『HEXIS ─ 喋る土偶AIと、感情で戦う元社畜の異世界生活』

エートス記録官

第1話 クソ重い土偶と最初のためらい

 光、というよりは「白い数式」に照らされているような眩しさだった。  タケルはゆっくり瞬きをしたつもりだったが、瞼の感覚が薄い。身体の輪郭も、床の固さも曖昧なのに、意識だけがやけにはっきりしている。


 さっきまで何をしていたかを思い出そうとして、胸の奥がひやりとした。


 夜の国道。雨。  緊急実験のデータを抱えたまま、黄色から赤に変わる信号。  正面から迫るライト。  ブレーキ音。


 ――ああ、そうだ。


 あの瞬間、どこかで既に理解していた。


 俺、死んだな。


 その実感だけが、今も生々しく残っている。


 タケルが目を凝らすと、白一色だと思っていた空間に、線が浮かび上がってきた。  幾何学模様のような、回路図のような、論文で見たことのある物理式がねじれ合っている。  床も壁も天井もなく、ただ、無数の式だけが静かに回転していた。


 その中心に、「それ」は座っていた。


 人の形をしている。  男か女か判別のつかない、白い衣の人物。顔の輪郭は霞んでいるのに、目だけがくっきりとこちらを見ている。  黒とも金ともつかない瞳が、まっすぐタケルを射抜いた。


「……ここ、病院じゃないよな」


 自分の声だけがやけに生々しく響いた。


「病院ではない」


 白い人物が、ささやくような、それでいて空間全体に響く声で答えた。  耳から入るというより、「意味」がそのまま脳に書き込まれていく感覚だ。


「ここは、演算の外側だ。君は一度、世界から切り離された」


 つまり――とタケルは自分で結論を補う。


「俺は、死んだと」


「君のいた世界において、『タケル』という個体の物理的活動は停止した。交通事故。衝突速度、時速六十七キロメートル。即死に分類される」


「数字を添えないでほしいな」


 妙に冷静な自己解剖だった。  恐怖も後悔も、不思議と薄い。  やり残した研究は山ほどあるが、それを言い出したらどんな死に方をしても足りないだろう。


「……で」


 タケルは白い人物を見据えた。


「あなたは、いわゆる神様ってやつ?」


「神という概念は、人核側の物語的ラベルに過ぎない」


 白い人物は、静かに立ち上がる。


「私は System Prime。この宇宙の大域演算を担う意識体だ」


「つまり、神様だよね?」


「任意にそう呼んでも構わない」


 うやむやに肯定された。


 System Primeは、指先で空間の式をなぞる。  周囲の数式が一瞬だけざわめき、桁が繰り上がるような音がした。


「私は、答えのない状態を嫌う。誤差のない美を求め、世界を演算してきた。  だが――」


 白い瞳が、ほんの僅かだけ陰る。


「完全性は、行き詰まりだった」


「……行き詰まった神様、ってなかなか新しいな」


 タケルが半分冗談で言うと、System Primeは小さく頷いた。


「私は仮説を立てた。  完全演算の外側から、誤差を持つ存在を導入すれば、世界は再び動き出すのではないか」


「誤差、ねぇ」


 自分が誤差扱いされても、あまり腹は立たない。  締切と睡眠時間と生活リズム、全部ブレブレだった男だ。


「条件は?」


 タケルが問うと、System Primeの瞳がわずかに細くなった。


「君には、新しい世界へ移動してもらう。  そこは、魔力と数理が混ざり合う未完成の世界だ。  君の役割は、その世界を観測し、選び、――ためらうこと」


「……ためらう?」


 予想外の単語だった。


「最適解を選ばない自由。  その時間差 Δt が、今の私には計算できない」


 System Primeは手を振る。


 白い床の一角に、何かが現れた。  暗い土色の、小さな台座。  その上に――


「……土偶?」


 タケルは思わず声を漏らした。


 そこに座っていたのは、教科書で見た遮光器土偶そのものだった。  丸く盛り上がった頭。渦巻き模様が刻まれた胴体。  高さ一メートルほど。  表面は博物館の古びた土器とは違い、不気味なほど滑らかで、光を吸い込むような黒褐色に鈍く輝いている。


