父の遺言

 高校に入ってから、通学手段が電車に替わった。これまで通学の時間はペダルを漕ぐことに奔走ほんそうしていたので、このヒマな時間に何をするのが正解なのかもわからず、いつもただぼんやりと外を眺めていた。あれはいつだったか、窓にガリガリ君の広告が貼ってあった気がするので、確か夏だったんじゃないかと思う。でもなぜだか、そんなに暑かったという記憶はない。冷夏なんてここ最近聞きもしないから、きっと列車の冷房が良く効いてただけのことなんだろう。


 右から左へと、景色はゆっくり流れていく。暗闇の中、山の稜線が薄っすら浮んでいるのを横目に、ポツポツと家々の窓から明かりが灯っているのが見えた。疎水そすいを渡る大きな橋を通り過ぎると、モーターをうならせて列車が少しずつ減速する。もうすぐ私の最寄り駅だ。降りる準備をしようと足元のリュックサックを持ち上げ、ドアに向き合った。まさにその時だった。


 踏切で列車の通過を待つ人々の中に、一本のカカシが立っていたのだ。


 ボロボロの麦帽子に破れかけのワイシャツ、顔の部分は真っ白な布地の球体に見えた。停車寸前のことだったので、五秒くらいのことだっただろうか。見間違いではなかったと思う。よく田畑で見かけるあのカカシが、踏切に面した商店街の道のど真ん中に突き刺さってこちらを向いていた。

 だが、それ以上に異様だったのは、カカシの周りで踏切を待つ人間の方だ。

 

 誰もがみな、口角をいびつに吊り上げ、ニヤニヤと笑っていた。それは自然と笑みがこぼれたというよりも、笑わなければならないという強迫観念に駆られているような、そんな笑い方だった。図らずとも、過ぎ去る踏切の方へと首が向いてしまう。それと同時に嫌な悪寒が背筋を走る。思わず振り返ってしまったことを、私は今でも後悔している。


 車内にいる全員が瞬きひとつせず、私のことを凝視していたのだ。

―――――踏切の人達と同じ、あの気味の悪い笑みを浮かべて。


 私はそらおそろしいものを感じて、ドアが開くと身を投げ出すようにしてプラットホームに飛び降りた。発車を知らせるサイン音がけたたましくホームに鳴り響く。先ほどまであの引きつったような笑みを浮かべていた乗客たちは、何事もなかったかのように私の横を通り過ぎていった。誰も私のことなど気にも留めていない様だった。電車は早々とドアを閉めると、ガタンゴトンと重い音を立てて、下りホームを去っていった。呆然ぼうぜんと立ち尽くす私をよそに、プラットホームは再び静寂に包まれた。


それから、あのカカシを見かけることはなかった。


          〇


―――――その年の冬

高校にも馴染み始めて、私にも帰り道を共にする友人ができた。名をなぎさという。短めのボブがトレードマークで、歩くたびにその短い髪がホワホワと左右に揺れる。渚は隣のクラスの生徒なのだが、同じ委員会で当番の日がよく重なったことからしだいに話す機会が増え、帰りの電車が同じだったということもあり、仲良くなるまでにそう時間はかからなかった。その日も委員会の仕事を終えて、寒空の下、二人で帰路についた。風はそこまで強くなかったが、突き刺さるような冷気が町中に充満していた。口を開くのもはばかられる中、渚がポツリと呟いた。


「そういえば今度、うちの近くでお祭りするみたいなんだよね」

「お祭り? なんだか季節外れだね」そう笑って答えると、渚は少し顔をゆがめた。

「そうなんだよねー。でも昔からあるお祭りみたいだから、みんなやめるにやめられないのよ」


 今年は祭りの幹事がうちに決まって、冬休みはその手伝いに自分も駆り出されるのだと渚は唇を尖らせた。そのいじけた横顔を愛らしく感じるとともに、家や地域の繋がりというやつに悩める渚が少しうらやましかった。


