第3話 取引

初老の男は、両手を空に見せ、武器を持っていないことを示しながら、ゆっくりと馬を進めてきた。


彼の背後にいる十数騎の若者たちは、緊張で顔を強張らせ、いつでも逃げ出せるように馬の手綱を握りしめている。


無理もない。

彼らの目の前にいるのは、たった今、十人の武装した男を、瞬きする間に肉塊に変えた怪物なのだから。


義経は、返り血を拭おうともせず、近づいてくる男を冷ややかに見据えた。


その眼光は、人を射殺す矢じりのように鋭い。

男は義経から十歩ほどの距離で馬を止め、深々と頭を下げた。


この草原の世界において、相手への最大の敬意、あるいは服従を示す仕草だ。


「私はトオリル。この近くに野営地を持つ、ケレイトの小さな氏族の長だ」

男の声は微かに震えていた。


「そこの屍は、我らの天敵であるタタルの斥候たちだ。我らの野営地を探っていたのだろう。……礼を言う。彼らを始末してくれたことに」

義経は無表情のまま、トオリルの言葉を聞いていた。


感謝などどうでもいい。重要なのは、彼らが自分にとって益となるか、害となるかだけだ。


「……偶然だ。彼らが襲ってきたから、排除した。それだけだ」

義経の短く、抑揚のない言葉に、トオリルはゴクリと喉を鳴らした。


異国の訛りがあるその言葉は、感情がこもっていない分、不気味な迫力があった。


トオリルは、義経の装備、そして彼の馬の扱い方を観察した。


ボロボロの毛皮を着てはいるが、その下の体躯は鋼のように引き締まっている。


何より、十対一の戦いを無傷で制したその武勇。

この過酷な草原で、喉から手が出るほど欲しい「力」がそこにあった。


「旅の戦士よ。名は、なんと呼べばいい」

「……クロウだ」

義経は、幼名である九郎(くろう)を名乗った。義経という名は、この地では意味を持たないし、過去の名を口にするのも忌々しい。


「クロウ殿。見ての通り、我らは弱小な氏族だ。タタルのような強大な部族に脅かされ、常に移動を強いられている」

トオリルは意を決したように、義経の目を真っ直ぐに見た。


「どうだろう。我らの野営地に来ないか? 温かい食事と、雨風をしのげるゲル(移動式住居)、そして、それなりの地位を約束しよう」

それは、傭兵としての勧誘だった。

背後の若者たちが、長老の提案に驚きの声を上げる。


「長老! どこの誰とも知れぬ男を、しかもあんな危険な……!」

「黙らっしゃい!」

トオリルは若者たちを一喝した。

「我々が生き残るには、力が必要なのだ。このクロウ殿のような、圧倒的な力が!」

義経は、トオリルの必死な形相を値踏みした。

嘘は言っていないようだ。弱者の切実な叫びだ。

(……悪くない話だ)

義経は瞬時に計算した。

四年間、一人で生き抜いてきたが、それも限界に近い。

情報を集め、力を蓄えるには、どこかの集団に属する必要があった。

それが弱小部族であれば、むしろ好都合だ。内部から掌握しやすい。


「条件がある」

義経は静かに口を開いた。

「私はお前の部下にはならん。あくまで客将(きゃくしょう)として扱え。私の行動を縛るな。そして――」

彼は一度言葉を切り、周囲の空気を凍りつかせるような冷徹な声で続けた。

「私を裏切るな。もし、私を売ろうとしたり、寝首をかこうとすれば……そこの屍と同じ末路を辿ることになる」

それは脅しではなく、確定した未来の宣告のように響いた。

トオリルの顔から血の気が引いたが、彼はすぐに深く頷いた。


「誓おう。我らは恩を仇で返すような真似はしない」

義経はゆっくりと頷き返した。

「……契約成立だ。案内しろ」

彼は、奪った馬の手綱をトオリルの部下に投げ渡すと、自らの馬首を彼らの野営地の方角へと向けた。

          *

トオリル族の野営地は、丘陵地帯の谷間に隠れるように存在していた。

二十ほどのゲルが並び、羊や馬の群れが草を食んでいる。

だが、どこか活気がない。人々――老人や女子供の目には、常に怯えの色が浮かんでいた。

義経がトオリルに連れられて野営地に入ると、人々は作業の手を止め、異様なものを見る目で彼を見つめた。

全身に乾いた血を浴び、能面のような無表情で馬を進める異邦人。

彼が纏う空気は、死神のそれだった。

母親たちは子供の目を覆い、ゲルの中へと隠れた。

男たちは遠巻きに彼を睨み、ヒソヒソと言葉を交わす。


「長老は気でも狂ったのか」「あんな禍々しい男を引き入れるなんて」

歓迎されていないことは明らかだった。だが、義経にはどうでもよかった。


彼は愛されるためにここに来たのではない。利用するために来たのだ。


案内されたのは、族長のゲルの隣にある、比較的新しいゲルだった。

中に入ると、獣脂の臭いと、焚き火の温かい空気が彼を包んだ。


四年ぶりの、まともな「家」だった。

「ここを使ってくれ。すぐに食事と着替えを用意させる」

トオリルが気を使って言った。

義経はドカリと毛皮の上に腰を下ろすと、ようやく長く息を吐いた。

緊張が解けたわけではない。だが、体は休息を求めていた。



しばらくして、ゲルの中に一人の若い女が入ってきた。

年の頃は十六、七といったところか。トオリルの娘だろうか。

盆に載せた羊肉の煮込みと馬乳酒を、震える手で義経の前に置く。

彼女は、他の者たちのように義経を直視することを恐れていた。

だが、去り際に一度だけ、チラリと義経の顔を見た。

その瞳には、恐怖と同時に、抑えきれない強い好奇心の色があった。

義経はその視線に気づいていたが、無視して肉にかぶりついた。

味など分からない。ただ、生きるための燃料として胃袋に詰め込む。

(まずは、この部族の力を見極める)

彼は租借しながら、次の手を考えていた。

この弱小部族を、どうやって自分の手足として使えるように仕立て上げるか。

兄・頼朝が鎌倉で築き上げた強固な武士団。

それに対抗し、打ち砕くためには、この草原の民を、自分自身の「武士団」に変える必要があった。


ゲルの外では、冷たい夜風が吹き荒れていた。

だが、義経の胸の内で燃える復讐の炎は、決して消えることはない。

蒼き狼の伝説は、この小さな、今にも消えそうな部族の天幕から静かに始まった。

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