〜労働党人物物語〜
@ramfis
1人目 ジェームズ・キャラハン
巻け 巻け 巻け... 今からでも間に合う...
1979年3月28日、私はひどく寒い議事堂の中で不信任決議の票の集計をひたすら待っていた。我々は票を集めるために最大限の努力をしており無論、無所属の議員らにも呼びかけておいた。
北アイルランド選出のマグワイア議員が入ってきた時、私の陣営の中に笑みをこぼす者もいた。彼はこれに反対をするために来たに違いない。
しかし、結局彼はわざわざ棄権票だけ投票しにきたのだった。私たちは苛立ち、まだかまだかと忙しく思いつつ状況を見守った。フットはため息をついていた。無理もない。もしここで負けたのなら、私たちは野党にならざるを得ないことになるのだから。皆が投票し終えた後、ようやく集計が終わったようで、外から集計役の足音が聞こえてきた。私はこっそり院内幹事にどのような状況かを伝えてもらっていた。
保守党の集計役が議長席の左手側に向かう。
そのとき、保守党の議員たちがいっせいにどっと喚き、あのサッチャー自身もひどく興奮しているようだった。対照的に私は顔をこわばらせた。
集計役が語気を強め、結果を読み上げる
私はただ単にその状況を見ることしかできなかった。こちらの陣営は皆落ち込んでいた。
悔しさ・恨み・怒り、様々な感情を抱えながら私はただ目の前の彼女を見ることしかできなかった。
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レオナード・ジェームズ・キャラハン。そう名付けられた私は南部のポーツマスの家庭に生まれた。のちに聞いた話だが、父の祖先はアイルランド系であり、ジャガイモ飢饉の際に祖国を離れることになったらしい。父は水兵として海上にいたことが多かったので、幼少期の私はなかなか会えなかった。ところが、7歳の時に父が除隊し湾岸防衛の仕事に勤めたため私はようやく父と遊ぶ時間ができたのだった。私たち一家はイングランド南西部にある小さな港町トーベイに引っ越した。父の仕事はそのトーベイの沿岸で船の数を数えるだけとなり、本人もとても楽であっただろうと思う。私も何度か仕事場に行き、そのうちモールス信号を覚えるようになってしまった。父の見張りを手伝っていたある時、父がこう尋ねてきたのを覚えている。
「レオナード、お前は将来何になりたいんだ」
そして、私がこう答えたのも覚えている。
「父さんのように国に貢献する人間になるよ」
どんな形であろうとそう考えていた。
しかし、そんな平和で楽しい時間は数年で終わってしまった。父が死に、一家は暗い影に包まれた。当時の一家の状況は悲惨だった。私の昼食とは近所の食料品店に乞いて慈悲で食料をもらうか、パンをココアに浸して食べるかのどちらかだった。そして高い医療費、母の女性であるがゆえの偏見と差別。未亡人は生きるすべがないようでもあった。私たちはその悲劇から目を背けるように聖書を愛読し、ただその「嵐」が去るのを待つしかなかった。
なんと、その状況が3年後劇的に変わったのだ。1924年、マクドナルド労働党政権が発足、政府は未亡人に週10シリングを与えることを決めた!私たちはこの政府に救われた。たった10シリングと思うかもしれないが、私たち家族にとってそれは貧困という牢の一種の鍵だったのだ。
私はそれからというものひたすら勉学に励んだ。休憩する時は近くにカーネギー公共図書館という場所があったのでそこでディケンズやマコーリーの作品などを読んだ。図書館は冬でも暖かく、快適だった。中学を卒業後は大学に向けて勉強をしたいところだったが、残念ながら金銭的な理由から代わりに公務員の試験を受けた。勉学の末もあってだろうか、簡単に合格を果たした。
そして私は17歳にして税務署で働くこととなった。私はこの税務署で働くために近くの寮に住んでいたわけだが、職場との通り道にある書店があった。そこは話題の本を店頭に置いているような店で私はそこで時代の潮流を感じていた。ある日、その店頭にある一冊の本が目に留まった。「アップル・カート、バーナード・ショー著」