 私の家は、母子家庭だ。父は私が三歳のころに失踪した。記憶はあまり残っていない。玄関においてある家族写真とたった一冊の本だけが、私たちに残された唯一の父の痕跡だった。本の表紙には、父の名前が書かれていた。なんでも、この本がヒットすれば高値になるからとサインのつもりで書いたらしい。学術書がヒットなんてするはずもないのに。


 母は父の失踪について何か知っているみたいだが、私には決して話してくれなかった。母の苦労を思うと、無闇に詮索せんさくするのは不躾ぶしつけな感じがして、それに詮索しないのが孝行だと信じて、ついぞ長い間、父のことは知らずに生きてきた。そんな母が父について初めて口を開いたのは、私が中学に上がったときのことだ。


「あなたのお父さんはね、民俗みんぞく学を研究してたのよ」


 母は懐かしそうにそう語った。確か失踪宣言とかいうやつをした後のことだったから、母の中で何らか整理がついたのだろうと思う。そして父が最期、足繁く通っていたというこの地に引っ越してみないかと提案してきたのだ。母はもしかしたら、私が学校であまりうまくやれていなかったことに気付いていたのかもしれない。私は心の奥底にザラりとしたものを感じながらも、その申し出を受け入れた。


「なにボーっとしてんの」

 渚が私の顔を覗き込むようにして腰をかがめている。


「ちょっとね、考えごと」

 わざとらしいかな、なんて思いつつ、私は自分でもわかるくらいの作り笑いを浮かべた。辺りはすっかり暗かったから、渚には気づかれていなかったと思う。


「でもそういうのって、正直うらやましいよ」

 何の気なしに発した言葉に、渚があきれた顔をして、やれやれとでも言わんばかりの仕草でこう答えた。


「そりゃ、隣の芝はなんとやらってやつだよ、和葉かずは

 身長が低いのもあいまって、着ぶくれした渚はなんだか丸っこい。その上、ふざけてオーバーなリアクションをするのでその動きがどこか滑稽こっけいに思えた。

 

 思えば、渚とそんな風にして、他愛たわいもない会話を交わしたのは、あの日が最後だったかもしれない。


          〇


 渚と二人、駅で電車を待つ。下りはついさっき出て行ってしまったようで、先に上り電車がホームに滑り込んできた。その風は冷たく、渚はどこかうらめしい目で電車の方を見ている。この風を私たちはもう一度浴びねばならない。にらみつける気持ちもよくわかる。

 発車ベルが鳴り終え、ドアを閉める旨の放送が流れた直後、「あっ」と渚が声を漏らした。


「なに、どうしたの」

「あ、いやもしかしたら・・・見間違いかもなんだけど、今の電車に例の女の子が乗り込んだ気がして。ほらあの噂の」


『噂の』と聞いてピンときた。最近、うちの高校で話題になっている女生徒のことだ。占い研究部の集団パニック事件を指先ひとつで解決し、校内中の注目を集めたかと思えば、今度は同学年の男子生徒に取り憑いた悪霊を見事、除霊した・・・なんて噂まで飛び出している。一体、どこからそんな噂を広がったのかは定かでないが、火の無いところに煙は立たない。

 

 しかし、飯が食えるほどのキャラの濃さだというのに、その女生徒が一体だれのなのか、未だ判然としていない。そのことが噂により一層、拍車をかけているのだろう。だが、アイツじゃないかという話が出ないはずもない。その中でも、私たちが有力候補の一人として推しているのが、月待つきまちミコという一年生の女の子だった。


「え、もしかして渚、月待ミコを見たの!?」

 渚は肩をすくめて答える。


「さあ、私もちゃんと見たことないし。でも、オーラがあったよオーラが」

 オーラだなんてなんだかミーハーな言い方だ。もう少しまともな感想を聞きたかった。そこから私たちはオカルト談義でもちきりになった。


 やれ三階のトイレには女の霊が出るだの、旧校舎の向かいにある古井戸は覗いたら白い手に引きずり込まれるだの、そんなありきたりな怪談を話しているうちに下り列車がやってきた。電車に乗り込んでからも渚との会話は止まらない。彼女と話しているとあっという間に時間が過ぎてしまう。気づいたら、このまま高校生活が終わってしまうんじゃないかと考えてしまって、ちょっと恐ろしい。


