第9話 鍛錬

「お待たせしました。お兄様」


 わたしが苦情申し立てをしてから、お兄様は鍛錬を終えた後の休憩時間を、研究の時間に充ててくれた。わたし的には、休憩中にも頭を使っている感じがして、いまいち休めている気がしないのだが、少しでも鍛錬したいわたしと少しでも研究について語り合いたいお兄様の二人の意見を勘案した結果だ。





「……よく頑張ったな。日に日に良くなっているぞ」


 鍛錬を終えて、研究に移る前に、前歯にものが詰まったような物言いで、お兄様がわたしのことを褒めてくれた。そっと手を伸ばし、わたしの頭を優しく、でも不器用に撫でてくれた。ばあやと違って不慣れな感じで優しく撫でるお兄様の手は、とても暖かかく(or冷たかった)どこか照れくさい気持ちになった。そう思っていると、お兄様が慌てたように手巾を取り出した。


「……そんな慌てて、手についたわたしの汗を拭き取らなくてもいいじゃないですか。触ったのはそっちですよ?」


 頬を膨らませてそう言うと、手巾をわたしの手に握らせたお兄様が言った。


「……気がついていないのか? 涙が流れているぞ。なにか気に障ったか?」


「え……? あ、本当だ。ごめんなさい。……思えば、こちらの世界に転生してから、頭を撫でてくれたのってばあやだけだったので……他の人の手が新鮮で」


 わたしがそこまで説明すると、顔を顰めたお兄様が小さくため息をついて問うた。


「……嫌じゃなかったんだな? じゃあ、たまに頭を撫でてやろう」


「たまにですか?」


「たまにだ。鍛錬だけでなく研究にも励め」


 そう笑ったお兄様の顔が優しくて、涙が止まらなくなってしまったのは、幼女として不可抗力だろう。……幼女の相手なんて不慣れそうなお兄様が少し焦っているのが面白くて、すぐに涙は落ち着いたが。








⭐︎⭐︎⭐︎

「ユーリア! 最近、戻りが遅いわよ! どこで何をしているの!?」


 普段わたしのことなんて気にもしていないお母様が、わざわざ使用人側の通路に現れた。そして、突然怒鳴ってきた。


「お母様。最近、森の入ってすぐの果実は数が少なくなっているので、森の奥の方で採るようにしているのです」


 これは嘘ではない。お兄様にも森を守るためにそうした方がいいと言われているし、森の奥の方は人が来ないからそこで鍛錬するためにもわたしには都合がいいのだ。


「そんなこと、関係ないわ! お父様に迷惑をかけないように、早く帰ってくるようにしなさい」


 一度、森から戻るのが遅れて森の中で一夜を明かした日、少し騒ぎになってお父様に迷惑をかけたことを指しているのだろう。……わたしの心配はされなかったが、お父様の迷惑にならないかの心配はどんな小さなことでも消えおつけているのがお母様だ。安心させるように、説明しておこう。


「昔よりも身体が少し強くなったようで、森の奥に行っても、きちんと門が閉まる前に戻るようには注意しています」


 反論したことが気に入らなかったのだろう。使用人が床を磨くために置いていた桶の汚水をばしゃりとかけられた。


「……あら? 汚れちゃったじゃない。お父様が帰ってくるまでに綺麗にしなかったら、どうなるかわかっているわよね?」


 そう言って満足したように、お母様は靴をかつんかつんと鳴らして戻って行った。


 誰かがばあやを呼びに行ってくれたのか、布を持って走ってきたばあやに身体を綺麗に拭いてもらった。ボロ着からボロ着に着替えて、ボロ布を持って床を拭く。わたしがきちんと掃除するかどうか見張るための侍女が一人残っているため、誰も手伝おうとはせず、わたしは這いつくばって一人ゴシゴシと床を磨く。なぜかそこへ通りかかった弟が、幼児と思えないほど醜悪な表情で、わたしを指差した。


「くちゃい。きちゃない。ポイする」


「坊っちゃま! 人に向かって……それもあなたの姉上に向かって、そのようなことは言ってはいけませんよ」


 ばあやが目を見開いてそう声を上げた。くすくすと弟付きの侍女たちが笑う。他の人たちは、目を逸らして巻き込まれないようにしている。


「ばあや。わたしは大丈夫。ありがとう。ばあやが怒られたら大変でしょう?」


「お嬢様……」


 悲しそうに目をしぼめて、ばあやはわたしの手を取る。


「……まだ汚れは取れていないので、お水で一度お身体をお拭きしましょうね?」


 よほどわたしがクサイのか、再度身体を拭き直されることは決定したようだ。

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