踊り場の女
都桜ゆう
第1話 澱んだ空気の日常
私が住むT団地は、ただ古いというだけの言葉では到底表現しきれない、奇妙な重さを持った場所だった。この集合住宅群は、建設されてからすでに半世紀近くの時を刻んでおり、その躯体全体が、長い風雨と住人たちの生活の澱によって、疲弊しきっているようだった。
外壁のコンクリートは、まるで病的な皮膚のように、雨垂れの筋と、苔やカビが複雑に絡み合った薄汚い迷彩模様で覆われていた。鉄骨の手すりに覆われた外付け階段は、錆が浮き、そこからは、いつも重く湿った鉄錆の、独特の匂いが立ち上っていた。
まだ多くの部屋に人が住み、生活の営みはあるはずなのに、団地全体を支配している空気は、まるで底なし沼の底のように澱んで、重たい沈黙だけが、棟と棟の間に横たわっていた。賑わいも、子供の笑い声も、もう何年も前から聞こえない。そこに存在する物、そこに住む人々、その全てが、ただひたすらに疲弊し、息苦しいのだ。
私は高校二年生の裕子ゆうこ。私の部屋は四号棟の最上階、五階にある。当然、エレベーターなどという便利なものは存在せず、毎日の通学、そして帰宅は、この無機質な外付け階段を上り下りすることが宿命づけられていた。毎日の上り下りは苦痛だが、エレベーターが設置されるような新しい建物ではないので、我慢するしかない。
階段を上がる際、私はいつの頃からか習慣になっていたように、無意識に、一番上の踊り場を見上げる。視界の奥、階段の垂直な線と、踊り場の水平な線が交差する、光と闇の境目。そこは、団地の内部と外部を繋ぐ、無機質な中継地点だ。
そして、見上げたその瞬間だった。
私の心臓は、激しく鼓動を打つ熱いポンプから、一瞬で凍りついた岩へと変貌した。全身の血液が、重力に逆らって急激に引き上げられたような、非現実的な感覚に襲われた。
五階へ続く踊り場。薄汚れたコンクリートの床。夕焼けの最後の光が、奇妙なオレンジ色を反射させ、壁のシミをぼんやりと浮かび上がらせている。その一番奥、廊下の角の壁際。
居た。
最初に目に焼き付いたのは、その異常な存在の仕方だった。宙に浮いているわけではない。彼女は、手すりから上に顔が出ているから、床に確かに立っているはずだ。しかし、腰から下が、まるで太い断裁機でスパッと切り落とされたかのように存在しなかった。
学生服。濃紺だったはずの生地は色褪せ、黒ずんで埃をかぶっているように見えるセーラー服。スカートは存在せず、その腰の切断面から、彼女は直接床に立っていた。どういう物理法則でそれを可能にしているのか、理解が追いつかない。その切断面から、何かが零れている様子もなく、そこはただ、空虚な無だった。
顔は、高さと、踊り場に溜まった濃い暗闇のせいで、細部までは識別できない。だが、そのセーラー服の襟の白さだけが、闇の中でぼうっと浮かび、そして、その顔が明確にこちらを向いていることだけは、私にははっきりと分かった。
階段の下から、完全に硬直して見上げる私。踊り場から、微動だにせず、ただそこに在る下半身のない女。
彼女は動かない。息遣いもない。まるで、団地の澱んだ空気が、長い年月をかけて偶然セーラー服の形を取り、あの場所に固定されてしまったかのようだ。その圧倒的な静止こそが、何よりも恐ろしい違和感を生み出していた。
恐怖で鼓膜が破れそうに脈打つ。呼吸の仕方を忘れた。足が石膏で固められたように動かず、逃げることも、叫ぶこともできない。スクールバッグの重さが、私の体の重心を後ろに引っ張り続け、意識だけが、切り離されたように踊り場の女に集中する。
どれほどの時間が経過しただろうか。私の体感では、数秒が、永遠にも感じられた。
私は、奥歯が砕けるほどの力で強く噛み締め、両目を硬く閉じた。そして、理性が限界を迎えた勢いで、階段を駆け上がった。そして、ついに四階へ。心臓が胸郭を突き破りそうな激しい鼓動を打つ。
女がいたさらに上の踊り場をそろりと確認する。女はすでに消えていた。
先ほどの光景が忘れられず、固く目を閉じ五階へと駆け上がった。自分の部屋のドアに飛びつき、鍵を無理やり回し、勢いよく部屋の中に転がり込む。
ドアを閉め、二重に鍵をかけ、そして、全身の震えをどうすることもできずに、壁に背中を押し付けて座り込んだ。
「気のせいよ。疲労だ。幻覚だ」
何度も何度も自分に言い聞かせたが、その言葉には、全く実感が伴わない。昨日までの日常は、踊り場に立ち尽くすその怪異によって、音を立てて崩壊した。
窓のカーテンをそっと開け、外を見る。団地は、深い闇と沈黙に包まれている。
しかし、私は悟っていた。自分は、あの階段から、あの女のいる、澱んだ空気の破片を部屋の中に持ち込んでしまった。
そして、この団地に住んでいる限り、明日も、明後日も、この階段を避けられないという事実が、私を窒息させるかのように、無限の恐怖を生み出した。
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