「あれ、待って今何時?」

 渚に聞かれ、腕時計に目をやる。


「十一時まであと十分くらい」

 言うやいなや、渚が露骨に嫌な顔をした。普段、そんなに時間など気にしていないように思ったのだが、何かあったのだろうか。今日は委員会の仕事が珍しく長引いてしまったので、もしかしたら門限に間に合わないのかもしれない。すると


「和葉」


 いつもの明るい調子とは打って変わって、渚は低く落ち着いた声で私の名前を呼んだ。

「お願いがあるんだけど・・・いいかな」 渚の様子が少しおかしい。困っているような怒っているような複雑な声色だ。


「どうしたの?」

そう返答する私に、渚は静かに続けた。


「次の駅、和葉の最寄り駅だよね。そこにつく手前に踏切があるでしょ? お願いだから、この電車がその踏切を通るとき、思いっきり笑って。声は出さなくていいから」


『踏切』『笑う』という二つの言葉が私の中で反芻はんすうする。忘れかけていたあの光景が、頭の奥底から無理やり引きずり出される音がした。踏切を待つ人々や乗客がニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべているあの光景が。

そして同時に感じるものがあった。


 渚はあれが何かを知っている。


 私の顔がきょとんとするのを予期していたのだろう。驚きと不安の入り混じった反応に、渚は「なんだ、知ってるのね」と言って、窓の方に体を向けた。ふと見渡すと車内の全員が、渚と同じようにして体を窓の方へ向けていた。


「な、なんなのこれ。何が起きているのッ!」


 小声で渚に耳打ちするが「いいから。笑って」とだけ返されてしまい、私はどうすることもできなかった。間もなく、列車は疎水そすいを横断する鉄橋に差し掛かった。次第に減速をし始め、体が横に引っ張られそうになる。響き渡る轟音がいつもに増して耳に痛い。駅はまもなくだ。じわじわと踏切に近づいていっているのが嫌でもわかる。心臓の脈打つ音が頭の中にまで聞こえてきた。

  

 隣りを見ると、渚はあの日、私が目にしたのとまったく同じ、引きつった不気味な笑顔で外を見つめていた。頬をぴくぴくと痙攣させながら、目をこれでもかというくらいに大きく見開いている。


 渚は今、私の味方じゃない。


 点滅する踏切の赤いランプが目の前で光った。

―――――カカシは確かにそこにいた


          〇


 私は、笑うことが出来なかった。

 駅につき、ホームに降り立つ。渚は真顔で私を見つめていた。私は彼女の顔を見るでもなく、かといって何か言葉を発することもできなかった。発車ベルが鳴り始める。なにか・・・なにか言わないと。今、何か言わないと、私たちの関係は壊れてしまう!


 直感的にそう思った。焦燥感が駆け巡る中、私が口を開けたその瞬間、


ッつっただろ」


シュ―――――ガシャンッ!

 勢いよくドアが閉まり、列車がホームを発車していく。私は赤いテールライトが見えなくなるまで、その電車を茫然ぼうぜんと見つめていた。横を過ぎ去る人々はみな、私に目もくれなかった。


          〇


 帰り道、私は家までトボトボと力なく歩いていた。あの踏切は一体何なのか。なぜ乗客は笑っていたのか。そして・・・渚のあの言葉が私の中にいつまでも渦巻いている。墨汁のような真っ黒い液体が、私の中にトポトポと落とされていくような感覚だった。


「渚のあんな顔、初めて見たな・・・」


 思わずポツリと呟く。こんなことになるくらいだったら、あの時、母が引っ越そうなんて提案をしたとき、受け入れなければよかった。父が失踪したというこの街。そこに移り住むということに、違和感が一切なかったかと言われれば嘘になる。母はまだ何かを隠しているのかもしれない。思わず、そんなことまで考えてしまう。


