もしあの夜、彼が来ていたら…
浅野じゅんぺい
もしあの夜、彼が来ていたら…
駅に着いた瞬間、ふわっと雨の匂いがした。
冬の雨は嫌いじゃない。
街のざわめきが、少しだけ静まる気がする。
ホームに降りると、ひんやりした空気に肩をすくめた。
──この匂い。
胸の奥が、かすかにざわつく。
一歩進んだとき、その理由が輪郭を持った。
あの雨の夜。
改札の前で、私は立ち尽くしていた。
足先まで冷え、胸の奥だけがそわそわしていた。
雨音は強いのに、スマホの画面は真っ黒なまま。
光のない液晶が、期待の形を冷たく映していた。
──来ないんだろうな。
覚悟はしてた。
それでも、どこかで信じてた。
人混みが苦手なのに、
私の前では不器用に笑ってくれた彼。
その声が恋しかった。
最近は、会話に小さな隙間ができて、
並んで歩いても、同じ景色を見ていない気がした。
それでも最後くらいは向き合える。
そんな願いを、勝手に抱いていた。
──終わるなら、ちゃんと言ってほしかった。
せめて、言葉で区切りをつけてほしかった。
あとで聞いた話では、あの夜の着信は
彼のスマホにいくつも残っていたらしい。
それでも、彼は出なかった。
胸の奥には、小さな火だけが残った。
触れれば消えそうで、
でも、そっと手をかざすとあたたかい。
思い出した彼の手の温度も、笑顔も、
痛みより“ありがとう”の方が少しだけ勝っていた。
悲しさは確かにあった。
でもその奥には、やさしい時間がちゃんと息づいていた。
あの夜の私も、誰かをちゃんと想っていたんだと思うと、
少しだけ誇らしかった。
雨の匂いがすると、今でも胸がきゅっとする。
でも、それでいい。
歩いてきた証みたいで。
もしあの夜、彼が来ていたら。
少し話して、少し泣いて、
それでも結局は別れていたのかもしれない。
そう思うと、不思議なくらい心が楽になった。
雨音が弱まったころ、私は息を吸った。
胸の奥の火が、やさしく揺れた。
もう、あの夜の続きを待たなくていい。
顔を上げると、遠くの光が少しまぶしく見えた。
──行ける。
あの夜より明るい方へ。
ゆっくり歩き出せそうだった。
もしあの夜、彼が来ていたら… 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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