第5話 狩場(かりば)
ゲルの外は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
女子供は悲鳴を上げて逃げまどい、男たちは馬に鞍を置こうと焦って罵声を浴びせ合っている。
恐怖は伝染する。
迫りくるメルキトの百騎という数字が、彼らから戦う気力を奪い去っていた。
その混沌の中へ、義経はゆっくりと歩み出た。
彼だけが、周囲の喧騒から切り離されたように静かだった。
「……無様だな」
彼の低い声は、不思議とよく通った。
近くにいた数人の若者が動きを止め、彼を見る。その中には、昨夜から義経を敵視していた、若者たちのリーダー格の男もいた。
義経はその男の前に立ち、見下ろした。
「名は何という」
「……ボオルチュだ」
男は反抗的な目を向けたが、その奥には隠しきれない怯えがあった。
「いいか、ボオルチュ。今から私の命令を一言一句、違(たが)えずに実行しろ。少しでも遅れたり、勝手な真似をすれば――」
義経の右手が、霞のように動いた。
次の瞬間、ボオルチュの喉元に、短刀の切っ先が突きつけられていた。
「ヒッ……!」
ボオルチュが息を呑む。周囲の若者たちが凍りついた。
「敵に殺される前に、私が殺す」
冗談ではない。この男の目には、人を殺すことへの躊躇いが一切ない。
ボオルチュは、脂汗を流しながら、コクコクと何度も頷いた。
義経は短刀を引くと、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「ボオルチュ、お前は二十騎を率いて谷の外へ出ろ。敵が見えたら、適当に矢を放って挑発しろ。だが、決して深入りするな。敵が食いついてきたら、全速力でこの谷の中へ逃げ帰ってこい」
「に、逃げるのか?」
「そうだ。無様に、情けなく逃げろ。彼らがお前たちを臆病者と侮るようにな」
義経は、残りの三十人ほどの男たちに向き直った。
「残りの者は私につけ。弓と、ありったけの矢を持て。馬は谷の奥に隠しておけ」
彼は谷の両側にそびえる、切り立った岩場を指差した。
「我々はあの上に登る」
男たちがざわめいた。
「あんな高いところへ?」「馬はどうするんだ?」
「馬鹿者どもが」
義経が吐き捨てる。
「馬に乗って戦うことしか能がないから、お前たちは弱いのだ。ここは平原ではない。地形を使え」
彼の脳裏にあるのは、かつて源平の戦いで幾度も実行した、奇襲と待ち伏せの戦法だった。
正面からぶつかれば勝ち目はない。だが、罠に嵌めれば話は別だ。
「これは戦(いくさ)ではない。『狩り』だ。獲物を追い込み、袋叩きにする。お前たちは普段、羊を追う時にそうしているだろう?」
「狩り」という言葉に、男たちの表情が少し和らいだ。それなら彼らにも理解できる。
「行くぞ。時間がない」
義経は先頭に立ち、岩場を登り始めた。彼の身軽さは、岩場を駆ける山羊のようだった。
谷の外。
地平線を埋め尽くす土煙の中から、メルキト族の騎馬隊が姿を現した。
百騎を超える軍勢は、それだけで大地を震わせる威圧感があった。
先頭を駆けるメルキトの隊長は、獲物を前に舌なめずりをした。
トオリルの部族は弱小だ。女や財産を奪い、男は皆殺しにする。簡単な仕事だ。
そこへ、谷の方角から二十騎ほどの小隊が向かってきた。
ボオルチュ率いる囮部隊だ。彼らは射程ギリギリで馬を止めると、バラバラと矢を放った。
矢のほとんどは届かず、数本がメルキトの先頭集団の近くに落ちただけだった。
「ハハハ! 見ろ、あの腰の引けた射撃を!」
メルキトの隊長が大声で笑った。
ボオルチュたちは、慌てて馬首を返し、逃げ出した。その姿は、義経の指示通り、哀れなほど無様だった。
「逃がすな! 一気に踏み潰せ!」
隊長の号令で、百騎のメルキト兵が雄叫びを上げ、追撃を開始した。
