この物語はフィクションです

微風 豪志

この物語はフィクションです

 午前の光が薄く差し込む。冬の街はまだ眠りの底にいるようで、人通りはまばらだった。榊原は両手をポケットに突っ込んだまま、冷えたアスファルトの上をゆっくり歩いていた。昨夜遅くまで無理に書き続けた原稿は、結局どこにもたどり着かず、紙の山だけが机に積みあがっている。出版社から戻された企画書の束と同じように。


 彼は、毎日同じように歩き、同じように締切を伸ばし、同じように“売れない作家”としての人生を繰り返していた。だからこそ、その日、いつもの道に見慣れない古本屋が現れたことに、かすかな違和感を覚えた。


 店先の看板は、ひどく色あせていた。赤い文字で何か書かれているが、ところどころ剥がれ落ちて読めない。“再”と“堂”の二文字だけがかろうじて残っている。こんな店、今まで見たことがあっただろうか、と榊原は足を止める。


 ガラス戸を押すと、鈍い音がした。中には古い紙の匂い。湿り気のある木の匂い。そして、何か別のもの――時間の埃のような、乾いた香りが混ざっていた。


「いらっしゃい」


奥から声がした。店主らしき老人が、埃を払うように手を振りながら、ゆったりと姿を見せた。


「何か、お探しで?」


榊原は答えず、店内を見まわした。ここでは時代が止まっている。昭和の文豪たちの全集が、黄ばんだ背表紙を揃えて棚に収まっている。古地図や外国の新聞まで積まれ、どれも手入れが行き届いていない。だが、不思議と雑然とはしていない。むしろ、すべてがそこに“あるべき位置にある”ように整っている。


榊原の足が自然と止まったのは、小さなガラスケースの前だった。中に一本のペンが置かれている。黒漆の軸。金属部分には細かい装飾が施され、ところどころ擦り切れている。見た目は、どこにでもある古い万年筆に近い。しかし――。


榊原は、ペンから視線を離せなかった。


まるで呼ばれているようだった。


「それはね、“よく書ける”と評判だった品で」


突然、老人が背後に立っていた。気配も足音もなかった。


「……評判?」


「ええ。前の持ち主が、最後にこれだけ置いていったんですよ。『もう要らない』と言って」


榊原はガラス越しにペンを見つめた。


「どうして、要らなくなったんです?」


老人はにやりと笑う。


「さあね……書きすぎて、疲れたんじゃないかな。才能のある人は、みんなそうだ」


榊原は眉をひそめた。皮肉とも取れる言葉だったが、不思議と不快ではなかった。むしろ、その“最後に置いていった”という言葉が、心にひっかかった。


「使ってみますか?」


老人が鍵を開け、ペンを丁寧に取り出した。差し出された瞬間、榊原の手に微かな震えが走った。冷たくもなく、温かくもない。だが確かに“馴染む”感触があった。


――書きたい。


そんな衝動が胸に湧き上がった。


「お値段は?」


「そうですね……あなたなら、千円でいいでしょう」


千円。安すぎる。しかし、榊原はもう迷わなかった。財布から小銭を出し、交換するようにペンを受け取る。ペンを指で軽く挟むたび、わずかな重さが心地いい。


店を出ると、空気が変わったように冷たく感じた。ポケットの中のペンが、存在を主張するようにずしりと重い。榊原はふと、振り返った。だが、古本屋のガラス戸の向こうは暗く、店主の姿はもう見えなかった。


いつもの道のはずなのに、景色がどこか薄くぼやけて見えた。


榊原は帰宅すると、買ったばかりのペンを机の上に置いた。原稿を書く気力は、今日はもう残っていなかった。風呂に入り、適当に夕食を済ませ、ベッドに倒れ込む。ペンの存在が気にならないわけではないが、睡魔のほうが強かった。





