団地アパートメント・オブ・ワンダー

夢ノ命マキヤ

第1章 ようこそ、ワンダー団地へ


夕方の団地というものは、季節によって匂いが違う。


梅雨の時期は湿った洗濯物のにおいと、雨に濡れたコンクリートの灰色の香り。

真夏はベランダで焼かれるウインナーと、遠くのプールの塩素が混ざったような匂い。


そして――九月末の東京郊外は、なぜか引っ越しの段ボールの匂いがする。


今井タツミ(38)は、その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、団地の階段を上がっていた。

荷物の入ったキャリーケースの車輪がコンクリに擦れ、


ガラ…ガラ…ガラ…


と、間の抜けた音を立てる。


「はぁ……まじで帰ってきちゃったな」


階段の踊り場に差し込む夕陽が、やたらオレンジ色だ。

まるで、「おかえり」と言われているようでもあり、また「負けて帰ってきたのか」と背中を叩かれているようでもあった。


東京の広告代理店を辞めて、一週間。

肩書きも名刺も華やかな飲み会もなくなり、残ったのは大量の疲労と、薄っぺらい貯金と、そして――実家のこの団地である。


「4号棟、302号室……だったよな」


団地の外観は、子どもの頃とほとんど変わらない。

白いはずの外壁はところどころ苔が生え、手すりは赤茶けて、ペンキが剥がれている。


しかし、不思議なことに、それがタツミの胸を少しだけ安心させた。


階段の途中――


コツン、と肩に何かが当たった。


「すみませんねぇ」


振り返ると、買い物袋を提げたおばあさんが立っていた。やけに背筋がしゃんとしている。


「あ、いえ、大丈夫です」


「タツミちゃんじゃないかい?」


「……誰ですか?」


「ほら、3号棟の植木係の杉本さん」


その瞬間、タツミの脳の奥で、ホースで団地中に水を撒きながら子どもたちに粉ジュースを配っていたおばあさんの姿が蘇った。


「あっ、杉本さん! ご無沙汰してます」


「帰ってきたのかい。まあ、いいじゃないの。団地は逃げないよ。人も逃げにくいけどねぇ」


そう言って笑う。


この団地の住人は、なぜかみんな言い回しが哲学的だ。昔からそうだった。


階段を上りきり、302号室の前に立つ。

鍵を差し込む感触が妙に重く、カチャリ、と回った瞬間、湿った空気がふわりと流れ出てくる。


「ただいま……って言う相手もいないけど」


電気をつけると、薄暗い六畳間が姿を見せた。

畳の色は褪せ、壁紙にはうっすらと水の跡。それでも、どこか温かい。


タツミは荷物を下ろし、靴を脱ぎ、深く息をついた。


そのとき――天井の向こうから、


コン……コン……


という、小さな音が響いてきた。


「えっ」


ネズミか? いや、この響き方は違う。

まるで木の板を指で叩いているような、どこかリズムめいた音。


コン…コン……カン…


少しずつテンポが変わっていく。

まるで、


――合図のように。


「やめろよ、初日からホラーかよ……」


タツミは苦笑しつつ、天井を見上げた。


しかしその瞬間、すぐ近くの壁の向こうから、誰かの囁き声のようなものが聞こえた。


《……聞こえてますか……》


ゾクリ、と背中が震える。

今のは、テレビでもラジオでもない。確かに生声だった。


「え、ちょっと待て待て待て」


心臓が早鐘を打つ。

引っ越し初日。疲れ切っている。気のせいだ。きっと。


そう言い聞かせ、タツミは荷解きを始めた。


しかし30分後。


コン…コン…


先ほどの音が、また響く。

今度ははっきりと、タツミの頭上から。


「なあ……嘘だろ」


天井を見つめていると、突然、部屋のチャイムが鳴った。


ピンポーン。


タツミは飛び上がりそうになった。


「……誰だよ」


恐る恐る扉を開ける。

そこには――白いワンピース姿の女性が立っていた。


髪は肩までの黒髪。肌は透けるように白い。

目は、笑っているようで、どこか遠くを見ている。


「あの、隣の者です。ミオと言います」


声は柔らかく、涼しい風が通るようだった。


「さっきの音、多分うちの機械のせいで……驚かせてしまって、ごめんなさい」


「機械?」


ミオは小さくうなずいた。


「未来の家電なんです」


さらっと、とんでもないことを言った。


「……未来の?」


「はい。未来から来たので」


完全に真顔だ。


タツミは返す言葉を失った。


ミオは微笑み、「気にしないでください。たまに暴走するだけなので」と言って、軽く会釈すると帰っていった。


扉が閉まる。静寂。


「……いやいやいや」


タツミは頭を抱えた。


未来? 未来の家電? 暴走?

