深夜綻び、ふたり

九条律志

深夜綻び、ふたり

〈深き夜に触れる〉



 秋が深まり、夜がゆっくり長くなると、人はなぜか過去に手を伸ばしたくなる。触れられないはずのものほど、指先にやわらかく滲むからだ。

 あの夜も、私の部屋には、深海のような静けさが満ちていた。窓辺の街灯が淡く揺れ、壁に薄い影をつくる。その影の深さが、私を彼女へと連れ戻した。


 ――深雪。

 名前の中に、冬の白さと、底へ落ちるような深さを同時に抱えたひと。



 彼女と出会ったのは、夏の終わり、まだ夜が短かった頃だ。古い図書館の奥、ほとんど人の来ない読書室で、彼女は静かに本を読んでいた。

 開かれたページの文字よりも、光の届かぬ深いまなざしの方が、なぜか強く私を捉えた。

「夜って、読む速度がゆっくりになるんです」

 そう言って笑う彼女の横顔は、まるで日暮れの残照のように、長く心に残る温度を持っていた。



 私たちは、季節が秋へと傾くにつれ、自然と一緒に本を読むようになった。同じ机に置かれた二冊の本は、たまに風のいたずらでページを同時にめくり、ふいに心が重なったような錯覚を与えた。

 彼女は言った。

「長い夜って、誰かの言葉に寄りかかりたくなります。深く沈んでも、一緒に沈んでくれる人がいると安心だから」

 その言葉が、今になって胸の奥でまだ灯っている。あれは、私にだけ向けられた温度だったのだろうか。



 冬が来る前に、彼女は街を去った。理由は聞かなかった。聞けば、答えの深さに耐えられない気がしたからだ。

 最後の夜、図書館の前で彼女は言った。

「……夜が深くなるほど、自分の影がよく見えるんです。誰かと寄り添うには、まだその影が整理できなくて」

 そう言う彼女の声は、触れれば壊れてしまいそうに薄く、しかしどこまでも優しかった。

 私はただ頷くことしかできなかった。沈んでゆく月のように、言葉は全部喉の底へ沈んでいった。



 そして今、夜長の季節が戻ってくる。

 深い静寂の底で、私はまた彼女を思い出す。けれどその想いは、もう痛みではなく、どこか温かい余韻のように胸の内に滞っている。

 読書室で並んで本を開いたときの、あの静かな幸福。

 重ねようと思わずに重なったページの音。

 そして、深雪が最後に見せた影の輪郭までも、いまは優しい記憶として漂っている。


 長い夜は、人を孤独にするだけじゃない。

 深い夜は、胸の奥に、誰かの灯りをそっと守るためにあるのかもしれない。


 だから私は、今日も部屋の明かりを落とし、本を開く。

 ページをめくるたび、深い夜の底から、彼女の声が静かに立ちのぼる。

 もう届かなくてもいい。ただ、そのやわらかな残響が、長い夜をそっと照らす。




〈深き夜、あなたを見送る前に〉




 夜が長くなる季節が近づくと、胸の奥が少しざわつく。空気に触れただけで、過去がゆっくり浮かび上がってしまうからだ。

 深い夜はすべてを静かに照らし出す――それが、私には少し怖かった。


 あの図書館で、あなたに出会ったのは、夏と秋の境の頃。

 陽はまだ長かったのに、私の中にはもう深い影ができ始めていた。



 あなたは、読みかけの本を抱えて少し困ったように席を探していて、

 その目が私の向かいの席に落ち着いたとき、なぜか胸に波紋が広がった。

 あの読書室で誰かと向き合うなんて想像したことがなかったのに。

 私は本を読んでいるふりをして、ページをほとんど追えていなかった。


 夜について話したあの日、あなたが少し驚いたように笑ったのを覚えている。

 私の言葉が誰かの表情を変えるなんて、それもまた、深い夜のように静かな出来事だった。



 机に二冊の本が並ぶたび、ページの音が重なるたび、

 私の心は少しずつ、深い場所から浮かび上がっていった。

 けれど同時に、あなたの優しさに寄りかかってしまいそうで怖かった。

 私にはまだ、うまく扱えない影があったから。


 ある夜、図書館からの帰り道、あなたの横顔が淡い街灯に照らされた瞬間、

 私はふいに思った。

 ――この人の中に、私の影まで置いてしまいそうだ、と。



 冬が近づくと、私の中の影はまた深くなった。

 あなたの隣で感じた温度が、逆に私の未整理の痛みを浮かび上がらせたからだ。

 私はまだ、自分の影と向き合いきれていなかった。

 誰かの手を取るには、手のひらがあまりにも冷たかった。


 最後の夜、あなたの目をまっすぐ見ることができなかった。

「影が整理できなくて」と言ったとき、本当はもっと言いたいことがあった。

 ――あなたの温度に頼れば、きっと私は楽になってしまう。

 でも、そんな依存の形であなたを愛したくなかった。


 あなたは頷き、私の決断をそっと受け止めてくれた。

