第四話:思想のフィルター

第一場:次の扉


最初の鍵【Tathatā(タタータ):真如(しんにょ)】を手に入れたことで、健一の心には確かな手応えが生まれていた。しかし、それは同時に、より深い謎の始まりでもあった。「タタータ」とは一体何なのか。擬音のようでもあり、何かのコードネームのようでもある。Rに解析させても、返ってくるのは「古代東洋哲学における『真如』は『あるがまま』を指す概念」という、要領を得ない答えだけだった。


「まあいい。今は、先に進むことが重要だ」


健一は、仮想空間に表示されたアイコンを見つめた。先ほどのS.Kの記録。そのひとつ内側で、螺旋の軌道上に静かに光を放っているアイコンがあった。親指を立てた「いいね」のアイコン。ターゲットは決まった。


「R、次の対象との同期を開始する。前回同様、俺のバイタルを監視しろ」『了解。ですが健一、今回は前回以上の精神的負荷が予測されます。対象の感情の振れ幅が、極めて大きい』「分かっている」


第二場:失敗


健一は、「いいね」に執着した男の記録へとダイブした。世界は、前の男とはまったく違う色彩と喧騒に満ちていた。家族の笑い声、SNSの通知音、ローンの督促状が放つ無機質な圧力。健一は、男の人生を追体験する。承認欲求の甘い高揚感と、現実の家計が火の車である焦燥。そのどちらもが、強烈な感情の波となって彼を襲った。


健一は、SEのときと同じ手法を試みた。男の感情が最も昂る瞬間を探し、そこに自らの意識を同調させようとする。人生最大の「いいね」の嵐を浴びた、独立報告の投稿の瞬間。――違う、扉は開かない。残クレの支払いに追われ、妻と口論になる絶望の夜。――これも違う。彼は何度も試みた。しかし、男の人生はあまりにも感情の起伏が激しく、核心となるポイントがつかめない。ただ精神をすり減らすだけの、無益なダイブが続いた。


第三場:鍵の使い方


「…なぜだ…」


現実に戻った健一は、焦りを隠せなかった。SEのときはうまくいった。彼の絶望と悟りの瞬間に、俺はたしかに共感できた。だが、今度の男は分からない。彼の行動はあまりに短絡的で、滑稽にさえ見える。そのとき、Rが静かに問いかけた。


『健一。あなたは、今回の対象者を、どう見ていますか?』「どう、とは?」『あなたの脳波パターンを分析すると、対象に対する微弱な軽蔑と、憐憫の情が検知されます』


Rの言葉に、健一はハッとした。――そうだ。俺はこの男を、心のどこかで見下していた。「いいね」という虚構に踊らされる、哀れな男だと。


行き詰まった健一は、唯一の手がかりである「タタータ」という言葉に、再び意識を向けた。「R、もう一度、真如の定義を表示しろ」モニターに、無機質なテキストが浮かび上がる。『タタータ:真如。あるがまま。現実を主観や分別を離れて、ありのままに見ること』


主観や分別を離れて――。健一の脳裏に、稲妻のようなひらめきが走った。「まさか…。次の記録を解析するための鍵は、パスワードのように入力するものではない。『真如』という思想(フィルター)を通して、彼の人生を観察しろ、ということなのか…?」




第四場:二つ目の鍵


健一は、再度「いいね」に執着した男の記録にダイブする。今度は、彼の行動を「滑稽だ」とか「哀れだ」と評価・判断することを、意識的にやめた。ただ、あるがままに観察する。彼の虚栄心も、家族への愛情も、金銭的な焦りも、そのすべてを善悪の彼岸から、ただ静かに見つめる。それは、まるで神の視点にも似た、静かで、冷徹な観察だった。


その境地に達した瞬間、健一は男の魂の核心に触れた。彼の行動を支配していたのは、喜びでも悲しみでもない。——ただひたすらに、実体のないものを追い求め続ける渇きそのものだった。健一の意識が、その渇きと完全に同期する。眩い光とともに、二つ目の鍵の断片が、健一の意識の中に流れ込んできた。


【鍵の断片 2/5 :: Māyā(マーヤー):幻影】


「…マーヤー…」Rが即座に意味を提示する。『古代インド哲学における「幻影」「幻」』。


健一は、ついにこの謎解きの本質を理解した。手に入れた「断片」は、それ自体が次の扉を開けるための「思想のフィルター」なのだ。彼は、螺旋のさらに内側、工場の歯車のアイコンを、新たな決意の目で見つめた。――次にあの男を理解するためには、俺はまず、「幻影」とは何かを知らねばならない。

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