第3話 隣家への侵入
此処は四階。空家の屋上に飛び移ることは可能である。殆ど蔦に埋まってしまっているような家には治安局もなかなか近付かないだろう。
そうと決まれば話は早かった。サロはあまり深いことを考え込む性格ではなかったし、そういう時間もなかった。逃げるにせよ隠れるにせよ、僅かな躊躇が自分の退路を閉ざしてしまうことをサロはよく知っていた。厳しい母親が氷のように冷たい眼差しと声で幼い自分に教え込んだ「教訓」のために。
サロは部屋を出ると、外から鍵をかけ直した。それから共用通路の外柵の部分に足をかけた。いつも自分の家に向かう時に、その気になれば外から侵入出来ると思っていた構造であるが、脱出するのに使うことは想定外だった。柵の向こう、僅か2メル足らずの場所に隣家の屋上が見える。位置としてはこちらのほうが少し高い場所にあるが、大した距離ではなかった。柵を蹴り飛ばし、体を宙に投げ出す。
一瞬だけ体が浮いたような感覚がしたが、それは幻のように瞬く間に消え去り、代わりに重力が体を押さえつけた。着地のために足を伸ばす。踵が屋上へ接する。骨が揺れるような感触がしたが痛みはなかった。そのまま緑に埋め尽くされた屋上の上に転ぶように着地する。蔦の葉がちぎれて青臭い匂いがサロの鼻腔を刺激した。
むせ返りそうな臭いを払いのけたい気持ちを我慢して、サロは家の中に入るための出入り口を探す。集合住宅の場合は階段室が屋上に突き出ていてそこから出入りすることが多いが、個人宅の場合は屋根の一部を開閉式にした簡易的なものが多い。蔦と泥と、あとはもはや何なのか考えたくもないものを手と足で払いながら進むと、漸く目的のものを見つけた。人が一人通り抜けられるほどの四角い切れ込み。本来なら内側から鍵がかかっているが、蔦の侵食によって扉が数ミラメルほど持ち上がってしまっていた。
「よかった。流石に鍵穴がないと開錠難しいからな」
サロは浮き上がっている扉を両手で掴むと何度か左右に揺すった。留め具も雨で腐食していたらしく、何度かの微かな抵抗の末にあっさりと家から分離された。家の中から埃っぽい臭いが一気に上がってくる。
扉から床までは大した高さもなかった。というより先ほど隣の建物から飛び降りたばかりの身には、寧ろ低いようにすら感じられた。四角い穴の縁を掴んで足から中へと飛び降りる。下にあった廊下に着地と共に、今度は埃が舞い上がった。
「そろそろ鼻か喉がいかれるな、これ」
空家の中は存外綺麗だった。誰かが中に入って荒らしたような痕跡もない。床や天井に使われている木材と石は傷んでいるが元々高級品らしく、少し手入れすれば昔の輝きを取り戻せそうだった。
扉がいくつか並んでいる。試しに一つのドアを開けてみたが、中は物置になっていた。木材やそれを加工するための道具が並んでいるところから見るに、この家の主は職人かそれに準ずる職業だったに違いない。
廊下の先に階段を見つけたサロは、慎重に下へと下った。二階は三階とは違って、階段を下りるとすぐに広間になっていた。中央に大きなテーブルが据えられているところから見ると、ここは家族の団らんの場だったのだろう。窓際に置かれた棚の上には写真立てがいくつか倒れている。一番大きなものをひっくり返してみると、綺麗な服を着て背筋を伸ばした幼い少年が、優しい笑みの老人と共にこちらを見ていた。まだそれほど古いものではない。少年の右目の下にある黒子がまるで不法侵入した自分を咎めているように見えてサロはすぐに写真立てを元通りに伏せた。
「家具は置きっぱなし……。急な事情で家を手放したってとこか。服とか残ってるといいんだけど」
変装のための服が調達出来ることを期待しながらサロは広間を通過してその先にある扉に向かった。開いた先には短い廊下と、左右と正面にまた扉が配置されている。サロは正面の扉にだけ金属製のプレートが打ち付けられていることに気がつくとそちらに近付いた。プレートには「ミラ」と刻まれている。この部屋を使っていた人間の名前かもしれない。ドアノブに手をかけて引っ張ろうとしたとき、それが奇妙な形状をしている事に気がついた。
「錠前……、か?」
ドアノブには片手で握り込めるほどの金属製の箱がついていた。見たことも無い花弁のような形の鍵穴と、その穴の奥に小さな歯車が見える。サロは一度考えたあと、その箱に手を添えた。いつも未知の鍵に対してそうするように、自分の能力を発動する。
指先から自分の意識が抜け出す「呼掛」。そして一瞬の間の後に「応答」があった。錠前の構造を理解した瞬間をサロはそう名付けていた。自分の頭で何か考えるというよりは、自分の呼び掛けに相手側が「答えてくれた」という感覚が強いためである。
アンロッカーを二本鍵穴に入れ、歯車を回す。薄い金属片を弾いていくような軽快な音が静かな家の中に響く。
「本当はこういうのはじっくり開錠したいけど、そういうわけにはいかないからな」
少々残念そうにいいながらサロは最後の手順のために右手を動かす。一際甲高い音が鳴って、錠前は床へと落ちた。ドアノブを手で引くと、あっさりと扉が開いていく。
サロは道具をポーチにしまいつつ中に入ったが、そこにあったものを見て思わず短い悲鳴を上げた。部屋の中は綺麗に整えられ、同じ大きさの大きな木箱が積み上げられていた。そしてその狭間に一人の少女が椅子に腰掛けていた。
誰かいたのか。サロはそう思ったが、すぐにそれがあり得ないことを思い出す。この家はどう考えても人が住める状態ではなく、そしてサロが鍵を開けていた最中にも部屋の中からは何の気配もしなかった。
冷静になってもう一度少女を見る。眠っているように首を下げ、銀髪を肩まで垂らしている。身に纏った服は上等な黒のワンピースだったが、少々時代遅れのように見えた。椅子の肘置きに置かれた両手を見たサロは、漸くそれが何かを理解する。
「人形かよ……、驚かせやがって」
それは精巧に出来た人形だった。木を削って作ったパーツをいくつも組み合わせ、特殊な加工を施しているらしく、顔や腕などはまるで本物の人間のように滑らかだったが、指の細かな関節部まではその加工も行き渡っていなかった。
「人形師の家だったってことか? ってことはこの箱も全部人形かよ」
となればこの部屋に自分が求めるようなものはなさそうだった。仮に人形の服を見つけたとして、それを着たいとは思わない。骨折り損だとサロが大きく溜息をついた時だった。
「何かお探しなのですか、我が主」
鈴を転がすような声が聞こえた。サロがその声の方を見る。声は座っている人形から聞こえていた。
突然のことに何も言えずにいるサロの前で、人形の指がまず動いた。一本ずつ曲がり、伸び、そして肘掛けを掴む。続いて大きな身振りで首を動かした。銀色の髪が揺れて伏せていた顔が現れる。長い睫毛は髪と同じ銀色。瞳は鮮やかな緑色だった。硝子細工なのだろうが、本物の瞳と変わらないように見える。瞳がゆっくりと左右に動き、そしてサロの姿を捉えた。
「な、な、何? 何だよ、これ」
サロはその場から何歩か後ずさる。人形は最後に足を動かすと椅子から立ち上がった。人間では不可能な方向に関節を何度か曲げたと思うと、最後には直立の姿勢になる。ワンピースに積もっていた埃が部屋中を舞うのが見えた。
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