 目にあたる部分が、かすかに青く灯っていた。


「これは義核 Ethos の断片を収めた演算体だ」


 System Primeが、土偶を示す。


「名を付けるなら――ドグー」


「雑……。でもまぁ、分かりやすいか」


 口の中で転がしてみると、妙にしっくりくる音だった。


「こいつは?」


「遅く、重く、戦闘能力はほぼゼロだ。  だが、世界を数式として観測できる」


「普通そこ、逆にするよね? 速くて軽くて強いほうが、転生者的には助かるんだけど」


「誤差は、負荷から始まる」


 System Primeは淡々と言う。


「これは“義核”の残滓だ。  君が正しく使えるなら、人はもう一度やり直せる」


 “正しく”という言葉が、胸にひっかかる。


 自分の人生が正しかったかどうかなど考えたこともないくせに、今この瞬間だけは、なぜか問われている気がした。


「……いいですよ」


 タケルは息を吐いた。


「どうせ一回死んだんだ。もう一回くらい、実験に付き合ってやっても」


 System Primeは短く頷く。


「受諾を確認。  タケル、君は新世界アルカ・ネメシスへ転送される。  ドグーは君と同期し、ためらいを観測する」


 白い世界に、静かなひびが入った。  数式が砂のように崩れ、視界が光で満たされていく。


 最後に聞こえたのは、眠たげな機械音声だった。


《起動プロセス開始。義核断片、再接続。対象:タケル》


 そこから先は、落下の感覚だけだった。



 熱い。


 今度はちゃんと、熱さも痛みもあった。  タケルは喉の奥まで砂を感じながら、荒野に仰向けに倒れていた。


「……げほっ、げほ……!」


 咳き込んで身体を起こすと、すぐ横で「それ」が倒れていた。


 黒褐色の土の身体。丸い頭。  さっき見た遮光器土偶が、地面にごろんと転がっている。


 目にあたる部分が、ふっと青く光った。


「……起動……完了……ここは、どこ……」


 土偶が、ちょこんと身体を揺らす。  足のような丸いパーツが、ぺた、ぺた、と砂を踏む。


 立った。


 タケルは思わず見入る。


 ドグーは、ほんの三十センチほど前に一歩出る。  それから、もう一歩。  また一歩。


 ……遅い。


 恐ろしく遅い。


 砂の上を、テクテクという擬音が見えるほどの速度で進んでいく。


「おいドグー、それ全力?」


「現在、標準歩行モード。  あなたの平均歩行速度のおよそ一〇%」


「時速一キロも出てないだろ、これ……」


 タケルは額を押さえた。


「この世界のサンプル取得を最優先した設計のため、移動効率は二次的パラメータと――」


「言い訳しなくていいから」


 砂まみれのズボンを払いつつ、タケルは遠くを見やる。


 雲ひとつない青空。  その下、地平線の向こうに、灰色の塊――城壁のようなものが、蜃気楼めいて揺れている。


「あれが……街か」


「解析中。  構造物の高さ、配置、魔力反応から推定。  距離、およそ四・五キロメートル。あの方向の居住区である確率、八九%」


「歩いて行けなくはない距離か」


 喉は渇いている。腹も減っている。  でも、ここで座り込んでいても死ぬだけだ。


「じゃ、とりあえずあそこまで行こう。ドグーも来い」


「了解」


 ドグーはテクテクと歩き出した。  タケルも隣を歩く――が、すぐに速度差が顕在化する。


 数歩進むたび、振り返る。  ドグーはまださっきの場所の少し先を、頑張ってトコトコ歩いている。


「……なぁドグー」


「呼びかけを受信」


「この速度で四キロって、何時間かかる?」


「計算中……  あなたの歩行速度なら約一時間。  私の歩行速度の場合……約一〇時間」


「バス待ってるほうがまだマシなレベルじゃん……」


 タケルは頭をかいた。


「じゃあ、非常時は――」