翌朝、目覚めた瞬間から違和感があった。


部屋の空気が、重い。

昨夜よりもひどく静かだ。

外から聞こえるはずの車の音も、隣の生活音も聞こえない。


榊原は、寝ぼけた頭でカーテンを開けた。

冬の光が差し込み、部屋の輪郭がゆっくり浮かび上がる。


その光の中で、机の上の“見慣れたもの”が、見慣れない表情をしていた。


積みっぱなしの原稿用紙。

昨夜置いた万年筆。

そして――その横に、白い束がある。


榊原は、しばし動けなかった。


原稿用紙の束は、彼の記憶にない配置で置かれていた。

しかも、丁寧に重ねられ、上から紐で軽くまとめられている。


「……何だ、これ」


自分の声が、ひどく小さく聞こえた。


ベッドから降り、机へ近づく。

紙を持ち上げると、ほんのわずかだが温もりを感じた。

まるでついさっきまで誰かが触れていたような。


一枚目に目を落とした瞬間、彼は息を飲んだ。


《第1章 凍る夜道で見つかった死体》


 その一行は、榊原が書いたものではない。

字も違う。

筆跡は綺麗で、滑るように整っている。

プロの書き手が書いたような、癖のない文章。


めくる。


《被害者は二十五歳の女性。犯行時刻は午後九時から十時の間。

発見者は犬の散歩をしていた老人で――》


読み進めるほどに、物語は“完成している”としか言いようがなかった。

導入、事件、伏線、緊張の溜め方。

どれも自分の書けるレベルではない。

だが、問題はそこではない。


榊原は気づいた。


この物語の基本設定。

この事件の構造。

これは……昨日、古本屋へ向かう途中で、思いつき、メモ帳に書きかけた新作のプロットに酷似している。


だが、自分は一文字も書いていない。


「誰が……?」


榊原は机に置いたペンに目をやる。

黒漆の軸が、朝の光を吸い込むように鈍く輝いていた。


ペンは動かない。

ただそこに置かれているだけだ。

――なのに、榊原は確信した。


これを書いたのは、ペンだ。


いや、正確には“このペンを使った誰か”。

だが、そんなはずはない。

部屋に侵入した痕跡はない。

鍵も閉まっていた。


榊原は思わず背中をさすった。

寒さではなく、嫌な汗が滲む。


原稿の最後のページを手に取る。

文字は力強く、迷いなく締められている。


《――そして、物語の始まりは、ただ一行。

  この物語はフィクションです》


その一行を見た瞬間、榊原の心臓は強く跳ねた。


昨日、古本屋で見つけた看板。

色あせて読めなかった文字。


あの店は本当に存在したのか?

店主の笑みは?

あのペンを手にしたときの奇妙な“馴染み”は――?


気づくと、榊原は部屋中を慌てて見回していた。


まるで、世界のどこかが昨日と違っている気がした。


窓の外の景色。

部屋の配置。

空気の匂い。


どこにも決定的な変化はないはずなのに、

 “確かに何かが変わってしまった”という予感だけが、胸の奥に沈殿していく。


そのとき、机の上のペンがかすかに揺れた。


気のせいだ、と自分に言い聞かせる。

だが、榊原は見ていた。


ペンの先端から、ほんの一滴――

黒いインクが、落ちたのを。


インクが落ちた瞬間、榊原の背筋を冷たいものが走った。

ペンが揺れたことも、インクが勝手ににじんだことも、どれも“偶然”で片付けられなくはない。だが、胸の奥でざわつく感覚はそう言っていなかった。


――この原稿、本当に誰が書いた?


