第1話:春の輪郭


 キーンコーン カーンコーン

 昼休みの始まりを告げるチャイムが響く。


 二年二組の教室は今日も賑やかだった。


 進路を語り合い、部活に夢中になり、誰もが何かを手にしようと輝いた顔で話している。


 窓際の席に座る水守蓮翔みもり れんとの耳には、そのざわめきが不協和音のように響いた。


 蓮翔は頬杖をつき、冷蔵庫の中身を思い浮かべる。


――夕めし、何にすっかな……。


 癖のない黒髪がサラリと流れ、顔の半分を隠した。

 

 学校と家事、そして弟妹の世話。

 それらが日常の大半を占め、彼の存在意義を証明する手段のすべてだった。


――語るほどの「理想」もなければ、夢中になれる「何か」もない。


 心の奥に沈む焦りを誰かに悟られそうな気がして、窓の外へ視線を逃がした。



 青く澄んだ空の下で、春風が校庭の桜を誘うのが見えた。


 舞い散る花びらの中を、数人の女子が駆け抜けていく。


 その中で、ひときわ軽やかに跳ねる人物は、幼馴染でクラスメイトの日向陽葵ひなた ひまりだった。


 保育園の頃からリレーのアンカーを担っていた彼女は、中学生になると当たり前のように陸上部へ入った。


 日に焼けた髪は淡い茶色を帯び、柔らかな毛先が肩の上でふわりと跳ねる。


 太陽のように明るい笑顔で周囲を照らす陽葵は、いつも友達に囲まれていた。


 その笑顔の奥に潜むものは見えないが、時折浮かぶ寂しげな横顔が、蓮翔の胸には引っかかっていた。


 

 ふと、教室がざわめき、視線を移す。


「楓真! 次の体育、バレーだってよ!」


「おっしゃー! オレの時代が来たようだなぁ!」


 教壇を囲って沸き立つ輪の中心で、ひときわ明るい声を張り上げているのは柚木楓真ゆずき ふうまだった。


 バレーボール部だが、体格の良い運動部男子に埋もれてしまうほど小柄だ。


 色素の薄い髪と目。子犬のように人懐っこい笑顔で、場の空気を一瞬で柔らかくしてしまう存在。


――俺とは正反対。


 蓮翔はため息を噛み殺し、机に視線を落とした。


「れんとー! 聞いた? オレと同じチームな!」


 保育園の頃から共に過ごしてきた幼馴染。それが、今の二人を結ぶ見えない糸だった。


 年々その糸が細くなるのを楓真も感じ取っているのかもしれない。

 だからこうして、何かと蓮翔に声を掛けるのだろう。


「んー? おー」


 机に肘をついて顎を支えながら、片方の口端を上げて軽く返す。

 その“余裕のある笑顔”に満足する友人は多かった。


 返事を聞いて満足気に笑いながら輪の中に戻った楓真を眺める。


――俺が心の中で何を考えているかなんて、誰も気にしない。



 後方の扉がガラリと音を立てて開き、冷たい空気が流れ込む。


 整った顔に不快感を張り付けた久遠紗月くおん さつきが、腕を組んだまま歩み寄ってきた。


「楓真、うるさいんだけど」


 紗月もまた、幼馴染の一人だ。

 冷たい言葉の奥に、わずかな親しみが込められていることを蓮翔は知っている。


「ちゃんと子守りしといてよね」


 腰まで伸びた艶のある黒髪を揺らして、斜め前の席に座った。


 剣道部の紗月は、凛と背筋が伸びて目を惹く存在感がある。


 鋭く短い言葉は冷たさを纏っているが、それでも彼女の周りに人が集まるのは、その容姿と魅力的な雰囲気のせいだろうか。


「あいつの母ちゃんじゃねぇし……」


 ぼそりと零すが、遠い目で校庭を眺める紗月には、もう届かなかった。



―――――



 放課後。

 教室から生徒が出ていく中、楓真が蓮翔の席に駆け寄った。


 カーテンが風を含み、楓真の背中越しに揺れる。


「なぁ蓮翔、今日部活休みなんだ。遊ばねぇ?」


「いいけど、あんま時間ねぇんだ」


――買い物行って、母と妹たちが帰る前に夕飯の下準備して……。できれば静かなうちに宿題も片付けたい。


 けれど、数年ぶりの楓真の誘いを断る気にはなれなかった。


「おう。蓮翔ん家でゲームしよ。んで、今日は駅前のスーパーで肉が安いらしいから、マック寄って買い物行こうぜ」


 友人の能天気な優しさに苦笑を浮かべていると、陽葵が歩み寄ってきた。


「私も部活休みなんだけど……。自主練もないなんて、珍しい日もあるもんだよねー」


 楓真の同調する声が上がった後、少しの間をおいて、まだ席に座ったままの紗月が呟く。


「……あの公園、まだあるのかな」


 その言葉に、風の音が止んだ気がした。

 四人の脳裏に幼い頃の記憶が浮かび上がる。


「あの公園……保育園の頃一回だけ行ったとこでしょ? 結構古かったよねー」


「迎えの時間、みんなバラバラだから滅多に遊べなかったもんな。思い出の公園だよなぁ」


 陽葵と楓真は明るく振る舞うが、水面に一枚の花びらが落ちるように、静かな違和感が広がっていく。


「……行ってみるか」


 気付けば、勝手に言葉が零れていた。

 誰からともなく立ち上がり、教室を出る。


――少し覗くだけだし、大丈夫だよな。


 自分に言い聞かせるが、何とも言えない不安が腹の底に沈む。



 淡い葛藤を胸に、桜の花が舞い散る校門をあとにした。






――第1話:春の輪郭 了――

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2025年12月26日 23:00
2025年12月27日 23:00

白環の国の四季遣い 暁月 @aki_tsukasa

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