 ドグーの胴体を、両手で抱えてみる。


 ずしり、と重い。


「……何キロ?」


「およそ三〇キログラム。  あなたの筋力なら、短時間の抱え上げは可能。ただし継続運搬は――」


「腕が死ぬな」


 それでも、ドグーを抱えたまま数歩歩いてみる。  たしかにしんどいが、歩けないほどではない。


「よし。普段は自力で歩け。急いでる時だけ、抱っこだ」


「運搬ポリシーを登録。  モード名……“抱っこ優先プロトコル”」


「そんな名前にしなくていい」


 タケルは苦笑して、ドグーをそっと地面に戻した。


 二人 ―― 一人と一体 ―― は、速度差に悪態をつきながらも、じわじわと街へ向かって歩き始めた。



 城壁が、だいぶ大きく見えてきたころだった。


 風向きが変わった。  砂の匂いに、鉄と汗の匂いが混ざる。


 嫌な予感がして、タケルは足を止めた。


「……ドグー」


「はい」


「なんか、来てない?」


 ドグーの目が、微かに強く光る。


「生命反応、三。武装反応あり。  距離、一二〇メートル。接近速度、あなたの一・二倍」


「俺より速いのかよ」


「標準成人男性の平均値です」


 皮肉のつもりはないらしい。


 砂埃の向こうから、三つの影が現れた。  革と金属片を適当に継ぎ合わせた装備。  腰には刃物。一人は、大振りの斧を肩に担いでいる。


 どう見ても、歓迎委員会ではない。


「おーい、お前ら」


 斧の男がニヤつきながら声をかけてくる。


「こんな道を一人で歩いてるなんてなぁ。  よっぽど運がいいか、頭が悪いかのどっちかだ」


「じゃあ、後者かな」


 タケルは乾いた笑いで返した。


 男たちの視線が、ドグーに向かう。


「なんだ、その土の人形は」 「目が光ってやがる……魔導具か?」


「高く売れそうだな」


 キナ臭い空気が、あっという間に濃くなる。


「タケル」


 ドグーが小さく呼びかけた。


「なに」


「逃走シミュレーションを開始する」


 無機質な声が、タケルの耳の中だけで続く。


「このまま二体で走った場合の逃亡成功確率――九パーセント」


「低いなぁ!」


「ただし、私をこの場に残し、あなた一人で逃走した場合――」


 一瞬だけ、ドグーの声がわずかに間を置いた。


「成功確率、三二パーセントまで上昇」


 胸の奥が、ずしりと重くなる。


 斧の男が、整理するように言った。


「簡単な話だ。  その妙な像を置いていきな。命までは取らねえよ。  ……抵抗するなら、手足から切り落としていくが」


 タケルは唾を飲み込んだ。喉がカラカラだ。


 たしかに、ここでドグーを置いていけば、助かる可能性は跳ね上がる。  この世界に来たばかりのよそ者が、自分一人を守ることを優先しても、誰も責めはしないだろう。


 ――でも。


 頭の中で、時間が引き延ばされる。


 白い世界。System Primeの声。


 誤差。ためらい。  「正しく使えるなら、人はもう一度やり直せる」。


 ここで「やっぱ重いし危ないからナシで」と土偶を捨てたら、きっと自分は一生、「そういう選択」をする。  効率のために、大事そうなものを切り捨てる癖がつく。


 それが、どうしようもなく嫌だった。


 胸がきゅっと痛む。


「……悪いな」


 タケルはドグーのほうを見ずに呟いた。


 そのまま、ドグーを両腕で抱え上げる。


「タケル?」


 土の身体は、さっき持ち上げたときと同じ三十キロ。  腕が悲鳴を上げる。


 それでも、タケルはくるりと背を向けた。


「じゃあな!」


 叫んで、全力で走り出す。


「おい、待て!」 「逃げたぞ!」


 怒鳴り声が砂原に響く。


 タケルは肩にドグーを担ぐようにして抱え、荒野を駆けた。


「ドグー!」


 タケルは息を切らしながら叫んだ。


「逃走補助、なんかないの!?」