榊原は椅子に腰を下ろし、改めて原稿の束を見つめた。

物語は完成している。しかも、読めば読むほど面白い。

伏線の張り方、登場人物の心理描写、事件が次第に核心へ近づいていくリズム。

自分が何年かけても到達できなかった“完成度”だった。


ページの端に、手が震える。

感動ではなく、恐怖でもなく――

“自分ではない誰か”に机を乗っ取られたような、得体の知れない気味悪さ。


だが同時に、胸の奥から別の声も聞こえてきた。


――これを出せば、売れる。


 現実的な考えだった。

締切を落とし続け、編集者にも軽くあしらわれる日々。

次の企画が通らなければ、本当に声がかからなくなってしまう。

こんな元稿……もう二度と書ける気がしない。


榊原は、机の上のペンをじっと見つめた。


「……お前が書いたのか?」


もちろん返事はない。

部屋の静けさが、言葉ごと吸い込んでいく。


そのとき、胸ポケットに入っていたスマホが震えた。

メッセージの通知。

編集の川本郁弥からだった。


『どうです? 新作、何か進展ありましたか?』


榊原はしばらく画面を見つめた。

そして、ゆっくりと原稿に目を落とす。


――これは、自分の作品だ。


そう思い込むことにした。

いや、そう“しか”考えないようにした。

でなければ、この紙束に触れることすら怖くなる。


榊原はメッセージを返した。


『一本あります。今日持っていきます』


送信ボタンを押すと同時に、なぜか胸が締め付けられた。

だが後悔はなかった。


ペンの近くに落ちたインクのしずくは、乾いて黒い痕になっていた。


榊原はそれを指で拭おうとしたが、インクは紙に染み込んだように落ちなかった。

まるで、最初からそこにあったかのように。


彼は深く息を吸い、原稿を鞄に入れた。

重い。

紙の量の問題ではない。

何か、もっと大きなものを背負ったような感じだった。


ペンは机に置きっぱなしだ。

持っていく必要はない、と本能が告げていた。


代わりに、鞄の中の原稿の重さだけが、妙に現実的で――いや、現実離れしていた。


編集部は相変わらず雑然としていた。

散らかった資料、鳴り続ける電話、誰かの怒鳴り声。

その雑踏の中で、榊原は鞄を抱えたまま立ち尽くしていた。


「……で、これが新作?」


川本が原稿を両手でつまみ上げた。

表紙をめくると、彼の表情がほんの一瞬だけ固まった。


「……へえ。なんだ、急にうまくなったな、榊原さん」


軽口のつもりだったのかもしれないが、声色には驚きが混ざっていた。


榊原の心臓は、なぜか早鐘のように鳴った。

読み終えられるのが怖い。

しかし、読まれないのももっと怖い。


「これ……すぐ企画通すよ。編集長にも回す。 タイトルは……仮で『凍る夜道の女』でいいか?」


「え、ええ……」


榊原は曖昧にうなずくしかなかった。


原稿が川本の手から離れる瞬間、

まるで何か大切なものを“差し渡してしまった”感覚が胸に残った。


――もう後戻りできない。


編集部を出たとき、冬の風がやけに冷たかった。

鼻先が痛むほどの空気の中で、榊原は無意識に胸ポケットを探った。


そこにはペンがない。

だが、指先に残る“あの触感”だけが、やけに鮮明だった。


家に帰ると、机の上のペンは静かに横たわっていた。

昨夜と違うのは――


インクの残量が、ほんのわずかに減っていた。


榊原は、その減り方に覚えがなかった。


今日、ペンは一度も使っていない。

鞄にも触れていない。

なのに、確かに減っている。


胸の奥がざわついた。

まるで、遠くで不吉な歯車が回り始めたような――

そんな感覚だった。


数日後。

編集部から電話がかかってきたのは、昼過ぎだった。

SNSをぼんやり眺めていた榊原は、画面に表示された“川本”の名前に胸が跳ねた。


「はい、榊原です」


『おい……すごいぞ、これ。本当にすごい』


川本の声は、驚きというより興奮に近かった。


『企画会議、一発通過だ。編集長も絶賛してた。“今までの榊原じゃない”って』


「……そうですか」


声は震えなかった。

しかし喉の奥が固くなり、息がうまく吐けない。


『発売は来月だ。スピード勝負で行く。

反応が良かったら連載の打診もあるぞ。覚悟しとけよ』


「……はい、ありがとうございます」


電話を切った後、榊原はスマホを机に置いた。

胸が熱くなり、手が震えている。


――売れる。

――やっと、売れる。


いつか夢見た瞬間のはずなのに、喜びは半分しかなかった。

残りの半分は、得体の知れない影が覆っている。


インクの残量を、無意識に見た。

昨夜より、さらに少しだけ減っている。


「……使ってないのに」


つぶやきが、部屋に吸い込まれて消えた。


ペンは静かだ。

ただそこに置かれているだけだ。

けれど、確かに“何かが進んでいる”感覚だけはあった。


発売日を迎えると、事態は急速に動き始めた。


書店のフェアで平積みにされ、ネット書店でランキングが上昇。

レビューサイトでも、驚くほど評価が良い。


“デビュー作以上の衝撃”