彼らに警戒心など微塵もない。あるのは、弱い獲物をいたぶる嗜虐心だけだ。
ボオルチュたちは必死で馬を飛ばし、谷の狭い入り口へと滑り込んだ。
それを追って、メルキトの騎馬隊が殺到する。
狭い入り口に、百騎が押し寄せた。
隊列は乱れ、馬と馬がぶつかり合い、速度が落ちる。
「押せ! 押せ! 中に入れば広くなっているはずだ!」
後方の兵が前方を押し、団子状態になって谷の奥へと進んでいく。
彼らは気づいていなかった。
自分たちが、自ら死地に足を踏み入れたことを。
谷底を見下ろす岩陰で、義経は冷ややかにその光景を見つめていた。
彼の隣には、三十人の男たちが息を潜めて弓を構えている。
眼下には、密集して動きが取れなくなった敵の集団。
それは、まるで桶の中に詰め込まれた魚のようだった。
義経は、ゆっくりと自分の弓を引き絞った。
狙うのは、先頭で大声を上げている、最も派手な鎧を着た男――敵の隊長だ。
(……馬鹿な連中だ)
鎌倉の武士なら、このような見え透いた罠には絶対に掛からない。
彼らは強そうに見えて、その実、力に溺れた獣に過ぎない。
ギリギリと、弓が悲鳴を上げるまで引き絞られる。
そして。
ヒョォォォッ!
放たれた矢が、唸りを上げて空気を切り裂いた。
次の瞬間、メルキトの隊長の首から、矢羽が生えていた。
男は悲鳴を上げる間もなく、声にならない音を漏らして落馬した。
「えっ……?」
「隊長!?」
突然の指揮官の死に、メルキトの兵たちが混乱に陥る。
その隙を、義経は見逃さなかった。
「今だ。射ちまくれ」
彼の静かな号令が、虐殺の合図となった。
両側の崖上から、三十本の矢が一斉に放たれた。
狙いを定める必要すらない。密集した敵集団のどこかに必ず当たる。
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
肉を穿つ鈍い音と、男たちの悲鳴、馬の嘶きが谷間に反響した。
逃げ場のない谷底で、矢の雨が彼らに降り注ぐ。
「伏兵だ!」
「上だ、上から撃ってきている!」
「退け! 一度退くんだ!」
だが、後ろからは後続部隊が押してきており、前には死体と倒れた馬が道を塞いでいる。
彼らは自分たちの数に殺されていた。
義経は、表情一つ変えずに次々と矢を放ち続けた。
その一本一本が、確実に敵の命を奪っていく。
それは、一方的な「処理」だった。
戦いの熱気などどこにもない。あるのは、冷徹な計算と、効率的な殺戮だけ。
わずか数分の出来事だった。
谷の入り口は、メルキト族の死体と、主人を失った馬で埋め尽くされた。
百騎いた軍勢の半数以上が、矢の餌食となった。
生き残った者たちは、這うようにして谷の外へと逃げ出した。
彼らの心には、二度と消えない恐怖が刻み込まれただろう。この谷には、近づいてはならない悪魔が住んでいると。
岩の上で、部族の男たちは呆然と眼下の惨状を見つめていた。
自分たちがやったのだ。あの強力なメルキト族を、ほとんど無傷で撃退したのだ。
信じられない思いと、遅れてやってきた興奮が、彼らの体を震わせた。
だが、義経だけは、まだ弓を下ろしていなかった。
逃げていく敵の背中に、最後の一矢を放つ。遠くで、一人が倒れるのが見えた。
「……終わりだ」
義経は弓を下ろし、冷たい目で生存者たちを見回した。
「見たか。これが『組織』の力だ。個人の武勇など、正しい戦術の前では無力だ」
男たちは、もはや誰も反論できなかった。
恐怖と、それ以上の畏怖の念が、彼らの心に芽生えていた。
この異邦人は、ただの強い戦士ではない。
戦場そのものを支配する、恐るべき指揮官なのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます