プロローグ



 空は青く澄み渡り、噴水の女神像の頭の上で羽を休めている小鳥がかわいらしく鳴いている。

「──めて。やめてよっ。連れていかないで!」

 青々と生い茂る薔薇ばらの葉の上では、ハチが様子をうかがうように触角を動かしていた。そこを人の足が盛大にかすめ、驚いたハチが空へと飛び立つ。

「王妃陛下の御命令だ。邪魔をするな」

 騎士が自身の足にすがりついていた少年を突き放すように蹴った。くすんだ金髪の少年は地面に倒れ、それでも起き上がろうとする。

 しかしそこを別の騎士が上から押さえると、これ以上邪魔ができないように拘束してしまった。

「ベティ、ベティっ」

 まだたった六歳の子どもが、赤みがかった褐色の瞳から涙をあふれさせて必死に大人に反抗している。

 騎士に雑に抱えられていたイザベラは、それを見て抵抗らしい抵抗をやめた。ずっとじたばたさせていた手足から力を抜き、大人にはかなわないとわかっていても手を伸ばしてくれる少年へ、ニッと力強く笑ってみせる。

「大丈夫よ、ミシェル。わたくしは平気だから、心配しないで」

 だからそれ以上大人に逆らわないで。そんな願いを込めた。あのままではミシェルまで危害を加えられそうだったから。

 そうしてイザベラは、他国の騎士に抱えられたまま、他国の王妃の私室へと連行されていく。

 扇子で顔の下半分を隠しながら、王妃が蔑むようにイザベラを見下ろしてきた。

 王妃とはこれが初対面だ。そもそも十二歳の小娘にすぎない自分が、他国の王妃と知り合う機会などそうそうない。

 イザベラは王族ではない。フェデロス王国のしがない男爵令嬢である。今日ここに──カナン王国の王宮で開催されているパーティーに参加しているのは、未来の聖女と名高い姉への招待についてきたからでしかない。

 できれば姉の顔に泥は塗りたくないが、なぜ自分が突然こうして連行されることになったのか、イザベラには心当たりが全くなかった。

「なんともまあ、みすぼらしい娘よ。姉は素晴らしい聖力を持つというのに、妹のほうは何もないではないか」

 他人だけれど自分と似たり寄ったりのきつい顔をした王妃が、眉間にしわを刻む。

 着ているドレスはごうしやで王妃の風格を見事に引き出しているけれど、逆を言えば生地も装飾もきらびやかすぎてイザベラには下品に見えた。

「そなたに一つ、忠告しておこう。これ以上と懇意にするようであれば、姉の立場が危うくなると思え」

「……魔族?」

 誰のことを言っているのだろうと、本気でわからなくて眉根を寄せる。

「ミシェルのことよ。あやつの『ぎよう』を見ておらぬのか?」

 そのとき紫の瞳を揺らして反応してしまったイザベラを、王妃は見逃さなかった。

「異形、それすなわち魔族のあかし! あのような気色の悪いものを持つ者は人間ではない。憎き魔王の手下! それをよもや『人間』と、『友人』と、口走ることはなかろうな?」

 ぎりっと、奥歯を鳴らす。

 確かに人類は今、魔王率いる魔族や魔物と対立している。そんな魔族の特徴が、人間と似たような姿形をしている一方で、角が生えていたりうろこがあったりする、あきらかに人間とは異なる形──『異形』を持っていることだ。

 でもミシェルは言っていた。両親は人間だ、と。

 真実を確かめたわけではないけれど、この数日一緒に遊んだ彼は、花をで、家族を愛し、イザベラを姉のように慕ってくれる、ただの心優しい少年だった。

 たとえ彼の腕が硬そうな鱗で覆われ、鋭い爪があったとしても、イザベラには自分と同じ〝人間〟に見えた。

(お姉様に迷惑はかけられない。かけたくない)

 イザベラにとって姉は尊敬する自慢の家族である。

 いつも優しくて、魔力も聖力もないイザベラにも分け隔てなく接してくれる、大好きな家族だ。父と同じ銀髪を指して、自分も姉と同じくりがよかったなんて言って両親を困らせたこともある。