“伏線の妙がすばらしい”

“久々に読んで震えた”


まるで別人の本を褒められているようだった。


川本は毎日のようにメッセージを寄越した。


『もう二万部突破したぞ! どうなってるんだ、お前!』


『シリーズ化確定。次のプロットも早めにちょうだい』


次のプロット――。

そう、次を書かなければならない。

売れたのなら、次はもっと売らねばならない。


しかし榊原は、机に向かってもまったく書けなかった。

書こうとすると、胸の奥で何かが拒む。


ふと、机のペンが視界に入る。

黒い軸は昨日よりもさらに軽く見えた。

インク残量は――


「また……減ってる」


ペン先のインク窓が、確実に細くなっている。

榊原自身は、一度も書いていないのに。

まるで、ペンが勝手に書き続けているように。


夜。

眠りにつく直前、胸の奥にざらつくような気配があった。


――あの原稿は、誰が書いた?


答えは見つからないまま、意識が薄れていく。




翌朝。


机の上にはまた一枚の紙が置かれていた。


タイトルは、見覚えがある。


《第2の事件》


榊原は、理解した。


ペンは止まってなどいない。

むしろ――


“物語が、次の章へ進みたがっている”


その衝動のような力を、確かに感じた。


榊原は紙を握りしめた。

背筋が震え、足元から冷たいものが這い上がってくる。


そして、その夜。

テレビのニュースで流れたのは――


“凍る夜道で第二の不審死体が発見されました”


原稿と同じ状況だった。


ニュース映像は、冬の夜の暗闇を赤色灯が切り裂くところから始まった。

現場には白いシート、警察の規制線。

カメラ越しにも冷気が伝わってくるようだった。


『被害者は三十五歳の男性。死因は失血死とみられ――』


アナウンサーの声が、榊原の耳にうまく入ってこない。

ただ映像の背景に映る“電柱の影”“倒れている位置”“発見者の証言”が、

脳内のあるページと重なっていく。


机の上の紙束。

昨夜置かれていた、あの一枚。


そこには――


《被害者は男性。深夜の裏道で倒れているのを発見される。

血痕の伸びる方向は北西。

近くの電柱には、謎の擦過痕が残されていた――》


すべて一致している。


榊原はテレビの電源を切った。

部屋が急に静まり返り、心臓の音だけが大きく響く。


「……そんな、馬鹿な」


昨日の“第2の事件”原稿。

それが現実になっている。


偶然で済ませるには、重なりが多すぎた。

筆跡も自分ではない。

誰かが自分の頭の中を覗き見ているとしか思えない。


いや――違う。


“ペンが書いた”という不気味な確信が、再び胸を圧迫した。



昼、編集部から電話が鳴った。


『榊原さーん! ニュース見たか?』


「え……?」


『例の作品、まるでこの事件を予言してたみたいじゃん。

編集長は“話題性になる”なんて浮かれてるよ』


「…………」


声が、喉の奥に貼り付いて出ない。

川本は続ける。


『記者が取材くるかもな。

“フィクションが現実に”って、最近ウケがいいらしいし』


「やめてください。そんな……」


『あ、冗談だよ冗談。

まあでも、世間の目は向くだろうな。作品が売れるぞ』


売れる。

その言葉だけが、やけに空虚に響いた。


榊原は電話を切り、机のペンに目を向けた。


インク窓は、昨日よりさらに減っていた。

明らかに“何かを消費している”減り方だった。


「……お前が……やってるのか?」


ペンは動かない。

だが、その沈黙こそが決定的な答えだった。


数日後、警察が訪ねてきた。


「榊原裕哉さんですね。

あなたの小説と、最近の事件について少しお話を伺いたくて」


刑事の声は柔らかいが、目は明らかに警戒している。


「少し……気になる一致点が多すぎましてね。

あの原稿、いつ書かれたものです?」


「……数週間前です」


「嘘ですよね」


榊原は息を飲んだ。


「出版社から提出された原稿の日付、

そしてあなたのデータファイルの更新履歴。

どう見ても“事件発生の前日”になっている」


「それは……違うんです。そんなはずは……」


言葉が続かない。


「あなたの小説に出てくる“第2の事件”。

犯行の手口から遺体の倒れた角度まで一致しています。

偶然だと説明できますか?」


できるはずがない。

だが、説明すればするほど“狂った作家の妄言”にしか見えない。


「何か隠していることはありませんか?」


刑事の声が低くなる。


榊原はかろうじて首を振った。


「……ありません」


「そうですか。また伺います」


刑事が去ったあと、部屋には重い沈黙だけが残った。


 


