださらぬ…?…永劫えいごうの時を…、唯一人生きる…あなたの供をと願う私の愛を……』

 言いながら大神官は砕けるように霧散むさんし、景色に溶けた。

 ホッとする間もなく、人々のざわめきが耳に届く。

 けたたましくえる犬の声と、こちらに向かってくる人の群れがあった。

 大神官が、自分たちの位置を追手として放った僧兵そうへいらに共有したのだろう。

「おい、ちょっと離れ……」

 マルティナは、改めて武器を構えようと、いまだにしがみつくシンシアに声をかけた。

 しかしのぞき込んだ白い顔は、先ほどの凛然りんぜんとした姿から一変、真っ青になって小刻みに震えている。

「おい……」

「ごめんなさい……止められない……」

 シンシアが呟くのと同時に、突然雷鳴がとどろいた。

 天を振りあおげば、すみをぶちまけたように空に黒雲が広がっていく。

 いよいよ追手がこちらを目視もくし、ガサガサと草を踏み荒らしながら木々の隙間をってせまってきた。

 緑の中に見え隠れする鈍色にびいろかぶとは、故郷の森でよく見た、毒はないがうまくもない無駄に群生するきのこを思い出させる。

 先頭を切っていた大型犬が草むらからおどり出て、こちらに向かってきた。

 何とかしなければ――そう思って無理にでもシンシアを振りほどこうとした刹那せつな、ひと際すさまじい雷鳴と共に、稲妻が両者の間を分断するように横一文字に走った。

 目を焼くような閃光にいっとき目を閉じたが、確かに稲妻は、ありえない状態でよぎった。

 まるで、意志を持っているかのように。

 犬と人の悲鳴がき起こり、次いで一瞬の静寂せいじゃくが訪れる。

 マルティナは恐る恐るまぶたを開け――しかし強い光が目の奥で明滅めいめつし、視界が定まらない。

 何事かと、参拝登山の人々も騒ぎ始めた気配が伝わってくる。

 やっと安定した視界の先で、草にうずもれるようにして倒れ伏した僧兵たちの姿が見えた。

 身に着けたよろいの上で、火花が散っている。

 うめき声が聞こえるので、死んではいなそうだ。

 草や生木なまきが焼けた匂いが充満する中、息つく間もなく、今度は唐突とうとつ土砂降どしゃぶりに見舞みまわれた。

 山の天気は変わりやすいとはいえ、明らかにつねならぬ事態だ。

 突風も同時に吹き荒れ、登山客のあわてた悲鳴が激しい雨音に入り混じる。

 半ば途方に暮れるマルティナの横で、力を失ったシンシアが、しおれるようにくず折れた。

 顔からは血の気が引き、体は冷たい。

「なんてこった」

 マルティナは腕にぶら下がったシンシアを急ぎ背負うと、きびすを返した。

 だが、シンシアの誘導がなければ、どこをどう行っていいのかわからない。

 闇雲やみくもに歩くのは命取りだとわかっているが、視界さえもあやしい豪雨の中、せめて雨をしのげる場所をとマルティナは周囲をながめやった。

 その目の前に突然、獣が滑り出るように現れて立ちふさがる。

 追手が連れていた犬が正気に返ったのかと身構えたが、違った。

 視界の悪い中でも不思議にはっきりと見えるそれは、犬に似てはいるがはるかに大きい。

 金の目を持つ、精悍せいかん体躯たいくの白い狼だった。

 マルティナは息をのむ。

 良く似た姿を、昔見たことがあった。

 それは、精巧せいこうられた白大理石の彫刻ちょうこく――丁重ていちょうまつられ、日々捧げものを欠かさなかった……。

「……まさか……」  

 白い狼は、マルティナをじっと見つめた。

 気がつけば、周囲は狼の群れに囲まれている。

 狼はリーダーを決め、群れで行動するものだ。

 白狼は、群れのリーダーであるらしい。

 動きあぐねるマルティナの前で、白い狼は背を向けてやぶの中をわずかに進んだ。

 そして振り返り、またマルティナを見つめる。

「……ついてこい、と……?」

 そうだと言わんばかりに白狼は尻尾を一振りすると、また先を行く。

 ―……このまま雨に打たれながら闇雲に進むより、不思議なこの獣にけた方が、安全か……。

 そう思い切ってマルティナは、シンシアを背負って白狼の後についていった。

 土砂降りの中でも、不思議なことにその白い毛皮は水をはじいてれる様子がない。

 見えない膜がその身を包んでいるようだ。

 シンシアのように茂る雑草が自らけて道を作ることはないが、草むらに隠れた獣道けものみちは、幾分いくぶん踏みならしてあるだけ歩きやすい。

 それでも充分に足元に気を付け、草を分け、踏みしめていく。

 水を吸った衣装は重みを増してはいるが、それでも背中のシンシアは軽く、まるで子どもを背負っているようで、心もとないほどだ。

 やがて、不意に乱立する木々ばかりの景色が開け、足が平らな地を踏んだ。

 伸び放題の草に埋もれた丸太小屋が、マルティナの前に現れる。

 速足で小屋の扉を開け、中に入り込んだ。

 やや雨漏あまもりの湿った気配はあるが、しっかり組まれた造りだった。

 部屋の隅に置かれたわらを詰めた麻袋の上にシンシアを降ろし、マルティナは再び扉を開けて外を見る。

 もう、白狼の姿はなかった。

 しかし、小屋周辺には狼たちの気配がある。

 ―……守っているのか……。

 決して、彼らは自分たちをおそわないだろうという確信があった。

 同時に、なぜ今、という思いがこみ上げた。

 幼き日に、父母と過ごした神殿――そこに他国の兵士たちが無作法むぞうさに、荒々しく踏み込んできた時、助けて欲しいと全身全霊で祈った。

 どうか今この瞬間に現れ、聖域を踏みにじり、破壊し、聖具せいぐを奪う不届ふとどきき者たちを退治してほしい――父母と自分を――国を守ってほしいと魂で叫ぶように願った。

 祈りは聞き届けられぬまま、あれから十年以上経ち、今になってなぜかマルティナの前にその姿は現れた。

 ―……なぜ、今さら……。

 憎む気持ちには、なれなかった。

 マルティナを見つめる白狼の金の瞳はあたたかく――父母を思い出させるいつくしみがあった。

 けれど、やりきれない思いはくすぶる。

 複雑に入り乱れる思いを抱いて、マルティナは静かに湿った重たい扉を閉めた。

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試みの箱庭―悠遠の残響― 花風花音 @rosalie0201

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