まったく変なタイトルだと思い、手にとり読んでみると私の脳に電撃が走った。まさに革命的であった。社会主義という論理の正当性など考えたことなかったし、資本家による独裁なんて意識したことがなかった。私はそのことを同僚に話すと、どうやらもう知っているようであった。ただ話はそこで終わりでは無く、その同僚がなんと税務署の労働組合を紹介してくれたのだ!私は無論、その労組に入った。労組での活動は魂を燃やすように頑張った。その結果、私は幹部に見込まれ書記にまで上り詰めたのだった。私はそこから税務署を退職し組合活動に情熱を注ぐこととなる。労働党との関係ができたのはその頃からだった。また、時を同じくして私の人生にもう一つの幸福が訪れた。私にもついに妻ができたのだ!その人はオドリーという同じクリスチャンの女性であった。ただ、この頃は幸福だけが訪れたわけではない。噂には聞いていたが、とうとうナチスが戦争を始めた。私は開戦から1年経った1940年、海軍へ入隊することを決め志願した。
ただ、結果として軍隊に入ることを断念することとなった。結核と診断されたためだ。私は病院へと入り、症状が回復するのを待った。その後私は仕方なく、本部から情報収集任務を行うことにした。私がそれを任された時、このような会話がなされた。
「レオナード君、君が担当するのは情報収集だ。我が国が戦争しているのはただナチスやイタリアだけではない、どこか知っているかね?」
「いや...わからないです」
「そうか、まあ無理もない。君が調べるのはもう一つの交戦国、日本だ。ここについて調べなさい」
私は聞いたこともない国を調べろと言われ大変戸惑ったが、なんとかして「敵国:日本」という冊子を作り上げた。結局、それがどのように評価されたかは知らないが、私は情報収集任務から外され、ついに船に乗ることになった。これが父がやっていた仕事だと思うと誇らしくもなる。ただ、戦うことはなかった。日本は降伏してしまった。私はこれからどうしようかと迷っていたが、ある日ハロルド・ラスキという人物から話が来た。
「なあ、君がレオナード・キャラハンであってるかい?」
「はい。」
「君は戦前、組合で活躍して名をあげたらしいな。ぜひうちの党から出て、次の選挙を戦ってみないか」
私はもちろんその提案に食らいつき、立候補の準備を進めて行った。選んだ選挙区はカーディフ南部。私は声高らかに新規住宅の建設から軍隊の復員問題に至るまで様々な労働者階級の問題を訴えた。また、私はこの選挙のために名前をレオナードからジェームズと名乗ることにした。インパクトのためである。結果は、6000票差で私の勝ちであった。33歳、新人議員「ジェームズ」・キャラハンの誕生だった。
国会議員になって最初に取り組んだのは英米貸付協定の問題だった。この協定は簡単に言えば米国が我が国へ復興のための融資を行うもので、私はこれが英国経済に打撃を与えると考えていた。そもそも、この国は米国の支配下に置かれるような国ではない。私は無論この協定に反対票を投じた。また、私は積極的な外遊も行った。とくにチェコスロバキアやアルジェリアなどに。私はそこから二つの考えを生み出した。一つは社会民主主義外交。これは米国の資本主義とソ連の全体主義に反対する第三陣営としての外交を期待してのことだった。二つめは植民地の解放。人道的な面でも良くはないが、なにより無駄で非合理的なものだと思った。私はこの二つの考えをもとにアトリー首相に軍縮を薦める手紙を出した。つまり、私はここまでの行動によると政府に批判的な党内野党のような感じではあったのだが、なんとアトリー首相は私を政府の一員に抜擢したのだ。
1947年、私は33歳にして運輸省の政務官となった。上司のバーンズ大臣により与えられた任務は交通道路の安全化であった。車自体が安全化されるよりも道路が安全化される方が効率的だと感じられていたのだ。私はこの任務のため本を漁って交通関係のアイデアを模索した。結果、私は二つのアイデアを見つけたのだ。横断歩道とキャッツアイだ。シマウマのようなその見た目の歩行者専用の道路は、政府に作ると助言した時は反対されたが、なんとか説得し導入されることが決まった。