団地の住民は、昔から少し変わっていたが、これはだいぶ変わっている。


しかし――扉を閉めた瞬間、タツミは気づいた。


ミオの部屋の奥に、チラリと見えた銀色の箱。


見たことのない形。光の粒が浮かび上がり、まるで呼吸しているように脈動していた。


「……なんだあれ」


興味と不安が入り混じる。


その夜、天井から再び、


コン…コン…


と聞こえた。

今度は、その後に小さく、


《……きこえてる……?》


と囁く声が続いた。


タツミは布団の中で固まったまま、こう思った。


――帰ってきたの、失敗だったかもしれない。


しかし同時に、胸のどこかがほんの少しだけ、温かく、ざわついていた。

まるで、これから始まる何かを歓迎しているように。


***


翌朝。


「……寒っ」


安物の布団から顔を出した瞬間、タツミは思わず肩をすくめた。

団地の朝は、外気とたいして変わらない。


窓のサッシにはうっすらと水滴がついていて、カーテンのすき間から、隣の棟のベランダが見えた。


洗濯バサミ。干しっぱなしのタオル。まだ電気がついたままの部屋。

その全部が、「ああ、団地だな」と思わせる。


携帯を見ると、通知はほとんど来ていない。

元上司からの「今度一度、落ち着いたらご飯でも」のメッセージだけが、画面の上のほうで、いつまでも未読バッジをぶらさげていた。


「落ち着いたらって、いつだよ」


タツミはつぶやき、通知をそっとスワイプした。


顔を洗って、インスタントコーヒーをいれ、まだ何もないちゃぶ台の上にマグカップを置く。

部屋の真ん中には、開けかけの段ボール。


「キッチン用品」と書かれた箱の上に、東京時代の社員証がぽつんと乗っていた。


数秒見つめたあと、タツミは社員証を箱の奥に放り込み、ガムテープをペタリと貼った。


「はい、過去一丁あがり」


自分で言って、自分で苦笑する。


そのとき。


コン……


と、控えめな音が、また天井から降ってきた。


「まだ鳴るのかよ」


天井をにらむ。


妙なのは、ただの物音にしては、どこか間があることだ。


コン……

……

コン、コン……


まるで誰かが、「ここにいるよ」と合図しているような。


が、その「誰か」が、隣のミオと、彼女の謎の未来家電である可能性を思い出し、タツミは一気に現実路線に戻った。


「クレーム行くか、挨拶行くか……」


悩んだ末、「とりあえず、朝のうちに顔出しとくか」という結論に達した。


団地で揉め事を起こすと、噂は一日で全世帯に回る。

子どもの頃、廊下で紙飛行機を飛ばしたことが、翌日には「3号棟の今井君が、花火を廊下で打ち上げた」レベルにスケールアップしていた前科がある。


団地の噂話の成長速度は、育ちすぎた観葉植物並みだ。


スウェットの上にパーカーを羽織り、部屋を出て隣の301号室の前に立つ。


ピンポーン。


数秒の静寂。すぐそばで、小さな電子音がピッと鳴り、足音が近づいてくる。


カチャ、とチェーンが外れ、扉が少しだけ開いた。


「おはようございます」


昨日と同じ白いワンピースにカーディガンを羽織ったミオが、ひょこっと顔を出した。


「昨日は、いきなりすみませんでした」


「いえ、こちらこそ。引っ越し初日に未来とか言われて、脳が処理しきれてなかっただけで」


タツミが冗談めかして言うと、ミオはふふっと笑った。


「大丈夫です。だいたい皆さん、最初はそうおっしゃいます」


……だいたいってなんだ。


「えっと、その……音、大丈夫でした?」


「まあ、びっくりはしましたけど」


タツミが頭をかくと、ミオは少し申し訳なさそうに目を伏せた。


「ご迷惑でしたら、本当に止めます。本来なら、もっと静かなモードがあるんですけど、こちらの時代の電圧にうまく合わなくて……」


「電圧」


説明の単語がやたら具体的で、ふざけている感じがしない。


