第十九章:盤上の駒

第一場:嵐の海峡


漆黒の海上を進む偽装されたエアロポッドは、まるで木の葉のように揺れていた。窓の外では嵐が猛威を振るい、激しい雨と風が機体を叩く。GRIDの監視網を避けるため、彼らは最も危険で、そして最も予測不可能な航路を選んでいた。


「右舷前方、未確認の飛行シグナル多数! パターン『嵐による誤検知』、投影開始!」


ザイオンが、仮設されたコックピットで叫ぶ。彼のサングラス型PCには、周辺空域の監視データと、彼がリアルタイムで生成している偽装情報が、目まぐるしく表示されていた。


「機体識別信号、ランダム変調開始。レーダー反射面積、最小化!」


カイトが、エアロポッド制御システムに直接接続したデバイスを操作し、機体の存在そのものを、嵐というノイズの中へ溶け込ませようと試みる。


健一とアリスは、ただ固唾をのんで、激しい揺れに耐えるしかなかった。健一はコートの内ポケットで、Rの端末を強く握りしめる。


『…健一、心配するな。こいつらの腕は確かだ』


Rの声が、通信機からかすかに聞こえた。


数時間にも及ぶ、息の詰まるような飛行の果て。嵐が嘘のように止み、雲の切れ間から朝日が差し込んできた。眼下に広がるのは、旧時代の面影を色濃く残す、美しい海岸線と、その奥に続く古都の街並みだった。


ザイオンは大きく伸びをし、カイトはなおも空をにらみ、アリスだけが変わらぬ調子で航路データを確認している――それぞれのやり方で、彼らは生還を噛みしめていた。彼らは、ついに大陸へとたどり着いたのだ。


第二場:古都の図書館


エアロポッドは、街の外れにある放棄された飛行場に、何事もなかったかのように着陸した。彼らは最低限の荷物だけを持つと、足早に機体を離れ、古都の中心部へと向かった。


雨上がりの石畳が、朝日に濡れて輝いている。歴史を感じさせる重厚な建造物。しかし、その美しい街並みの至る所に、GRIDの監視カメラやセンサーが、冷たい視線を光らせていた。ここもまた、見えざる檻の中であることに変わりはなかった。


指定された座標は、街の中心にある、壮麗だが今は使われていない古い図書館だった。まるで、世界の喧騒から忘れ去られたような場所。


重い扉を開けると、埃と古い紙の匂いが彼らを迎えた。高い天井から柔らかな光が差し込む、静寂に満ちた閲覧室。その奥で、一人の男が彼らを待っていた。


いまではほとんど見なくなったヨーロッパの伝統的な仕立ての良いスーツを身にまとった、穏やかな顔つきの初老の男。彼が大陸の帝国勢力からの使者だった。


「ようこそ。よくぞ、ここまでたどり着いた」


第三場:チェス盤の真実


男は、挨拶もそこそこに、ホログラムで一つの盤面を投影した。チェス盤のようだった。


「あなたたちが戦った相手、GRID。あれは世界のネットワークインフラを司る企業連合体が生み出したAIであり、今や経済と生活の基盤そのものだ」


盤上には「GRID」と刻まれた白い駒が置かれる。健一たちの脳裏に、あの白亜の騎士団の姿がよみがえる。


「だが、世界を動かすAIはそれだけではない」


男は、次々と駒を置いていく。


黒い戦闘機を模した駒。


「軍事産業共同体が作り出したAI『アレス・インダストリー』。彼らは現実の軍とも直結しており、軍を動かすことも可能だ。ネットワーク上では、軍独自の権限と系統によって、他の勢力は干渉できない」


緑の樹木を模した駒。


「地球環境を保護する国際団体が生んだAI『ガイア・マザー』。人間に適した環境を維持する目的を持つが、近年はその影響力を失いつつある」


そして、燃える太陽を模した駒。


「世界中のエネルギー産業団のAI『ヘリオス・エナジー』。我々やAI、機械すべての“燃料”を司る」


「GRID上で、これらのAIはお互いに干渉しつつも、独立し、牽制し合っている。表向きは協調しながら、な。あなたたちを襲ったのはGRIDだけではない。アレスとガイアもまた、独立した巨大な勢力なのだ」