その沈黙を破るように――

机の上のペンが “コトッ” と音を立てた。


榊原は凍りついた。


見間違いでも気のせいでもない。

ペンは今、確かにわずかに“転がった”。


そして、その横には新しい原稿用紙が一枚。


震える手で拾い上げる。


《第3の事件》


その文字を見た瞬間、榊原は悟った。


ペンは、止まる気がない。

物語は、まだ先がある。


そして――


“次の事件が起きたとき、警察は確実に自分を疑う”


その未来が、避けられないほどに鮮明だった。



 第3の事件を予告するような原稿用紙を見つけた夜、榊原はほとんど眠れなかった。

 ニュースでは連日、前代未聞の連続殺人として大きく取り上げられ、街は不安に包まれている。

 しかし榊原にとっての恐怖は、もっと別のところにあった。


 “このペンは、事件が起こる前に原稿を生む”

 その事実が、もはや否定できない。


 だが――本当にそれだけなのか?


 榊原は机に向かい、例のペンを前にして静かに息を吐いた。

 インクは残り三分の一ほど。

 だが、そのわずかなインクすら“不気味な活力”を宿しているように見えた。


「真相を……確かめるしかない」


 榊原は初めて、“自分から”ペンを手に取った。

 これまでは勝手に動き、勝手に原稿を置き、勝手に現実を食い始めた奇妙な存在。

 しかし今回は違う。

 自分の意思で書く。

 その瞬間に何が起きるのか――試す必要があった。


 原稿用紙を一枚置き、深呼吸する。


 ペン先を紙に近づけた刹那、

 インクが震えた。


 まるで、喜んでいるように。

 あるいは……待っていたように。


「……何なんだ、お前は」


 榊原は、ゆっくりとペンを走らせた。


《真相に近づくとき、ペンは何を書くのか》


 自分の字で書いたはずなのに、書いた瞬間、ペン先が勝手に動き出した。


《――真実を知ろうとする者は、物語に吸われる》


 榊原は慌ててペンを止めた。

 だが、止まらない。

 手に力を込めても、ペンは滑るように文字を書き続ける。


《作者が真実に手を伸ばすほど、物語は完成を求める》


「やめろ……!」


椅子を蹴って立ち上がり、ペンを机に叩きつけた。


 その瞬間、動きが止まる。

黒い軸は静まり返り、まるで最初から動いていなかったように転がっていた。


荒い呼吸を整えながら、榊原は書かれた文字に目を落とす。


《真相へ近づくほど、物語は“作者の死”へ向かう》


読んだ瞬間、体の芯が冷えた。


――思い出した。


あの“誰にも見せていない設定ノート”。

昔、売れない焦りの中で自分を鼓舞するために書いた、稚拙なプロット。


連続殺人小説のクライマックスは、

「真相に触れた作者が死刑になる結末」

という、若さゆえの痛々しいアイデア。


それを――


「……俺が書いた設定を、ペンが覚えているってことか……?」


思わず笑いそうになった。

冗談だ。そんなはずはない。

だが、ペンが“過去の設定”に沿って世界を動かしているとしたら?


第1の事件。

第2の事件。

今出てきた第3の事件予告。

そして――


榊原は、設定ノートの最後のページを思い出した。


“最終章:作者・榊原卓也、死刑”


寒気が、背骨を伝って駆け抜ける。


 


そのとき、スマホが震えた。

画面には、予想していた名前があった。


「……川本さん?」


『ああ榊原さん、ちょっとまずいことになった』


「まずい?」


『今回の“第3の事件”、警察が“作家の模倣犯説”を本気で調べてる。

お前の小説が“事件を誘発してる”可能性があるとか……』


「ちょっと待ってください。俺は何もしてない」


『わかってる! 俺は信じてる!』

『でも……警察はそう思ってないみたいだ』


通話の向こうの息遣いが重い。


『……榊原さん、本当に何も知らないんだよな?』


「……はい」


『なら信じる。だけど――早く“次の作品”を書いてくれ。

編集長が、“この勢いで連作にしたい”って』


「……」


喉の奥に鉄の味がした。

連作?