 その優しさに触れた瞬間、胸の奥が深く沈んで、少しだけ痛んだ。



 それから季節が巡り、夜はまた長くなってゆく。

 深い静寂の中で、私はあなたとの時間を思い返す。

 不思議と、その記憶はどれも温かい。

 あなたが隣でページをめくる音、ふいに重なる呼吸、

 沈黙の中にあった柔らかな親密さ。


 あの頃より少しだけ、自分の影を見つめられるようになった気がする。

 長い夜は、怖いだけじゃない。

 深い夜は、心の底に沈んでいた言葉を静かに浮かせてくれる。


 いつかまたあなたに会う日が来たなら、

 私はきっと、もう少しだけまっすぐに笑えるだろうか。

 そう思いながら、また一冊の本を開く。

 ページの白さが、ゆっくりと夜の深さになじんでいく。



〈深き夜に戻る場所〉



 春の終わり、夜が日に日に短くなっていく頃だった。

 私は久しぶりに、あの古い図書館へ向かった。改修が決まり、来月には建物自体が取り壊される、と聞いたからだ。

 ふと胸がざわめいた。

 この場所が消えるということは、あの時間までも隠れてしまうような気がした。


 読書室の扉を開けると、かつてと同じ、重く澄んだ空気が流れてきた。

 机も椅子も、少し軋む床も、何ひとつ変わっていない。

 けれど、そこにもうひとつ――予期しないものがあった。


 窓際から差す光の下、背中を丸くして本を読んでいるひとがいた。

 その肩の輪郭に、私は息を止めた。


 ――あなた。



 気づけば、深い水の底から浮かびあがるように歩み寄っていた。

 あなたは、ページをめくる手をふと止め、ゆっくり顔をあげた。


 目が合った瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。

 あなたの表情は驚きと喜びと、どこか懐かしい寂しさが混じっていた。


「久しぶりですね」

 あなたの声は、あの頃より少し低く、でもやはり柔らかかった。


「……うん。来るとは思わなかった」

 ようやく言葉がこぼれたが、それだけで胸がいっぱいになった。


 あなたは笑った。

「ここがなくなると聞いて。最後に、どうしても来たくて」


 その言葉は、私の中の深い場所に静かに触れた。

 ――私と同じ理由で来たのだと、すぐに分かった。



 私たちは並んで座った。

 かつて二冊の本を並べた、あの机で。


 外では風がやわらかく枝を揺らし、夕陽がゆっくり沈みはじめていた。

 窓の向こうの光が薄くなるほど、室内は静けさを増していく。


「元気でしたか」

 あなたが問う。

 短い問いなのに、そこには長い時間の重さと、深い夜のような思いやりが宿っていた。


「ええ。少しずつ、自分の影と仲良くなれた気がする」

 その言葉を言えたことに、私は自分で驚いていた。


 あなたは目を細め、どこか誇らしげに、そして安心したように頷いた。


「僕も、ようやく分かったんです」

「何を?」

「あなたと過ごした静けさが、どれほど深い灯りだったか。時間が経って、ようやく気づきました」


 その告白は、胸の奥で静かに響き、長い夜の底に沈んでいた小さな痛みをそっと溶かした。



 図書館の閉館時間が近づき、館内の照明がひとつずつ落とされてゆく。

 薄暗い読書室は、かつての夜の記憶と重なった。


「……また会えたこと、うれしいです」

 あなたがその言葉を落とすと、私は息を吸った。深く、確かに。


「私は、あの時の私より、少しだけ前へ進めています」

 そして、ゆっくりとあなたに目を向けた。

「だから……もしよかったら、また一緒に、夜のページをめくれますか」


 あなたは驚いたように、けれどすぐに微笑んだ。

 その笑みは、かつて私を照らした柔らかな灯りと同じだった。


「ええ。

 長い夜でも、短い夜でも。

 あなたとなら、きっと大丈夫です」



 図書館を出るころ、空はもう深い青に沈んでいた。

 春だというのに、どこか秋の夜長を思わせる静けさがあった。


 歩く距離は短かった。

 けれど、ふたりの間に流れる沈黙は以前とは違った。

 寄り添うでもなく、頼るわけでもなく、ただ同じ深さを共有するような、穏やかな静寂だった。


 別れ際、あなたはふと立ち止まり、夜空を見上げた。


「また、会いましょう。すぐに」

 その言葉は、夜の深さに吸い込まれながらも、しっかり私の胸に灯った。


 私は頷いた。

 長く深い夜を越えた先で、ようやく辿り着いた再会。

 その静かな奇跡を、ずっと忘れない。


 そして私は知った。

 深い夜は、終わりではなく――

 もう一度、誰かと出会うための場所にもなり得るのだと。

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