その任務の三年後、今度は海軍における政務官を務めることとなった。その年に起こった朝鮮戦争では私に海軍の予算を決める権利を与えられた。そう思えば重要なポストだったかもしれない。ところがたった一年で私は政府のメンバーからまた外れてしまった。労働党のせいだというわけではなく、党が選挙で負けてしまったのだ。私は気づけば労働党の議員の中からの支持もあり、政府のメンバーではないが影の内閣で植民地相や財務相を務めることとなった。私にとって特に大事だったのは影の財務相としての時である。私はこの時期にケインズ主義に囚われない新たな経済思考を調べていった。そして影の内閣としてのキャリアを積んだのち、ついに私が政界の表舞台の注目を集める出来事が起きる。党首選挙への出馬だ。ゲイツケル党首が珍しい病で無くなったのちに行われた党内選挙だった。結果は41票で敗北。ただ、私は一定の存在感は示したと思う。そのこともあってか、この選挙で党首に選ばれたウィルソンは首相就任後、私を重職の財務相に起用したのだ!
私はさっそく国家統計の分析を行ったが、英国はそれによると頭がおかしくなりそうなほどの赤字を抱えていた。これをどうにかするためにはポンドの切り下げが不可欠だとも専門家に言われた。ポンドの切り下げは最終手段であり絶対に避けなければならないことだから、私はそのために尽力した。私は就任後10日で輸入品への関税を引き上げると発表。これはたいへんな物議を呼んでしまったが、私はなんとかしてそれに対応した。ただ、まあこれは私としても失敗であったことは否めない。その後、ウィルソンと協力して作った予算ではウィルソンの方針によって教育関連予算が引き上げられた一方、私の意向で増税が行われた。この予算も物議を呼んだ。この予算に怒った投資家たちによって金利の上昇が行われることとなった。イングランド銀行の総裁はこの予算案への抗議を行った。ただ、こっちにもカードがないわけではない。我々には総選挙という手がある。この予算に反対するのは投資家であり、それは少数である。私はこれにより脅したところ、相手は怯み、融資を決定してくれた。これは私にとって初めての勝利だった。しかし、ポンドとの戦いは終わらない。半年もするとまたポンドの国際的な地位が不安定になった。我々は仕方なく社会主義経済の放棄を行った。もちろん一時的なものだ。これによる予算をめぐって保守党と口論になった結果、ついに総選挙が開催されることとなった。結果は363議席、圧勝だった。私は増税によるポンドの地位の固定を行ったが、運は味方してくれなかった。中東での戦争により経済は混乱した。私は様々な方法でポンドを守ろうとした。IMFにも交渉した。しかし、結果として我々はポンドの切り下げを行ってしまったのだ。負けてしまった。私は議会にて野党からひたすらに糾弾された。個人的な苦痛が増した。私はもう耐えられず、ついにウィルソンに辞表を提出した。
「私はもう耐えられません。私は大変な努力の末敗北しました。これは政治的な侮辱です。」
「わかっている。ただ君だけの責任ではないのは留意しておいてくれ。君の辞表も受け取るよ。
ただ、代わりにジェンキンス君と交代して内務相を務めないか?」
こうして私は内務相へと異動することとなった。最初に取り組んだのは連邦移民法の制定だった。この法律は植民地主義の痕跡を消すことに繋がると思ったが、予想通り保守党の奴らは反対した。
「こんな法律施行したらケニアの奴らが来るだろうが!」
こんな下品な発言をするなんてどうかしてると思うが、保守党の人間は平気で言う。ただ、労働党が過半数だったおかげで無事に可決された。次に私は人種関係法の制定を行った。どちらかと言えばこっちの方が反対が大きかったが。これはつまり、人種によって住居の契約だったりの様々な社会契約を断ることを禁止する法律だったのだが、保守党の奴らは猛反発した。そこまで差別がしたいのだろうか?これに特に反対したのがパウエルという奴だ。
「黒人が白人に鞭を払うことになる」だとか
