第五話:幻影の城

第一場:フィルター『幻影』


健一は、ついに謎解きの本質を理解した。手に入れた「断片」は、それ自体が次の扉を開けるための「思想のフィルター」なのだ。彼は、螺旋の道標が示す三つ目のアイコン――工場の歯車――へと意識を集中させた。「運が悪い男」の記録である。


「R、ダイブを開始する。フィルターは『Māyā(マーヤー)』だ」『了解。…健一、あなたの脳波は安定しています』Rは、もはや警告を発しなかった。健一が決意とともに、この危険なダイブの中に、ある種の秩序と安定を見出し始めていることを、正確に理解していたからだ。


健一の意識は、再び過去へと沈んだ。今回のダイブは、前回までとは明らかに感覚が違った。マーヤー(幻影)というフィルターを通すことで、男の認識する世界が二層に分離して見えたのだ。


表層は、彼自身が信じる「現実」。輝かしい投資の世界。緑色に輝く数字の羅列、膨れ上がっていく資産、彼の知性と先見性の証明。それらは彼の築き上げた、難攻不落の「城」だった。だが、フィルターはその下にある、彼が幻影として無視する、もうひとつの世界を映し出す。


――ゴホッ、ゴホッ…。肉体を蝕む、乾いた咳。――「あなた、もしものことが…」。不安そうに自分を見つめる、妻の瞳。――泣き止まない、赤ん坊の声。


第二場:驕りの核心


男は、この「真実」の世界から目をそらす。咳は些細な雑音、妻の不安は無知ゆえの杞憂。彼の意識はつねに、安全で、輝かしく、そして完全にコントロール可能な幻影の城に籠っていた。


健一は、フィルターを通して、男の意識の流れを観察した。男は、咳が出ると、即座に意識をスマホの株価チャートへと逸らす。妻が不安を口にすると、彼は心の中で彼女を「情弱」と見下し、思考を投資戦略へと切り替える。見事なまでに、彼は「真実」から目をそらし、心地よい「幻影」の中へ逃げ込み続けていた。


健一は理解した。この男の魂の核心は、幻影が崩壊した後の絶望ではない。幻影(Māyā)を維持するために、真実(肉体や他者の心)を意図的に無視し続ける、その精神の在り方そのものだ。そして、その行為を可能にしている、絶対的な自己への過信。


――それこそが驕りだ。


健一は、もはや感情の奔流に飛び込む必要はなかった。ただ、その歪んだ魂の構造を、静かに理解する。その瞬間、彼の意識は、男の魂の核心と、まるで鍵と鍵穴が合うかのように、完璧に同期した。眩い光とともに、三つ目の鍵の断片が、健一の意識の中に流れ込んできた。


第三場:三つ目の断片


【鍵の断片 3/5 :: Hubris(ヒュブリス):驕り(おごり)】


「…ヒュブリス」現実に戻った健一の脳裏に、Rが即座に意味を提示する。『古代ギリシャ語における「驕り」「傲慢」』。


やはりな。健一は、三つ目の断片を静かに受け取った。彼は、螺旋のさらに内側、高層ビル群のアイコンを、新たな決意の目で見つめた。――次にあの男を理解するためには、俺はまず、「驕り」の目で世界を見なければならない。

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