 そんな愛する姉に迷惑をかけてまで、数日一緒に遊んだだけの少年をかばう義理はイザベラにはない。

 姉と、知り合ったばかりの少年。

 てんびんにかけたとき、皿がどちらに傾くかなんて考えるまでもない。

 ないのだ──本来なら。

(でもお姉様なら、絶対王妃のあんな発言を許したりしない。お姉様なら絶対、悪意に屈したりしない)

 優しく慈悲深い姉は、イザベラの指標だ。

 迷ったとき、悩んだとき、いつもイザベラの中の姉が答えへと導いてくれる。

(わたくしは、お姉様に顔向けできないことは、死んでもしない!)

 騎士に両手の自由を奪われながらも、イザベラは鋭く王妃をにらんだ。この状況で刃向かう意味をわからないほど子どもではないが、自分の信条を曲げてまで従えるほど大人でもなかった。

「ミシェルは……ミシェルはわたくしの大事なお友だちよ! 侮辱しないで!」

 イザベラの反撃に王妃のこめかみが動き、緊張感でこの場がぴりついた、そのとき。


「────弟のために、ありがとう」


 後ろから誰かがそうささやいた。

 と思ったら、イザベラを拘束していた騎士が突然倒れ、身体からだが自由になる。頭に大きな手が乗って、優しくでるように往復した。

 そのとき一瞬だけ、相手の顔が視界を掠めた。れいな金色の瞳に目を奪われる。

 コツン、とやけに大きな靴音が部屋に響く。まるで王妃の注意を自分に向けさせるような……。

「ご無沙汰しております、王妃陛下」

「お、おまえは、ヴァレルド! なぜここに!?」

 ──ヴァレルド。脳内でその名を繰り返し、イザベラはハッとする。

 それは、一度も会ったことはないけれど、ミシェルの口から何度も何度も聞かされた名だ。父親が平民の自分と違って国王が父に当たる彼とは身分に大きな差はあるけれど、そんなもの関係なく自慢で憧れている異父兄あにだと言って。

 いつか会ってみたいと思っていたその人が、今、イザベラを守るために王妃の前に立ちはだかってくれている。

「『なぜ』? わかっていてお聞きになるのか。無関係の人間をえんに巻き込むのがこの国の王妃なのですか?」

「ふん、王宮から逃げ出した側妃の子どもぜいが。おまえの味方がここにいると思うておるのか!」

 すると、彼を囲むように衛兵たちが武器を構え出した。大の大人が寄ってたかって、たった一人の少年に敵意をき出しにしている。

 どうして、と信じられない思いだった。だってミシェルの言うことが本当なら、彼は本物の王子だ。

 王族なら守られるべきではないのか。王族なら大切にされるべきではないのか。

(なのになんでみんな、そんな冷たい目を向けてるの……?)

 誰も彼を助けない。あわれまない。それがとても異様に見えて仕方なかった。

 イザベラはとつに擁護しようと息を吸い込んだが、口を開ける前に目の前に出現した浮遊文字によって言葉をみ込まされる。

 イザベラにしか見えない位置に現れたその文字は、魔術によって作り出されたものだ。

 ──〝逃げろ〟

 たったひと言。たったそれだけ。

 彼のほうが味方なんていなくてピンチなのに、彼はイザベラに「逃げろ」と言う。

 その優しさがつらい。逃げたくない。彼を一人、ここに残していきたくない。

 なぜミシェルと仲良くしただけでここまで王妃が怒るのかはわからないけれど、怒らせたのは自分の信条を貫いたイザベラ自身である。

 しかし、この場で足手まといになっていることも、子どもながらに理解していた。

 理性と罪悪感がせめぎ合い、悩みに悩んだ結果、イザベラは駆け出した。味方になってくれそうな大人に助けを求めるために。

 お礼はそのあとに伝えればいいのだと、必死に自分に言い聞かせた。

 そのときはまさか、それが最後になるとは思わずに──。

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