「移民を制限しろ」だとか言った。
ただあまりにも過激的すぎて保守党内でもこれは物議を呼んだ。結局この法案も可決された。また、もう一つ私が取り組んだことがあった。北アイルランドに関する問題である。不満が高まっていた。ウィルソンはこの問題に関与しないことを望んだが、あまりにも激化したので我々は軍隊を送る以外の選択肢がなかった。ただ代わりとして我々はユニオニストの過激派を追い詰めたり、投票権に関する解放などを行なった。
我々はそうした末、総選挙に挑んだがウィルソン個人の問題やらで敗北してしまった。
この野党時代に特に行ったことはないが、私は財務大臣・内務大臣を歴任した後今度は外交に興味が湧いてきた。そして私はウィルソンに申し出て、影の外務大臣となった。
4年もすると私たちは再び与党となった。
私が外務大臣としてまず最初に取り組んだのがキプロスの問題だった。ギリシャの軍事政権がこの島を統一するとトルコに脅しをかけたのだ。トルコはこれに対してついにキプロスに軍隊を派遣すると返答した。イギリスは1960年に結んだ条約によりこの問題に関わることになっていた。私はひとまず国連と協力してトルコの侵攻を遅らせた。また、停戦の実現のために三カ国で会談を行った。結果、この島における紛争はいったん終わりを告げた。また、この停戦は恒久的なものにもなった。私の最初の仕事は成功した。また、私は親欧州として残留に関する国民投票を行い、残留多数で離脱派に民意を示させた。また、アフリカの独裁国から英国人を解放させる交渉やフォークランド防衛のための軍隊派遣など仕事に尽力した。
そうしたある日、ウィルソンから誕生日会に誘われた。ウィルソンの知人宅で行われた華やかなパーティーが終わると、ウィルソンは議会に行くと私に伝え、ウィルソン首相の車に私も乗るように言った。その道中だった。
「キャラハン君」
「なんですか?」
「私はどうやら、アルツハイマーに罹ってしまったようでね。もう首相を続けることはできないんだ。」
「辞めるんですか?」
「そうだ。もちろん党首も辞任する。そうすると私の後継をめぐって党内選挙が行われるだろう。そこで君には出馬してもらいたいのだ。」
彼はこの会話の5日後、テレビの前で辞意を表明した。また「年齢には拘らない」と私を意識した発言もした。ただ、辞任の「本当の」理由は明かさずに政界を去った。
そして、ウィルソン派の協力のもと、私はついに労働党の党首となったのだった。64歳、ジェームズ・キャラハンはここに英国首相となった。
首相として私が最初に取り組んだのは約10年前にも対応したポンド危機であった。ここでは成功させると意気込み、前回失敗したIMFとの交渉を行った。融資の実現のためには財政支出の削減が予想されるため、財務相のヒーリーと共に労働組合会議と交渉し賃上げの抑制を行った。結果的には最大週4ポンドの暫定案がまとめられた。私の秘書官のドナヒューは優秀な人物で現実志向であった。彼と次の党大会に向けて演説の原稿を作成していた。
「キャラハンさん、今どきもうケインズ主義とか唱えても労組にしか響かないんですよ。」
「そうなのか?まあ、ポンド危機だったりを見るに国民からも労組が邪魔になってるのは否めないが。」
「ですから、次の演説は現実的な内容でいきませんか?」
そして迎えた演説日、私は党の歴史に記憶される演説を行った。
「失業の原因は何でしょうか。それは私たちが生産する以上に消費をしてきたということです。不景気の時も減税すれば生活資金を獲得できると考えてきましたが、そのような選択肢はもう存在しないのです。」
会場がざわめく。私は労働党の党首としてケインズ主義を否定したのだ。この演説は閣議を通して審議されておらず、演説後には労組や党内左派の議員たちが抗議した。また、この影響から労組との交渉は中止され、労働党と労組との距離は遠くなった。労組を強気にしたのは言うまでも無くマイケルフットやトニーベンに代表される党内左派の影響があった。私は党を安定させるためにも彼らを無視することはできなかった。
