第2話 宿屋とロキソニンと魔力問題

――石膏の天井が、やけに近い。


 タケルは重たいまぶたをゆっくり持ち上げた。

 最初に目に入ったのは、ぼんやり光るランプ。その次に、乾いた薬草の匂い。


 そして、全身の痛みが一気に意識へ戻ってくる。

 特に腰と背中が、悲鳴を上げていた。


「……俺、昨日……」


 盗賊。斧。砂煙。転落。

 その断片が蘇った瞬間、ベッド脇で椅子がきしんだ。


「よかった、気がついた!」


 茶色の髪を後ろでまとめた少女が、ぱっと顔を近づけてくる。

 十七、八だろうか。明るい目をした、おそらくこの宿の娘。


「ここ、ヴァンロックの宿屋炉辺亭よ。あなた、倒れてたところを兵士さんに運ばれてきて……」


「兵士……ああ、斜面から落ちたときのか……」


 タケルは状況確認より先に、もっと大事な質問を発した。


「ドグーは? あの土偶、そばにあった?」


「え、うん。ここに――」


 少女が指さす方向に、丸っこい土偶が立っていた。


「タケル、起床を確認。

 あなたの生命反応は現在安定しています」


「……お前だけは体のどこも痛くなさそうでいいよな」


「私は痛覚センサーを搭載していません」


「知ってるよ……」


 タケルは枕に顔を押しつけて、情けない声を漏らした。


 少女――サラと名乗った――が心配そうに覗き込む。


「どこか痛むの?」


「全部……特に腰が……ロキソニン……」


「ろきそにん?」


 タケルはがばっと起き上がる。


「ロキソニンないの!? 頭痛と腰痛の最強アイテムなんだけど!?」


「薬草ならあるけど……そんな呪文みたいなのは……」


「……異世界って、こういうところから地味に辛いんだよな……」


 頭を抱えていると、ドグーが淡々と言う。


「“ロキソニン”――未知語。意味不明。

 しかし、あなたの痛覚反応が強いことは確かです」


「今のが一番効いたわ……」


 痛みと絶望のあまり、涙が出そうだった。


 サラはため息をつき、タケルにぬるいスープを手渡した。


「しばらく休んでて。お金は取らないから」


「いや、払うよ! いくら?」


 サラは気まずそうに視線をそらした。


「……三日で銅貨八枚。でも、あなた……」


「財布ゼロです!!」


 沈黙。

 なぜか、部屋の空気だけが妙に澄んだ。


「じゃ……じゃあ、働いて返すしかない、ですよね……!」


 タケルは自分で言って自分でショックを受ける。


「……せっかく異世界転生したのに、初手がバイトって、どうなん?」


「あなた動けるの?」とサラ。


「動けないけど、動くしかないやつだよこれ……!」


 ドグーが追撃する。


「あなたの生存確率を算出します」


「やめろ、聞きたくない」


「現金ゼロ、魔力残量わずか、怪我多数。

 このままでは三日後の生存確率――三三%」


「お前ほんと空気読まねえな!」


「空気抵抗は計測できますが、読解は非対応です」


「そういうとこだよ!!」


 サラは吹き出した。


 タケルは額を押さえながら、ゆっくり身体を起こす。


「……で、ドグー。魔力残量ってどのくらい?」


「一六%。

 演算補助は簡易モード、重力操作は制限付き、

 防御フィールドは三秒が限界です」


「お前も死にかけじゃん!」


「死の定義は私に適用されませんが、動作停止確率は上昇します」


 タケルは深く息を吐いた。


「どうにかして魔力を回復しないとヤバいな……」


「はい。あなたと私の活動維持には、魔力補充が推奨されます」


「ただし、料金が必要です」とドグーが続ける。


「だろうな。で、いくら?」


 ドグーの胸部の紋様が光り、演算音が響く。


「高純度青魔石一個につき、魔力補充量は四〇%。

 料金は、銀貨三枚」


 タケルは目をむいた。


「高っ!?

 ガソリンより高いんだけど!?

 異世界のインフレどうなってんの!?」


 サラが苦笑した。


「魔力は街を動かすものだから……高いよ?」


「高すぎるだろ……! てか青魔石って一般に売ってるの!?」


「一応あるけど、すごく高級で……」


「ほら出たよ異世界名物、庶民には絶対買えない系アイテム!!」


 タケルはベッドに倒れ込んだ。


 そのとき、扉がノックされる。


「タケルさん、お食事……って、起きてたのね!」


 宿の女将が入ってきて、湯気を立てるパンとスープを置く。


「動けるようになったらでいいよ。掃除、薪割り、水運び……できる?」


「……できます。やります。やるしかないです」


「いい返事だねぇ。さっきは死んだ顔してたのに」


「死んだ顔っていうか……死にましたからね、一回」


「え?」


「なんでもないです」


 ドグーが空気を読まずに言う。


「あなたは“死亡後転生プロトコル”により――」


「黙れーー!!」


「了解」


 女将とサラがぽかんと固まった。


 タケルは恥ずかしさで真っ赤になりながら、スープをすすった。

 温かい。それだけで、救われるような気がした。


     ◇


 午後には、タケルは宿の裏庭に立っていた。


 薪割り。

 客室の掃除。

 皿洗い。

 水運び。


 腰は痛い。

肩も痛い。


 そして横でドグーは、いつも通りテクテク歩きながら言う。


「動作効率、三四%向上しました。

 あなたは肉体労働に適性があります」


「うるせえ!!」


「褒めています」


「褒めてないだろそれ!」


 サラが笑う。


「元気じゃん、タケル」


「異世界初日から現実に押しつぶされてるだけだよ!」


 夕方、タケルはゆっくり深呼吸した。


 痛みはある。

 金はない。

 魔力もない。


 でも、不思議と心だけは落ち着いていた。


「……なんだろうな。

 死にかけたあとに、こうやって生きてる感じ、悪くない」


 ドグーの目が淡く光る。


《ログ記録開始》


《観測:

 “合理的絶望下でも、生存戦略を選択する”。

 人間特有のΔt(ためらいの時間)が、再起動》


《評価:

 タケルの行動パターン=

 『諦めない』という非合理な選択》


《これを第二サンプルとして保存》


「タケル」

 ドグーが小さく言った。


「あなたの行動原理は、演算上は効率が悪いですが――

 生存率は上がっています」


「……そうかよ」


「はい。“諦めない”という時間差 Δt が、

 あなたの生命活動を継続させています」


 タケルは空を見上げた。


「じゃあ今日も、ためらいながら生きるか」


「了解。私も付き合います」


「お前はためらわねえだろ……」


「今、学習中です」


 ヴァンロックの空は灰色に沈んでいる。

 でも、その下で二人は確かに生きていた。


 所持金ゼロ。

 魔力ゼロ。

 将来性ゼロ。


 でもタケルは、ぽつりと言った。


「――明日、魔力を回復しに行けたら……いいな」


 ドグーの目がふわりと光る。


「はい。“生きるための計画”を、少しずつ進めましょう」


 夕焼けが、炉辺亭の庭をゆっくり照らしていく。


 こうしてタケルの異世界生活は、

 ロキソニンを求めながら、バイトから始まった。

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