 時音疎水ときねそすいを渡って、西上にしがみ四丁目の十字路を左に曲がれば、もうすぐうちにつく。母と二人で暮らす小さなアパートだ。この辺は街灯が少なく、あたりは薄暗くて少し不気味だ。遠くで踏切の鳴る音が聞こえてきた。先ほどの出来事を思い出して、私は恐怖心から足早にアパートに向かう。ところがあまりに急いでいたので、入り口の近くの人影に気付かず、自分でもびっくりするくらい大きな声を出して驚いてしまった。


「わあああ!!!」


 その人物はゆっくりとこちらに向かってきて言った。


「やっときたぁ」


 こちらのテンションとの差に、なにがなんだかわからなくなって、とりあえず謝ってしまった。人間不思議なもので、疑念を抱くと一瞬、我に返るものだ。


「あれえっと、どちら様・・・?」

 私が恐る恐る尋ねると、その少女は微笑を浮かべてこう答えた。


「月待ミコ。ね、寒いから一旦家上がらせてもらっていい?」


          〇


 見ての通り小さなアパートで、友達を連れてくることなんか滅多にないため、突然の訪問にも関わらず、母は喜んで私たちを迎え入れてくれた。噂に聞いて身構えていたが、パッと見る限り、月待ミコはただの女子高生だ。そんないぶかしむ私に気付いたのか、ミコは少し目つきを変えた。


「本郷さんさ・・・カカシ、見たでしょ」


 ギクッとした。この子には隠し事が通用しない。そんな気がする。


「うん・・・見たよ。駅前の踏切でね」

 ミコが身を乗り出す。


「どんな様子だった? なんかおかしい事はなかった?」

 きっとこの子は知っているはずだ。だが、私を落ち着かさせるためにあえてこんな聞き方をしているのだろう。


 「踏切の前にカカシが刺さってた。それで・・・」

 「それで?」

 「みんな、笑ってるの。微笑むとか、面白くて笑ってるんじゃない。もっとこう、ぐにゃって口元をまげて。電車に乗ってる人も、踏切待ってる人もみんな・・・」

 

 今度は何も言わず、ミコは頷く。

「それで今日、渚・・・友達と一緒に電車に乗ってたんだけど、急に笑えって言われて。でも、わたし笑えなかった。そしたら・・・ねえ月待さん、これっていったい何なの?」

 

 そう言い終えると、ミコは静かに息を吐いた。


本郷ほんごうさんって、ここら辺の出身じゃないよね」

 この子はどこまでお見通しなのだろう。私はコクリと頷く。


「そのカカシについて教えてあげたいんだけど、その前にお父さんが書いた本、ちょっと見してくんない?」

「お父さんの本・・・?」


 私が答えるやいなや、ミコの後ろの障子がスーッと開いて、母が部屋の中に入ってきた。


「え、お母さん」

「ミコちゃんと言ったわね。これよ」

 母がミコに色あせた本を手渡す。


「これって・・・」


『   ―――曲神くまがみのひとびと―――  本郷公孝   』


 表紙にはそう書かれている。父の遺作だった。


「ミコちゃん、和葉を・・・頼むわね」

 母がこの大切な本を見ず知らずの女の子にあっさりと手渡してしまったことに、私は驚きを隠せなかった。


「わかりました」

 ミコは落ち着いた声でそう答えると、さっそく父の本を開き始めた。この本は母がずっと戸棚にしまいこんでいたものだ。これまで何度か表紙を目にしたことはあったが、中を見るのは初めてになる。