IMFは我が国との交渉を加速させた。ヒーリー財務相と相談した結果、我が国はIMFから39億ポンドもの融資を求めた。難しい交渉の末にようやく合意に至った。我が国は一時的に危機を脱した。そして私は雪辱を果たせた。ただし、反発も大きかった。党内左派の一部は閣僚を辞任した。それを見た保守党は内閣不信任案を出してきたが、可決されることはなかった。ここから私は経済安定化と労組との交渉に向けて動き出した。12月の閣議で賃上げを5%にすることを定め、労組への譲歩姿勢を見せた。しかし、労組は党内左派のせいで思っていた以上に突き上がっており、この要求を退け自由労使交渉を行うように全国の労組に指示をした。ただ、経済は未だ好調であった。1978年に入ると北海油田の収益のおかげで黒字化したのだ。インフレは落ち着き、労働党の支持率は回復した。国民はこの時期に総選挙を行うだろうと予測していた。テレビに出演した私はこの国民の疑問に対してついに答えることにした。
「キャラハン首相にはこの年内に総選挙を行うのではないかと期待が集まっていますが、どうなのでしょうか?」
「その件ですが、私は年内にはしません。1979年までに国民の支持を固めた上で解散をします。」
私は明確に総選挙を行わないと発言した。
10月、党大会で党内左派により政府の賃上げ5%上限に反対する動議が可決された。労組はそこから各地で暴走した。5%を超える大幅な賃上げを求めたのだ。
「要求は受け入れられない」
政府がそう発言すると労組はついにストを行い始めた。スコットランドから、イングランド、ウェールズへ。全国へ。私はその時、ちょうど外遊をしていた。私は空港で記者にこのことを問い詰められた。
「THE SUNのアーサーと申します。今回の危機について首相はどう思いますか」
「危機?危機だって?どんな危機だい?」
まさしく失言だったと思う。ストは激化した。清掃従業員は街の清掃をやめた。ロンドンはゴミで溢れかえり、ネズミが忙しく這い回った。救急隊員は人を助けなくなった。病院は閉鎖され、患者は家でまともな治療を受けずに死んだ。墓掘り人は墓を掘らなくなった。遺体はそこらじゅうに放置された。まさに混沌とした時代だった。誰しもが不幸だった。市民たちの間でこの騒動はシェイクスピアの演劇の冒頭のセリフから「不満の冬」と呼ばれた。従来、有権者が労働党に期待したのは労組の抑制であった。その労働党が何もできなかった。また、議員の一部が離党をした。自由党との連立を模索したが、長くは続かなかった。こんな状況でもキャラハンは初心を忘れなかった。イギリスの地位を守るため、ECからの通貨統合の提案を断った。
この情勢を虎視眈々と見つめる人間がいた。
マーガレット・サッチャー。保守党の女性党首として小さな政府を信奉していた。
そして
彼女は他の諸政党と協力し、不信任案決議を出した。
一票差。そして議会は解散された。
総選挙の結果はこうだった。
保守党:339議席
労働党:269議席
そこから約20年間、労働党は政府を担う能力がないとされ、野党暮らしをしていった。
私の政治スタイルは対話であると言われている。
私はこう述べたことがある。
「人と話し、人を信頼し、人と相談する」
党内左派を閣僚にしたのもその信条からだった。
政界を引退後、私はウィルソン時代に買った農場に時間を費やし、家族と過ごした。
そして93歳の誕生日の1日前、数日前に死んだ妻オドリーを追うように私はこの世を去った。
私の行いは党内左派から見ると社会主義への裏切りだとされており、右派からは優柔不断だと目されている。果たして私は国に貢献した人間になれただろうか...?
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参考文献
イギリス労働党概史
Time and Chance(キャラハンの回顧録)
※この物語はフィクションが含まれています。
〜労働党人物物語〜 @ramfis
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