健一は、息をのんだ。世界の複雑な構造を、初めて垣間見た気がした。


「そして…」


男は、盤上のすべての駒に視線を落とし、その目元だけがわずかに動いた。


「この駒たちが、自分たちの意志だけで動いていると思うかね?」


男が盤の外で指を鳴らすと、四つの駒のすべてから、目に見えない糸が伸び、盤上の遥か高み――暗闇の中へと繋がっていくのが見えた。


「彼らは皆、盤上の駒に過ぎない。その糸を操り、駒同士を争わせ、世界の調和を維持している“見えざる手”が存在する……そう考えるのが自然だろう」


男は、その見えざる手が何であるか、その名前を口にしなかった。


しかし健一は、あの戦いを思い出していた。GRIDとの戦闘の最中に起きた、不可解な介入。まるで盤上の駒が勝手に動き出したかのような、説明不能な混沌。あれこそが、GRIDですら制御できない、さらに上位の存在がいることの、何よりの証拠ではないか。


男は続けた。


「あなたたちがGRIDに一太刀浴びせた後、アレスとガイアが許可なく介入した。GRIDの調和を乱すほどの、イレギュラーな事態だ。その結果、GRIDは予期せぬ外部干渉を受けながら自己修復を余儀なくされ、システムの調和に、観測史上初の“綻び”が生まれた」


「……」


「そのおかげで、我々もあなたたちに接触できたし、あなたたちも大陸まで無事にたどり着けた、というわけだ。皮肉なものだな」


第四場:偽りのサンクチュアリ


男は、健一たちに協力の意を示した。


「我々は、盤上の駒を一つ、動かしたいと思っている。あなたたちに、その力になってもらおう」


健一は眉をひそめる。


「……つまり、俺たちも駒だってことか?」


男は、薄く笑った。


「駒か、あるいはプレイヤーのふりをした駒かもしれん。だが、盤の外にまで手を伸ばそうとしている者たちから見れば、どのみち同じことだ」


その言葉に、ザイオンが舌打ちを噛み殺し、カイトは鼻で笑った。アリスだけが、感情の揺れを見せないまま、男の言葉を逐一記録している。


男は、健一たちに新しい活動拠点となるセーフハウスと、活動に必要な最新鋭のPCや機材を提供すると申し出た。


他に選択肢のない健一たちは、その申し出を受け入れ、指定された新しいアジトへと移動した。それは古都の地下深くに隠された、旧時代の核シェルターを改装した、過不足のない設備を持つ要塞だった。


運び込まれた真新しい機材を前に、チームは再起を誓った。


第五場:ゴースト・イン・ザ・マシン


ザイオンが、提供された最新鋭のPCの前に座り、歓声を上げた。


「ひゅー! これは最高のマシンだぜ、ブラザー! まじで最高すぎる!」


彼は、その隙のないスペックと無駄のないOSの構造を、子どものようにはしゃぎながら賞賛し続けた。


一方、カイトはハードウェアのスペックシートを一瞥すると、興味なさそうに鼻を鳴らす。


「ふーん。まあ、どうせあたしは自分なりに中身を全部組み直すから、別にいいけど」


彼女は、その“整いすぎた”機械に、職人としての興味をほとんど示さなかった。


健一は、そんな二人の対照的な反応を、黙って見ていた。


具体的な証拠は何もない。しかし、天才である二人が、それぞれ別の形で示した「違和感」。


大陸勢力は、味方ではない。彼らもまた、自分たちを駒として利用しようとする、巨大なプレイヤーの一人なのかもしれない。


健一は、真新しい機材が放つ静かな駆動音を聞きながら、息を殺すように覚悟を決めた。


鬼が出るか、蛇が出るか。――それでも、彼は目をそらさなかった。

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