「未来の家電って、そんなに繊細なんですか」


「繊細というか……この時代の迷いを拾いやすいんです」


「迷い?」


「はい。人の迷いが強い場所だと、ちょっと過敏に反応してしまって」


団地の廊下に、朝の光が差し込む。

ミオの黒目が、その光を反射していた。


「……この団地、迷い、多いんですかね」


タツミが半分冗談で言うと、ミオは少しだけ言葉を選ぶように黙り、それから答えた。


「ここにいる理由を、自分で決め直しに来る人が、多い場所だと思います」


その言葉が、タツミの胸に、じわりと染みこんできた。


「……未来の人って、そういうこと言うの、得意なんですか」


「いえ、これはこの団地が教えてくれたことです」


そう言って、ミオはほんの少しだけ笑った。

なんだかよく分からないが、バカにされている感じは、なぜか全然しない。


「じゃあ、その……音、ほどほどにお願いできます?」


「はい。今日は静音モードにしてみます」


未来家電にまで静音モードがあることを知りながら、タツミは会釈をして、自分の部屋へ戻った。


扉を閉めてから、ふと気づく。


「……未来の家電って、型番とか聞きそびれたな」


そんなことを考えている自分に、ちょっとだけ笑ってしまう。


***


昼すぎ。


引っ越しの片付けを一段落させたタツミは、団地の下にある商店街へ降りていくことにした。

食料の調達と、ついでに、懐かしさの確認だ。


階段室を降りる途中、コンクリの壁に貼られた「自治会からのお知らせ」が目に入る。


《ワンダー団地自治会 秋祭りのお知らせ》


「……ワンダー団地?」


タツミは思わず立ち止まった。


昔は「第4団地」とか「○○団地」としか呼ばれていなかったはずだ。

いつの間にか、こんなあだ名が正式名称みたいに掲示物に印刷されている。


ポスターには、手書き風のイラストで、金魚すくいや焼きそば、輪投げの絵が描かれ、その隅には小さな文字が添えられていた。


《※時間帯によって、屋上ラジオの特別放送あり》


「……何それ」


ささやかな違和感が、胸のどこかでカチッと音を立てる。


団地の外に出ると、目の前には、昔と変わらない商店街が広がっていた。


八百屋。クリーニング店。古びた文房具屋。

そして――角には「純喫茶ワンダー」の看板。


「まだあるのか、ここ」


タツミが学生のころ、テスト前に友達とだべっていた喫茶店だ。

あのころは、マスターがなぜかいつも午後三時五分をさしている壁時計を直そうとしなかった。


「動かない時計はね、まだ間に合う時間を表示するんですよ」


と、訳の分からないことを言っていたのを思い出す。


店の前まで来ると、ガラス越しに、中で人影が動くのが見えた。


――マスター、まだ生きてるかな。


そう思いながら扉に手を伸ばしたとき、背後から声をかけられた。


「おっ、今井のとこの坊主じゃないか?」


振り向くと、青い作業着姿の男性が、段ボールを肩に担いで立っていた。


「……えっと」


「わかんねえか。3号棟の外壁工事やってた田所だよ。お前がガキの頃、足場に登ろうとして、お前んちの親父にめちゃくちゃ怒られてただろ」


「田所さん!」


記憶が一気につながる。

団地の人間関係は、一度思い出すと芋づる式だ。


「聞いたぞ。帰ってきたんだってな。まあ、いいじゃねえか。都会で一回転んだくらいで、人生終わらねえよ」


「……はい」


田所さんは、タツミの顔をちらりと見て、ニヤリと笑った。


「それにな、ここ最近、団地ちょっと面白えんだぜ」


「面白い?」


「夜のベランダとか、階段の影とかよ。まあ、そのうちわかるよ。ワンダー団地ってあだ名、伊達じゃねえからな」


そう言って、田所さんはどこか楽しそうに去っていった。


わけがわからないことばかりだが、さっきから、心のどこかがずっと、ざわざわしている。


喫茶ワンダーの扉を開ける勇気は、今日はまだ足りなかった。