この物語を続ける?

本当に?


電話が切れたあと、榊原は机の上の“勝手に書かれた文字”を見つめた。


《真相へ近づくほど、作者は死に向かう》


つまり――榊原が事件を調べた瞬間、

“ペンが書きやすくなった”のは、本当にそういう理由だったのか。


真相を追うほど、“物語としての整合性”が整う。

そして、物語が整うほど――


作者は死ぬ。


胸の鼓動が乱れ、喉が渇き、足元が揺れる。


「……俺は、真相に近づいたら……死ぬのか?」


だが気づいてしまった。

もう後戻りできない。

真相から目をそらせば、この薄気味悪い物語に永遠に飲み込まれる。


その絶望の狭間で、榊原はひとつの決意をする。


「……なら、書き換えてやる。

最終章を、“作者の死”じゃなくする……」


ペンを、にらむ。


黒漆が、薄闇の中で光った。


まるで――笑ったように。


 榊原は、机に向かい、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

ペンは相変わらず無機質な沈黙を保っているが、

いまやそれは沈黙ではなく“監視”に思えた。


――この物語を終わらせなければならない。

――ただし、“作者の死”ではなく。


胸の奥で何度も反芻する。

書き換えれば未来は変わる。

過去に文章が届くというのなら、未来を上書きできるはずだ。


「……できる」


自分に言い聞かせてペンを手に取った。


紙に触れた瞬間、ペン先のインクが微かに震える。

拒むように、しかし待ち構えるように。


榊原は強く握り、書き始めた。


《第3の事件は起きない。

被害者は助かり、犯人は未遂に終わる。

物語はここで終息する――》


書いた。

書いたはずだった。


だが、次の瞬間。


紙の上の文字が、インクの粒子へと崩れ、

ゆっくりと――


“勝手に書き換わっていく”


榊原は凍りついた。


インクが紙の中を逆流するように走り、

彼の文章を食い尽くし、別の文字を刻んでいく。


《第3の事件は避けられない。

被害者は死亡し、犯人は姿を消す。

物語はより深い章へ進まねばならない》


「ふざけるな……!」


榊原は原稿を破り捨てた。

細かく細かく裂き、床にまき散らす。

だが、破られた紙切れのひとつひとつに、

黒いインクがじわりと浮かび上がり、


《――死者が出る》


という一文だけが、擦り込まれたように浮かび続けている。


「嘘だ……こんなの……!」


紙を踏みつけても、文字が消えない。

むしろ、より濃く、より鮮明に。


まるで“世界そのもののルール”がそこに刻まれているかのように。


ペンを机に叩きつけると、

カラン……と乾いた音を立てて転がった。


だが、転がった先で止まると、

まるで意志を持つように立てかけられた紙へ向き直る。


榊原は全身が粟立つのを感じた。


「……世界が……小説のルールに……?」


思わず声に出た言葉は、あまりに荒唐無稽だった。

だが、他に説明がつかない。


物語には死者が必要だ。

事件には犠牲が必要だ。

そして、クライマックスには“作者の死”が必要だ。


それは若き日の榊原が書いた、粗雑な“物語の初期設定”。

それを――このペンは守ろうとしている。


「ふざけるなよ……。

そんなもの、ただの落書きだ……!」


榊原は新しい紙を取り、

震える手で書いた。


《作者は死なない》


シンプルな文章。

だが、世界を書き換えるには十分だと思った。


しかし、ペン先から落ちたインクが、

否定するかのように、文字をぬぐい取っていく。


消える。

何度書いても消える。

――ペンが消している。


そして、代わりに浮かび上がるのは同じ言葉。


《作者は死ぬ》


榊原は息が止まりかけた。


その時、窓の外で救急車のサイレンが響いた。

遠く、しかし確実に近づいてくる。


テレビをつける。

ニュース速報のテロップが流れる。


“第三の殺人事件が発生”


