第8話 蒼き夜襲
タタル族の本拠地は、トオリルの野営地から馬で三日ほどの距離にある、豊かな水源を持つ盆地にあった。
彼らはこの辺りでは最大の勢力を誇り、周辺の小部族から常に貢物を巻き上げ、我が世の春を謳歌していた。
その夜も、タタルの野営地は宴の熱気に包まれていた。
数百のゲルが立ち並び、中央の広場では大きな焚き火が焚かれ、男たちが馬乳酒を呷り、女たちを侍らせて高笑いしている。
彼らに警戒心など微塵もない。この草原で、自分たちに牙を剥く愚か者がいるとは夢にも思っていないのだ。
その慢心しきった野営地を見下ろす丘の稜線に、五十の影が音もなく並んでいた。
「……見ろ。あれが豚の群れだ」
義経が低い声で囁いた。
彼の隣で、ボオルチュが唾を飲み込む音が聞こえた。
眼下に広がる敵の数は、少なく見積もっても五百は下らない。対するこちらは、わずか五十騎。
まともな神経なら、尻尾を巻いて逃げ出す状況だ。
だが、今の彼らは違った。
連日の過酷な調練と、見せしめの粛清によって叩き込まれた「鉄の規律」が、彼らの恐怖心を麻痺させていた。
彼らにとって、目の前の五百の敵よりも、隣にいる一人の指揮官の怒りの方が、遥かに恐ろしかったのだ。
「作戦を確認する」
義経の声は、凍てつく夜気のように冷徹だった。
「ボオルチュ、お前は十騎を率いて東側へ回れ。合図とともに馬の囲いを襲い、馬を解き放て。敵の機動力を奪う」
「はっ!」
ボオルチュが短く応じる。以前のような怯えはもうない。
「残りの四十騎は二手に分かれる。私が中央を突く。もう一隊は西側から火を放て。風上だ。火はすぐに燃え広がる」
義経は、腰の湾曲刀を引き抜いた。月明かりが刃に反射し、冷たい光を放つ。
「狙うのは指揮官クラスのゲルのみ。雑兵は相手にするな。混乱を拡大させることだけに集中しろ」
これは、かつて京の都で、平家の寝込みを襲った戦法の応用だった。
寡兵が大軍を破るには、夜陰に乗じ、敵の指揮系統を麻痺させ、恐怖の連鎖を引き起こすしかない。
「行け。音を立てるな。影となれ」
義経の命令とともに、五十騎の影が音もなく斜面を滑り降りていった。
馬の蹄には布が巻かれ、その足音は風の音にかき消される。
完璧な静寂。完璧な統制。
それはもはや、トオリルの弱小部族などではなかった。義経という頭脳が操る、五十の手足だった。
宴が最高潮に達した頃、異変は唐突に始まった。
「火事だ! 西のゲルが燃えているぞ!」
誰かの叫び声が、喧騒を引き裂いた。
酔っ払った男たちが、何事かと立ち上がる。
その瞬間、東側から雷のような音が響き渡った。
何百頭もの馬が、囲いを破って暴走を始めた音だ。
「馬が逃げた! 誰か止めろ!」
「敵襲か!? どこだ!」
野営地は一瞬にしてパニックに陥った。
右往左往するタタル族の男たち。彼らはまだ、何が起きているのか理解できていない。
その混乱の渦中へ、義経率いる二十騎が、死神の鎌のように突っ込んだ。
「キェェェェェッ!」
義経が、日本の武士独特の鋭い叫び(鬨の声)を上げた。
それは、草原の民が聞く雄叫びとは違う、背筋を凍らせるような金属的な響きを持っていた。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
走りながら放たれた矢が、正確に敵の喉や心臓を射抜く。
焚き火の明かりに照らされたタタル兵が、次々と悲鳴を上げて倒れる。
「敵だ! 数は……分からない! 至る所から攻めてくる!」
実際には五十騎しかいない。だが、東西からの火災と馬の暴走、そして中央突破の衝撃が、彼らに「数千の敵に包囲された」という錯覚を抱かせた。
義経は、混乱する敵の中を、風のように駆け抜けた。
目指すのは、中央にある最も大きなゲル。族長の天幕だ。
立ちふさがる者がいれば、馬の速度を利用してすれ違いざまに斬り捨てる。
その太刀筋に迷いは一切ない。
「ええい、何事だ! 静まれ!」
巨大なゲルから、立派な毛皮を纏った巨漢が、怒鳴りながら飛び出してきた。
タタル族の長だ。彼の手には重そうな戦斧が握られている。
彼は、自分に向かって真っ直ぐに突っ込んでくる騎影に気づき、戦斧を構えた。
「貴様、何者だ! どこの部族の……」
義経は答えない。
馬の速度を落とさず、族長の目の前で、信じられない角度で馬体を傾けた。
ザシュッ。
族長が戦斧を振り下ろすよりも速く、義経の刀が彼の首筋を奔(はし)った。
「あ……が……」
族長の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
鮮血が焚き火に降り注ぎ、ジュッと音を立てた。
義経は、馬上で振り返り、周囲の敵兵を見下ろした。
返り血で赤く染まったその顔は、まさに修羅そのものだった。
「族長は討ち取った!」
義経が、モンゴル語で叫んだ。
「降伏する者は武器を捨てろ! 抵抗する者は、この男と同じ運命だ!」
族長の死を目の当たりにし、さらに周囲を火の手に囲まれたタタル兵たちの戦意は、完全に崩壊した。
カラン、コロンと、武器を捨てる音が連鎖的に広がる。
圧倒的な数を持つはずのタタル族が、わずか五十の「影」の前に屈した瞬間だった。
夜が明け、太陽が昇る頃には、戦いは終わっていた。
死屍累々たる野営地の中で、義経の部隊の被害は、軽傷者が数名のみ。奇跡的な完全勝利だった。
ボオルチュたちが、捕虜となったタタルの男たちを一箇所に集めている。
彼らの目は、恐怖で見開かれ、義経の方を直視できないでいた。
「……信じられん」
遅れて到着したトオリルが、腰を抜かしそうになりながら呟いた。
あの強大なタタルが、一夜にして壊滅したのだ。
部族の戦士たちは、自分たちが成し遂げた偉業に震えていた。
そして、その中心に立つ、小柄だが底知れぬ迫力を放つ異邦人を見つめた。
もはや、彼を「クロウ殿」と気安く呼べる者はいなかった。
彼らの目には、この男が、草原の伝説に語られる「蒼き狼」の化身のように映っていた。
義経は、ひれ伏す捕虜たちを冷ややかに見下ろしながら、ボオルチュに命じた。
「族長の首を、一番高い竿に晒せ。そして、周辺の部族に使者を送れ」
彼の声は、勝利の余韻など微塵もなく、次の戦を見据えていた。
「『我らに従うか、タタルと同じ運命を辿るか。選べ』とな」
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