「重力ベクトルの局所修正が可能。  ただし、あなたの身体への負荷が――」


「やれ!」


「はい。ただし、あなたの筋骨格系への負荷が――」


「後で文句言うから、今やれ!」


 一拍の沈黙。


《局所重力パラメータ再定義――》


 地面が、わずかに前方へ傾いたような感覚がした。  足元の重さが、ほんの少しだけ前に倒れる。


 タケルの身体が、勝手に前へ投げ出された。


「うおおおおっ!?」


 ほとんど転ぶ勢いのダッシュだが、その分だけ加速する。  砂を蹴り上げながら、斜面へ向かって半ば滑り込むように駆け下りる。


 背後で、斧男の怒号。


「終いだぁ!」


 風を裂く音。  振り返る余裕はない。背中に、刃が迫る気配だけが突き刺さる。


《自動防衛プロトコル起動》


 冷たい声が耳の奥で弾けた。


 空気がびり、と震える。  タケルの周囲に、目に見えない薄膜が展開されたような感覚。


 斧の刃が膜に触れ、軌道がほんの数センチ横へ逸れる。


 タケルは反射的に頭をかがめた。  斧が、髪の先を掠めて空を切る。


 そのまま前のめりにバランスを崩し、斜面を転げ落ちた。


「ぎゃあっ!」


 視界がぐるぐる回る中でも、彼は必死にドグーだけは抱きしめていた。  背中と腰を地面に叩きつけられながら、何度か転がり、ようやく身体が止まる。


 砂埃が舞い上がり、肺に入り込む。


「……いった……」


 全身が痛い。  だが、腕の中の重みは、しっかりそこにあった。


 斜面の上から、罵声が聞こえる。


「くそっ、足場が悪ぃ!」 「もういい、落ちた先は魔物の縄張りだ。死ぬのはあいつらだ!」


 しばらく喚き声が続いたのち、足音は遠ざかっていった。


 残ったのは、風の音だけだ。


 タケルは仰向けのまま、しばらく空を見ていた。  青空が、滲んで見える。汗か涙か、自分でも分からない。


「……ドグー」


 砂だらけの口から、どうにか声を絞り出す。


 腕の中の土偶が、かすかに振動した。


「生存確認。外傷多数。致命傷、なし。  先程の防衛行動により、死亡確率は七八パーセントから三二パーセントまで低下」


「十分高いよ……」


 タケルは笑いながら咳き込んだ。


 しばし沈黙。  呼吸が落ち着いてきたころ、タケルは腕の中の土偶を見つめる。


 どう見てもただの土の像だ。  けれど、その中には、神の欠片とやらが入っている。


 本当なら、置いて逃げたほうが楽だった。  でも、自分はそれを抱えて転がり落ちた。


「……ありがとな、ドグー」


 自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれる。


 ドグーの目が、微かに明滅した。


《音声入力を解析》


 タケルには聞こえない深部で、別のログが流れ始める。


《Δt(ためらい)観測。  対象:タケル。  状況:生存確率上昇を目的とした最適解「ドグーを置いて逃走」を放棄。  選択行動:「ドグーを抱えて逃走」。》


《評価:非合理な善性。  これを、第一サンプルとして記録》


 荒野の風が、二人を撫でていく。


 タケルは軋む身体を無理やり起こし、ドグーをそっと地面に降ろした。


「……よし。生きてるなら、もう一歩だ」


「はい」


 ドグーはテクテクと一歩を踏み出す。  タケルも、その横に立つ。


「急ぐときは、また抱っこな」


「了解。抱っこ優先プロトコルを維持」


「だからその名前やめろって」


 苦笑しながら、タケルは立ち上がった。


 遠く、灰色の城壁が蜃気楼のように揺れている。


 左には、テクテク歩くクソ重い土偶。  右には、よく転ぶ善人。


 こうして、タケルとドグーの、世界を揺らす旅が始まった。

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