第2話
「これ以上質問を投げかけても彼女は答えることができないよ。」
松永氏はそう私に伝え、秋はじっと松永氏の首元の赤い蝶ネクタイを見つめ続けていた。
「なんで彼女は何も言わないのですか」と食い下がる私に、松永氏は後でその理由を教えてあげるから、一時間後にここに来てくださいと、公民館近くにある喫茶店の名を私に告げた。
伝えられた喫茶店に行き、窓際の席で松永氏がやって来るのを待っていると、松永氏は秋と共にやって来た。なんだか嫌な感じがした。二人は私の正面に座り、アイスコーヒーをふたつ注文した。相変わらず秋は、私に対し興味はなさそうで、席につくなり、窓の外を眺めていた。
「さっき話していた理由を教えてください」
二人の前にアイスコーヒーのグラスが置かれると同時に私は切り出した。すると松永氏はふっと苦笑いをした。
「私の話を聞いたらもう以前のあなたには戻れないけれども、それでもよいかい」とよくわからない話を始めた。私には松永氏の話の意味がわからなかったが、もちろんそのつもりですとわからないままに答えた。
「秋はAdjusted Human、所謂A.H.というやつなんだ」と松永氏は言った。A.H.とはなんだろうというのが私の思いであり、それを見透かしたかのように松永氏は続けた。
「A.H.、つまり調整人間というのは負の感情がある閾値を超えそうになった時、その上限を超えないように制御するための装置を備えた人間のことだ。秋の脳内にはそれが搭載されている」
脳内にある装置?それはなんのために?
「なぜ彼女の脳内にそんな装置が入っているんですか?」
私の問いはあまりに直情的でどうにも恥ずかしい限りだった。私達が話している最中にも秋はずっと窓の外を眺めていた。
「個人の感情コントロールだけに頼っていたら、人間の精神はこの先のドラスティックな環境の変化に対し、精神的に耐えることができなくなるだろうと博士達の有識者は想定している。環境の変化というのは、高確率で発生が予想されている全地球を取り巻く戦争のことだ。おそらく避けようがない問題である。それ対する恐怖、緊張、絶望などネガティブな感情がある閾値を超えると、脳に設置されたマイクロマシーンからそれを緩和するための脳内物質が放出され、極端な感情の起伏が緩和する。マイクロマシーンはそのために人工的に開発されたものだ。マイクロマシーンは世間的に知られることなく一部の人間の脳内に試験的に装着が開始されている。マイクロマシーン自体は一センチメートル未満の小さないチップのような装置で、それを脳に埋め込む。マイクロマシーンを設置している調整人間のうちの一人が秋ということだ。マイクロマシーンは人間のネガティブ感情が暴走することを抑えられたが、ポジティブな感情を増幅する機能は備わっていない。それよりも逆にポジティブな感情を押さえてしまうこともある」と松永氏は話した。
私の脳内にはそんなものは入っているはずもなく、混乱と恐怖だけが脳内を再び充填した。私が困惑している顔をしていることに気が付き、松永氏はさらに言葉を続けた。
「私は水郷交響楽団の団長兼指揮者であるのと同時に、A.H.の開発グループの一員なんだよ。A.H.のことは世間には公表されていないことだから、今まで話したこと、そしてこれから話す事は絶対に口外しないでほしい。秋はA.H.の初回ロットで、脳内にマイクロマシンを施された初期のA.H.なんだ。私には開発者として、秋の様子を間近で観察する義務があったから、水郷交響楽団の指揮者としていつも傍にいたわけだ。秋のバイオリンの音色の正確さに君も驚いたことだろう。彼女はA.H.の処置を受けたことで様々な能力を手に入れた。IQの向上もその一つであり、それに彼女は機械のようにバイオリンを正確に弾くことができるようになった。ただ、一つ弊害があったとすれば、負の感情を抑圧できる代わりに、正の受容体も同様に鈍くなるケースが発生したということだ。ただそれは秋のような、初回にA.H.を施されたファーストロットに特異な現象だった。この説明でこれまでの彼女の行動の理由がわかっただろう。これはすべて本人達が望んだことなんだよ。」
松永氏の話は現実事とは思えなかったが、そう言われてしまえば、もっともらしい話に聞こえた。
「あなたは本当に自分で今の状況を望んだの?」
私は松永氏に向かって話かけることを辞め、秋の方を向いて話をした。なぜかとても悲しい気持ちになったが、秋が望んでいたのならば、納得できる気がしたからだ。
「君はなぜA.H.の施術を受けようと思ったの?」
そう聞いても秋は無反応だった。
「秋の両親が彼女に対するA.H.処置を望んだのだ」
しびれを切らした松永氏がそう言った。
「幼い頃から塞ぎ込みがちで、鬱傾向のあった秋に対し、両親は、彼女が普通の人と同じように生活できることを願い、A.H.処置を決めたのだ。」と松永氏は続けた。ただ、A.H.処置の理由はそれだけではなかったのだろうと、松永氏はにやりと口角を上げた。
「秋の両親はA.H.処置により副次的にもたらされるIQの劇的な向上にも重点を置いていたのは明らかだった。その時には既に彼女はバイオリンの練習は始めており、両親はバイオリニストとしての秋の姿を夢見ていた。両親は秋を一流のバイオリニストにしたかった。IQの向上というのは、私達研究グループが被験者をより多く集めるために苦肉の策でもあったんだ」
松永氏が熱心に説明している最中にも、秋は全く興味がない素振りで、耳を傾けているようには見えなかった。知らない方が良かったと今になって私は後悔の念にとらわれた。二人の前に置かれたアイスコーヒーはいつの間にか空になっており、私の前に置かれたレモンスカッシュはすでに炭酸が抜けきっていた。
「秋について私が話すことができるのは、これくらいです。」
松永氏はそう言って、会計用紙を手に取り、持ってきたコートに腕を通した。
「ところであなたもA.H.処置を受けませんか?あなたもいつも苦しそうな顔をしている、受けた方がよいと思いますよ。日々沈み込みがちなんでしょう。見ていればわかります。バイオリンを弾くくらいしか楽しみはないのでしょう。A.H.処置をした方がよい。気持ちが楽になりますよ。」
そう言って松永氏は会計用紙を持って席を立ち、秋の手を取った。二人は、並んで喫茶店を出ていった。
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