魔女と至高のリンゴを探す旅路
小柄宗
第1話 至高のリンゴを食べさせて
冷たいアスファルトでできた灰色の街のなかで、勇一は迷子のように立ち尽くしてしまっていた。通りすがる人々が勇一を迷惑そうに一瞥し、なにも言わずただ避けていく。
勇一は大学卒業後、親が継ぐようにせがんでいた家業を継ぐことなく上京した。漠然とした、それまでの人生が変わるかもしれないという予感に動かされたに過ぎない。
そしてこの都会で出会ったのは、終わりの見えない疲労の毎日の連続だった。
得意なことがあるわけでも、実現したい夢があるわけでもない男は、一見して小奇麗なオフィスで働けるIT企業に就職した。
その実態は、自身の人生を切り売りするような労働だった。連日の残業に疲弊し、目的のないまま仕事で人生を擦り減らしていく勇一の足は、職場に向かう途中で止まってしまったのだ。
自分のいるべき場所はここではないのかもしれないと、勇一は思った。勇一を障害物のようにして流れていく人々は、疲れているようでもこの街に順応している。
なにかしらの楽しみを持つことで、目の前の苦労をやり過ごすすべを心得ているようだ。
勇一には、この街でその楽しみというものを持つことができなかった。
親しい友人は故郷に置いてきた。一人で外出しても、なにかにつけ田舎者の負い目や気後れがあって楽しむことができない。
そして満員電車のなか、ぎゅうぎゅうに詰められながらも人々は慣れた様子でその時間を過ごしている。
勇一はその息苦しさに慣れることができなかった。この街に来るまでは想像もしなかった苦痛が存在するのだと、思い知らされるだけだった。
うつろな目で勇一は空を見上げた。街が灰色だと空まで灰色に見えるようだった。
「あなたでいいわ。ちょっとあなた」
勇一は、最初それが自分にかけられた言葉だと気づかなかった。
「あなた、聞いているの」
そこで初めて前に立っている人物へと目を向ける。
黒いワンピースを着た女性だった。腰までの黒い長髪が背中を覆っており、露出の少ない衣装に身を包んだ肌は透き通るように白い。
細い顔は勇一を向いている。少し毒々しいとも感じる赤い唇。鼻が高く、大きい目のなかの黒い瞳が勇一の姿を鏡のように映していた。
「俺のことでしょうか」
「そう、あなたよ。あなた」
女性はまっすぐに勇一を見つめている。
「あなた、リンゴというのを知っているかしら」
いきなり予想外のことを尋ねられ、勇一は困惑した。女性は勇一の答えを期待しているのか、小首を傾げて待っている。
戸惑いつつ勇一は口を開いた。
「えっと、リンゴですか? 果物のでしょうか?」
「さあ、知らないわ。それを知らないから聞いているのよ」
もっともだと勇一は思う。さすがに女性も問いかけにしては情報が少ないことに気づいたのか、考えるように空を見上げた。
「でも、食べることができるとは聞いているわね」
「それじゃあ、やっぱり果物のリンゴでしょうか」
「そうかもね。あなたはリンゴを知っているというわけかしら」
「そのリンゴだったら知っていると思います」
勇一の返答を聞き、女性は満足げにうなずいた。
「わたしにリンゴを食べさせて」
「リンゴをですか?」
「そう。それともイヤかしら」
勇一は言葉に詰まった。
これから仕事に行かなければならない。だが、職場に向かうための足は止まったままだ。ここから前に進むことはできそうもなかった。
「いえ、嫌ではないですけど」
「それじゃ、お願いね」
ずっと女性は無表情だが、顔に注ぐ日差しと影の模様で笑ったようにも見える。
軽やかに女性が足を踏み出した。女性は勇一の横を通りすぎて歩いていく。
勇一は女性を追うために振り返った。今まで重かった足が、自分でも意外なほど軽く動いた。
「言い忘れていたけれど、ただのリンゴじゃだめよ」
横に並んだ勇一へと、女性の冷たい声がかけられる。
「わたしが求めているのは、至高のリンゴなの」
「至高のリンゴってなんですか」
「それをあなたが探して食べさせてもらうのよ」
リンゴは知っている。だが、至高のリンゴなんていうものを勇一が知っているはずがなかった。
それでも女性と一緒にいないと、この足が再び止まってしまいそうで怖かった。仕方なく勇一は女性と並んで歩き続ける。
「どうして至高のリンゴを探しているんですか」
「決まっているじゃない。わたしが魔女だからよ」
魔女だから決まっているという理屈も、魔女そのものも勇一にはわからない。
ただ、晩秋の季節にワンピース一枚でいる異様さに勇一は気づいた。周囲から向けられる奇異の視線を気にしないことも、この女性が魔女だからだろうか。
その女性について、わからないことばかりだった。質問しても意味のある答えが返ってくるわけでもない。
問いかけることも諦めて、勇一は女性とともに人込みのなかを歩いていった。
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