現場の地図が映る。

原稿に書かれていた場所と――全く同じ。


画面に、寒空に震える鑑識の姿が映った瞬間、

榊原は確信した。


“書き換えようとした瞬間、

世界は逆に“死者の出る方向”へ補正された”


物語が現実を上書きするのではなく、

“物語が現実を修正する”のだ。


その修正力は、作者である自分の意思すら上書きする。


気づけば、スマホが震えていた。

画面には見覚えある番号。


――警察だ。


榊原は、深く、重く、ためらいながら液晶を見つめた。


物語は止まらない。

自分の死へ向かって進むために必要な“章”が、

まだ残っているからだ。



玄関のチャイムが鳴ったとき、榊原はすでに覚悟していた。

テレビでは第3の事件の続報が流れている。

現場の特徴、被害者の配置、凶器の痕跡――

どれも自身の原稿に“忠実すぎるほど忠実”に一致していた。


チャイムが二度、三度。

その音が、粘つくように部屋の空気へ染み込んでいく。


榊原はドアに向かう前に、机の上の“例のペン”を見た。

ペンは穏やかにそこにある。

ただの文房具のように。


だが、榊原には分かっていた。

いま世界は、この小さな道具の決めた“整合性”の上に構築されていることを。

自分がどんなに抵抗しても、

世界は物語の進行を止めようとしない。


呼吸を整え、ドアを開いた。


そこには刑事が二人。

昼間来た刑事もいた。

今度は“柔らかい顔”ではない。

完全に“疑っている顔”だ。


「榊原裕哉さん。

任意同行をお願いしたいのですが」


穏やかな口調だが、言葉に逃がす隙がない。


「……任意、ですか」


「ええ。任意です」

そう言いながら、後ろには制服警官が三人控えていた。

任意とは名ばかりだ。


榊原は、抵抗の意味がないことを悟り、うなずいた。



暗い部屋。

硬い机。

頂点から落ちる照明の白光。

紙の擦れる音ばかりが耳に残る。


刑事は厚いファイルを机に置いた。


「これは、あなたの未発表原稿です」

「出版社から提供を受けました」


榊原の喉が鳴った。


「これを見てください。

第3章のプロット。

“場所・被害者の特徴・凶器・遺体の倒れ方”……すべて、事件と一致している」


「一致……じゃない……!」


榊原は思わず叫んだ。


「俺が書いたから現実になったんじゃない……!

現実が、俺の書いた通りになっているんだ!」


刑事は眉をわずかに動かした。


「つまり……あなたの文章が、現実を作り変えていると?」


「違う!

文章が現実を動かしてるんじゃなくて……

現実が“文章に合わせて修正されてる”…!

俺じゃない……俺じゃないんだ……!」


刑事はしばらく黙って榊原を見ていた。

そして、静かにファイルを閉じる。


「……そういう話を信じろと言われても、困ります」


冷たい声だった。


「あなたは、事件の詳細を“事前に知っていた”。

未公開原稿に書かれていた内容は、現場の状況と完全に一致する」

「合理的に考えれば……犯人を知っていた、もしくは――」


榊原は椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「違うっ……!