 サッ、サッと次々にページがめくられていく。紙の擦れる乾いた音だけが、この静寂な空間に唯一発せられる。と、あるページでミコがピタリとその手を止めた。


「あった」


そこには『エミカカシ』と記載されている。


「えみかかし・・・?」

「笑うカカシとかいてエミカカシ。まあ、笑っているのはカカシじゃなくて人の方なんだけど」


 私が見たのはこの『エミカカシ』だったというのだろうか。


「カカシって、畑の作物を鳥とか動物から守るための道具って思われがちだけど、実は神様や妖怪としての側面もあるんだよね」

 ミコ曰く、カカシは古くから田畑に豊穣をもたらす神のしろであると同時に、使い古した蓑笠みのかさを身に付けていたことから、異界からの来訪者としてもまつられてきたのだと言った。実際、カカシが人間に化けて人前に現れたという伝承が全国に残されているのだそうだ。父が調べていたのは曲神山くまがみやま周辺の伝承で、その中の一つがこの『エミカカシ』だった。


「もちろん、それらの伝承は地域によってところどころ違いがある。その多くが神様に近い形で富や豊作をもたらしたーってやつなんだけど、どうやらここ、深水町ではちょっと変わった伝承があるみたい」


 そう言ってミコは父の本に目をやる。

「ほらここに」

 そこには、エミカカシの伝承が書かれていた。


与兵衛よへえとエミカカシ』

 古来、深水ふかみの民は豊穣を祈願する祭りの際、一本の案山子かかしを皆で作ったそうだ。それをエミカカシと称し、相まみえる折には豊穣に対する感謝の意を込め、必ず微笑みを見せるようにしたと伝わる。エミカカシの語源はこれに由来するという説が有力である。深水の民はエミカカシを“えめっさん”や“えみさん”と呼称し、親しみをもって接していた。

 

 ところが、西上に住む与兵衛という者がこれを忌み嫌い、微笑みを見せる村の民をいましめることもあったそうだ。特に与兵衛が思いを寄せていたというハナという娘には、大層きつくあたったそうだ。治水事業を行っていた与兵衛にとって、五穀豊穣の功績がエミカカシだけのものであるかのように村人が振舞うのは気に食わなかったのであろう。


 ある折、疎水の完成を祝って、村でうたげが開かれた。それに参加した与兵衛は、月が見えなくなるまで酒を飲み明かし、大いに楽しんだそうだ。そして、うちに帰った与兵衛は、すぐに眠りについたという。ところが、夜が明けるか明けぬかといった頃、与兵衛の家の戸を叩くものが居った。与兵衛が誰じゃと何度も声をかけるが返事はない。しびれを切らした与兵衛が戸を開けると、そこにはハナがいた。なんだ、おハナじゃないか。与兵衛がそう言うが、ハナは何も言わず、ただただ微笑み続けたそうだ。なにかおかしい。与兵衛はそう感じたが、酔いも手伝うて、ハナを家に招き入れてしまった。


 その後、与兵衛を見た者は誰一人としていない。村人たちは与兵衛がえめっさんのたたりにうたと噂した。それから村人たちはえめっさんを大層恐れるようになった。深水の外れにある社は、その怒りをしずめるために建てられたとも言われている。以後、えめっさんを邪険に扱う者はいなくなり、その祟りは無事に鎮まった。

 なお村の治水を先導した功績を讃え、時音疎水には与兵衛の石碑が今でも残されている―――――


          〇


「これがエミカカシの伝承。ちょっと変わっているでしょ?」

 昔話とは縁遠い生活を送っているので、この話のどこが変わっているのか、皆目見当もつかなかった。


「って言ってもわからないか。この話のおかしいところはね・・・ここだよ」

 ミコは、与兵衛がおハナを招き入れた部分を指さした。


「与兵衛はおハナを招き入れ、それから姿を消した。これってあまりに短絡的だと思わない?」

 言われて気が付く。


「確かに、もう少しどう殺したとか、山に連れ去ったとかそんな描写があってもいいかも」

「その通り。それにこの話のおかしいところはもう一つある。これが起きた時って、家には与兵衛しかいなかったはず。一体、誰がこの出来事を見聞きしたの?」

 思わず、感嘆かんたんの声が漏れ出す。ミコの言うとおりだ。伝承というバイアスがその点を曖昧にしていて、パッと見ただけでは気づかなかった。


「あなたのお父さん、過去に新聞や雑誌にもこうした伝承を書き綴っていたみたいでさ。でもそこではもっと具体的にエピソードが書かれていた。それに伝聞した場所や人の名前も事細かにね。つまり・・・」