タツミは代わりに、向かいのスーパーでカップラーメンと食パンを買い、団地の方へ引き返した。


***


夕方。


オレンジ色の光が、棟と棟の間に挟まれて、細長い夕焼けを作っている。

ベランダには、夕飯の匂いが漂い始めていた。


カレー。焼き魚。みそ汁。

それぞれの家庭の暮らしが、換気扇の口から少しずつ漏れ出して混ざり合う。


「……腹減った」


カップラーメンに湯を注ぎ、三分を待つあいだ、なんとなくベランダに出てみる。


鉄の手すりは少し冷たくて、手に触れるとかすかにざらざらした感触が残る。

目の前には、同じようなベランダがずらりと並び、洋服や布団がぶら下がっている。


遠くから、電車の走る音が聞こえた。


子どものころ、この音を「夜の怪獣の足音」と呼んでいたことを思い出す。


団地の真ん中には、小さな公園がある。

すべり台。ブランコ。砂場。


誰もいない夕方の公園は、一瞬だけ、時間が止まったように見える。


ふいに、どこかの部屋からテレビのニュース音声が漏れ聞こえた。


「――景気の先行きが不透明な中――」


その言葉に、タツミは苦笑した。


「こっちもだよ」


景気も、人生も、先行きは相変わらず不透明だ。


けれども。


このベランダに立っていると、不思議と、「ここからもう一度やり直してもいいか」と思えてくるから、団地はずるい。


ふと、隣のベランダに目をやる。


ミオの部屋の窓はカーテンが開いていて、中で、あの銀色の箱が淡く光っていた。


光は一定のリズムで、ゆっくりと明滅している。

まるで、巨大な心臓が、静かに呼吸しているような。


そのとき――


コン……


さっきよりはっきりとした音が、頭上から落ちてきた。


「……え?」


さっきまでの時間とは、何かが違う。

音のあとに、空気が一瞬だけ、薄くなるような感覚。


次の瞬間。


ひゅう、と小さな風が吹き抜けた。


団地のあちこちのベランダの洗濯物が、いっせいに同じ方向へ揺れる。


その風の中に――ほんの一瞬だけ、誰かの声が混じった気がした。


《……また 会えた……》


タツミは、思わず手すりを握りしめた。


今のは、気のせいか。隣のテレビか。それとも、天井の“コンコン”と同じ、あの声か。


夕暮れの団地は、何事もなかったかのように静かだ。

子どもの笑い声も、犬の鳴き声も、今は聞こえない。


聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。


ドクン。ドクン。


タツミは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ま、いいか」


そう言いながらも、心のどこかでは、はっきりと分かっていた。


――これは、ただの古い団地じゃない。


そして、もうひとつ。


――ここに戻ってきたのは、仕事を辞めたからでも、お金がないからでもなくて。


もっと別の何かに、呼び戻されたんじゃないか、ということを。


ベランダから部屋に戻るとき、タツミはふと、頭の中に浮かんできた言葉を無意識に口にしていた。


「ベランダってさ……人生の中庭みたいな場所だよな」


誰に聞かせるわけでもない、その一言。

だけどその言葉は、この団地のどこかで、そっと記録されていくような気がした。


夜が、少しずつ濃くなっていく。

天井の向こうでは、まだ小さく、


コン……コン……


と、誰かが控えめにノックしていた。


――ようこそ、ワンダー団地へ。


そんな声が、聞こえたような気がした。


(第1章 了)

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2026年1月2日 15:00
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