 俺が書いた原稿じゃないッ!」


刑事が鋭い声で制した。


「あなた以外に、誰がこの原稿を書いたと?」


「ペンだ……!」


その言葉が室内の空気を凍らせた。


「ペンが……勝手に……未来の事件を書いて……

書かれた物語に合わせて、世界が……!」


刑事は深いため息をついた。


「……榊原さん」

「あなたの言っていることは理解したくてもできない。事実として、あなたが書いた“文章通りの事件”が起きた。

そして、あなたには明確な動機も不在証明もない」


「ち、ちが……!」


「もういい」


刑事は視線を逸らし、静かに言った。


「逮捕状、出たよ」


強烈な現実が、榊原の心臓を締め付けた。


「――殺人の首謀者として、あなたを逮捕する」


手錠が冷たく手首に閉まる。

ガチリと鳴った音は、まるで“物語のページが閉じる音”のようだった。


 夜の空気は冷たかった。

フラッシュが焚かれ、記者が叫ぶ。


「榊原先生! 第3の事件に関与は!?」

「原稿通りに事件を計画したんですか!?」


「違う……違うんだ……!」


声にならない叫びが漏れた。


だが、誰も信じはしない。


――そうだ。

物語の“整合性”からすれば、

榊原が犯人であるほうが都合がいい。


世界は、小説のルールで動いているのだから。



薄暗い車内で、榊原は膝の上で指を握りしめた。

息が浅く、肺が苦しい。


ふと、胸ポケットに何かが触れた。


――あのペンだ。


誰も取り上げなかったのか。

それとも、取り上げられなかったのか。


黒漆の軸が、不気味な静けさで光っている。


インクは──残りわずか。


榊原は震える指でペンをつかみ、心の中で叫んだ。


「頼む……もう終わりにしてくれ……!」


しかしペンは応えない。

ただ、まるで“ページをめくる準備”をしているように沈黙していた。


この先にある章――

それが何か、榊原は知っている。


次の章は、“拘置所”。

その次は──“死の判決”だ。



拘置所の夜は、不自然なほど静かだった。

壁に染みついた湿り気、古い金属の匂い、遠くで時折響く足音。

どれも現実のはずなのに、どこか“作り物めいた冷たさ”がある。


榊原は薄い毛布を肩にかけ、膝を抱えて座っていた。

時間の感覚は曖昧で、

外の世界とは遮断され、

ただ自分の呼吸音だけが響く。


すると、看守が小窓を開けた。


「……筆記具、だと?」


「お願いします。

……書かせてください。どうしても必要なんです」


看守は呆れたようにため息をつきながら、

数秒ほど沈黙した。


「……特別に。

 暴れないのを条件だ」


渡されたのは、

本来ならここに存在してはならない道具。


――例の、黒いペン。


どういう経緯でここに戻ってきたのか、見当もつかない。

だが、榊原には分かる気がした。


“ペンがここに来ることを望んだ” のだ。


机代わりに使える小さな板が渡され、

榊原は震える手でペンを持つ。


心臓が嫌な鼓動を刻む。

喉が乾き、指先が冷たい。


書かなければ。

書き換えなければ。

この物語の“最終章”は作者の死――

それを変えなければ、未来は決まってしまう。


「……よし……」


榊原は原稿用紙を広げ、書こうとした。

ペン先を紙に落とす。


残量は、本当にわずか。


——あと数文字書けば、終わる。


世界なのか。

物語なのか。

榊原自身なのか。


そのすべてが、

インクの残りにかかっている。


 


「……俺は……最後に書き換える……」


榊原は震える手でペンを持った。


「……インクが……

切れたら……

俺は、どうなる……?」


問いは返ってこなかった。


ただ筆先が、

ひどく穏やかに揺れただけだった。


「……最後に、書く」


小さな声は、誰にも届かない。

だが世界は、それを確かに聞いていた。


榊原は、紙を用意し、椅子に腰を下ろした。

ペン先を紙へ向ける。


震える手で、ほんの一行を書こうとする。


《この物語はフィクションで》



音はしないのに、

紙の上で世界が揺らぐ感触があった。


榊原は息を飲む。


“もしもここで『この物語はフィクションです』と書けたなら——

世界そのものが“物語”として閉じてしまうのではないか?”


そう思った。


もしそうなれば、事件も死刑も、

物語として扱われるだけで消えてしまう理屈だ。


だが反対に——


“『この物語がフィクションではない』と書けば、

世界と物語が一致してしまい、

自分は死刑という“現実”から逃げられなくなる。”


榊原は震えた。


どちらを書いても、

どちらを書かなくても、

終わる。


終わりを決めるのは、

物語か、

現実か、

ペンか、

それとも——インクそのものか。


榊原の心臓が高鳴る。

頭の奥で、物語の構造が軋む音がした。


「……どっちだ……

どっちが……まだ……生きられる……?」


榊原は、両手で顔を覆った。

涙は出なかった。

ただ世界が薄く揺れていた。


 


やがて、ゆっくりとペンを持ち直す。


書かなければ、インクは残ったまま。

書けば、インクは尽きる。


インクが尽きたら——

どうなる?


書いた言葉は、たった一行。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この物語はフィクションです 微風 豪志 @tokumei_kibou_tokumei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