 ミコが私の目を見つめる。


「この書き方は恐らく、意図したものだと思う」

 私は一瞬、固まった。


「意図したものって・・・」

「いい? ここからはあくまで私の推測」

 そう前置きしてミコは話し始めた。


「多分だけど、与兵衛は村人に殺された。だからこの話の後半部分は、村人みんなで示し合わせて創作でもしたのね」

「殺されたって、なんで・・・」

「少し考えてみればわかるよ。与兵衛は治水関連の仕事をしていた。村人にとって、水は命そのもの。もしその生命線を誰かに握られでもしたら?」

 

 自分なら、いや誰であっても不安におちいるだろう。きっとそこには与兵衛による横暴な権利の主張もあったに違いない。


「そんな与兵衛を邪魔に感じた村人が、みんなで画策かくさくしたのよ。それになんと都合がいいことか、与兵衛は村の守り神であるエミカカシを恨んでいた。これを使わない手はないと思ったんでしょう。村人はそれを利用した。」

「それで、疎水が完成して与兵衛がいらなくなったから」

「酒に薬でも盛ったんじゃない? 与兵衛が家に帰るまでもなく、村人みんなで殺した。なにせ宴会で村人はみんなそこに集まっていただろうし」


 粗暴な人間だったとは言え、村の発展のために尽力していた与兵衛が、そんな形で殺されてしまったというのは不憫ふびんな話だと思う。彼は殺された時、きっと無念だったことだろう。だが・・・そこでひとつの疑問が思い浮かんだ。


「あれ、でも与兵衛の石碑があるって書いてあったよね。村人は与兵衛を嫌っていたんだから、こんな石碑を立ててあげるなんて少し矛盾してない?」

 ミコはニヤリと笑ってこう答えた。


「村人が本当に恐れていたものはエミカカシじゃないってことだよ」

 

 私たちの間にしばしの静寂が訪れた。


          〇


「さっ、それじゃあいこっか」

 ミコが立ち上がりながらそう言う。


「え、行くってどこに」

「そりゃあ、決まってるでしょ」

 ミコが私を見据えて続ける。


「与兵衛の石碑にだよ」


 脱いだコートを再び着て、家を後にする。先ほどまでいた、暖房の効いた自室がすでに恋しい。冬の空は空気が澄んでいて、星がいつもに増して綺麗に見える。

 出かける私に母はただ一言、いってらっしゃいとだけ言って、何も聞いてこなかった。きっと、全部知っているんだろう。母には後でちゃんとお礼をしないといけない。


 石碑はここからそう遠くないところにあるという。道を覚えているのか、ミコはすたすたと迷いなく歩いていく。私は改めて、この少女が不思議でならなかった。


「そういえば、なんだけど」

「ん、なに?」

「ちょっと気になるというか、いや月待さんには気になることがありすぎるんだけどさ」

 そう前置きして私は続ける。


「わたしが見たあのカカシは一体なんなの?」

 そういえば話してなかったねとミコは言った。


「じゃあ先にそっちを見にいこっか」

そう言うとミコは、先ほどまで向かっていた方向とは真反対に歩き始めた。急な方向転換に戸惑いつつも、しばらくついていくとミコが道の先を指さす。


「あれだよ」

 そこには小さな赤い鳥居が立っていた。


「まさかとは思うけど、あの神社の中に入ったりしないよね・・・?」

 途端、ミコが笑いだす。


「そのまさかでごめんね」


 神社に近づくにつれ、その奥に大きな木々が立ち並ぶのが目に入った。遠めだとわからなかったが、そこそこ大きな神社のようだ。ミコは鳥居の前で軽く一礼すると、忍び足でそろそろと境内に入っていった。


「バレると面倒だから、静かにね」


 口の前に人差し指を当てて言う。なんだかその仕草が渚を彷彿ほうふつさせる。境内に入ると、ミコは本殿の右側にある小さな建物へ向かっていった。当たり前だが境内には電灯などなく、真っ暗だ。こんなところで一人になってしまっては敵わないと、私は小走りでミコに近づいた。


「これは、納屋?」

 そう聞くと、ミコは頷いて懐中電灯を取り出した。建てられてからかなりの年月が経っているらしく、扉と扉の間に中を覗き込めるほどの大きな隙間ができている。ミコはそこに懐中電灯を当てると「覗いてみて」と小さな声で言った。


 朽ちた麦帽子にワイシャツ、そして真っ白な布地の顔。


 そこには電車から見たあの“カカシ”が置いてあった。何となくわかってはいたが、いざ近くで見ると、声が出そうになる。


「ね、あったでしょ?」

 ミコが満面の笑みで聞いてくる。何がそんなにうれしいんだろうか。正直、怖い。


 ミコが言うには、このカカシは決まった時間になると、どこからともなく誰かが持っていって、あの踏切の近くに置くそうだ。ここら辺の人にとっては昔からある慣習のようなもので、そのカカシが目に入っている間は笑い続けなければならないらしい。恐らく、自分は与兵衛ではないということをエミカカシに知らしめるためだろう。


 元々は与兵衛の霊が村に入ってこないようにと、エミカカシを村の入り口に置いていたそうなのだが、時代の流れとともに今のような形式に落ち着いたのだという。みんなが恐れていた人間をたった一人殺すためだけに、エミカカシは祟りとして利用された。挙句、それから何百年もの間、人々を恐れさせる存在になるなんてなんだか皮肉な話だ。


「本郷さんがカカシを見たのは十一時ごろって言ってたね。多分、それは与兵衛が殺された時間なんじゃないかな」

 ミコは最後にそう言った。 


          〇


 どのくらい歩いただろうか。人通りの少ない小径こみちを歩くこと数十分。疎水をさらさらと水の流れる音が聞こえる。突然、ミコが何もないところで立ち止まって、草むらの中へと入っていった。


「確かここら辺に・・・」

 ミコが枯れ草をかき分けると、すっかり苔むして緑色になった小さな石が出てきた。


「はい、これが与兵衛の石碑」


 これを石碑というには少し烏滸おこがましいような気もする。表面の文字はすっかり薄れて、何が書いてあったのか、そもそも文字が彫られていたのかすらわからない。


「なんか思ってたのと違う・・・」

「まあ、そう言わないでよ」


 そう言って、ミコは手を合わせた。私もそれに倣って手を合わせる。何百年も前の人間が確かにそこに生きていたという痕跡を前に、私は何とも言い難いものを感じた。私が感傷に浸っている横で、ミコがカバンから袋を取り出す。

 中には小さなスコップが入っていた。


「なにをするの?」

「え、掘るんだよ」

 そりゃ掘ることは見ればわかる。てっきり与兵衛にお祈りをして終わりだとばかり信じていたので、ますますミコが何をしたいのかわからなくなってきた。


「まあ、こないだ来たときに見つけちゃったし中も見ちゃったんだけどさ。一応、本郷さんの前で正式に開け直した方がいいかなーって思って」

 そう言うとミコは石碑の横の土を掘り返し始めた。五、六回ほど土を掘り起こすと中から赤茶色のブリキ缶のようなものが出てきた。


「お、よかった。ちゃんと埋まってた」

 ミコはそのブリキ缶を持ち上げると、私の胸元につきだした。


「はいどーぞ」

 その奇行に困惑する私をよそにミコは平然とした顔をしている。私が恐る恐るその蓋を開けると、中には一枚の紙が入っていた。

 そこには乱雑な文字で、こう書かれていた。


『彼らは与兵衛を恐れている』

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