第11話 暴食の王の凱旋と煉獄の来訪者

ズプンッ。


 生温かい粘液に全身が包まれ、俺の視界はどす黒い闇に閉ざされた。

 普通の人間なら、この時点で全身を溶解させる強酸性の消化液に悲鳴を上げて絶命するだろう。


(……ふぅ。意外と落ち着くな、このヌルヌル感)


 だが、今の俺はスライムだ。敵の消化液は、俺にとって極上の栄養スープでしかない。


『警告:自己同一性の希薄化。個体「ゼクス」の思考回路を、種族「スライム」の単純思考へ最適化します』


 脳内で無機質なシステム音が響く。まずいな。『生態模倣』の副作用で、思考がどんどん単純になってきている。さっきまでは「奴の核を破壊して脅威を排除する」という理知的な目的があったはずなのに、今では「うまそうなアレを食う」という、極めて本能的な欲求に思考が上書きされつつあった。


(いかんいかん、俺は元四天王ゼクス……。目的は潜入調査と……あれ? なんだっけ? まあいいか、腹減ったし)


 思考の端から、どんどん知性が抜け落ちていく。その代わり、別の「何か」が俺の意識に流れ込んできた。


『ボス……?』

『アタラシイ……ボス?』

『ツヨイ……。ゴハン……クレル?』


 それは、微弱で、単純で、ひたすらに純粋な思考の波だった。俺が世話をしていた飼育小屋のスライムたち。いや、違う。学園の敷地内に生息する、全ての野生スライムたちの意識だ。俺が変異種の体内で「スライムとしての王(アルファ)」のフェロモンを撒き散らしたせいで、奴らが反応してしまったらしい。


『ボス! 敵、食べる?』

『加勢する』『ボスを守る』


(……馬鹿野郎。お前らみたいな最弱種が来ても、餌が増えるだけだ)


 だが、思考とは裏腹に、俺のコアの奥底から湧き上がったのは、奇妙な全能感だった。


(……いいや。使えるものは泥でも使う。それが俺の流儀だ)


 俺は暗闇の中で、ニチャリと歪んだ口を開いた。


「総員、食事の時間だ。外側から揺さぶりをかけろ。俺の食べ残し(おこぼれ)をくれてやる」


『『『了解、ボス!』』』


***


「……な、なんだ、あれは……!?」


 外の世界――崩壊した演習場で、生徒の一人が震える指で校舎の裏手を指差した。

 木々の間、校舎の陰、排水溝の中から。青、緑、赤、色とりどりのスライムたちが、まるで号令を受けたかのように一斉に姿を現し、巨大な捕食粘性体へと向かって進軍を開始していた。


「ひぃぃぃ! 学園中のスライムが暴走した!?」

「終わりだ! 化け物が増えた!」


 パニックに陥る生徒たちの中、レオナルドだけが、神の啓示を受けたかのように目を見開いていた。


「違う……! あれは暴走などという下等なものではない!」


 彼は瓦礫の上に仁王立ちし、天に叫んだ。


「あれは『凱旋』だ! 王の帰還を祝い、その威光の前にひれ伏すために集った、忠実なる臣下たちの行進なのだ!」

「「「王!?」」」

「そうだ! ゼクス先生は、ただの人間ではなかった! この地に生きる全ての魔獣を、その覇気一つで統べる、真の『魔獣の王(ビーストマスター)』だったのだ!」


 レオナルドの熱狂的な解説が、真実として生徒たちの脳に焼き付いていく。


「おお……! だから先生は、あれほどスライムの世話を……!」

「あれは世話などではない! 王が自らの民の暮らしを視察しておられたのだ!」

「僕たちは……王の御前で、なんと無礼な態度を……!」


 数人の生徒が、その場でガクガクと膝を折り、土下座を始めた。誤解のインフレーションが、もう誰にも止められない領域に達していた。


***


(――見つけた)


 捕食粘性体の中心部。そこには、バスケットボールほどの大きさの、どす黒い魔力結晶が心臓のように脈打っていた。こいつが本体の核だ。


(うまそおおおおおおおおおおっ!!)


 俺は理性をかなぐり捨て、その核へと飛びついた。

 俺のゲル状の身体が、巨大な口のように変形し、核を丸ごと包み込む。


「ギシャアアアアアアアアアッ!!」


 怪物が断末魔の悲鳴を上げる。

 自分の腹の中から、エネルギーを根こそぎ奪われる恐怖。捕食者が被食者に転落する瞬間。


「その魔力、俺が有効活用してやる。エコシステムってやつだ」


 俺は核の表面に張り付き、ズズズッ、ジュルルルルル……と、膨大な魔力を吸収していく。


 外の世界では、信じがたい現象が起きていた。校舎ほどの大きさがあった巨大スライムが、急速に水分を失ったようにしぼみ、ひび割れていく。


「中から……吸われている!? なんという……これが、先生の真の力……『暴食の権能』とでも言うのか……!」


 レオナルドが戦慄する、その時。

 バシュゥゥゥゥンッ!!


 完全に干からびた怪物の背中が、内側から食い破られた。

 噴き出す蒸気と共に、一人の男が飛び出す。地面に着地したのは、全身が青い粘液でヌルヌルに光る、眼鏡の中年男性。服は溶けかけ、髪はワカメのようにへばりつき、どう見ても変質者だ。


 だが、夕日を背に立ち上がるその姿を、生徒たちは後光が差しているかのように見上げていた。


「か、勝った……」

「あの化け物を、内側から食い尽くしたぞ!」


 歓声が上がる中、俺は人間としての骨格を再構築し、深く息を吐いた。


「……ふぅ。少々、カロリー過多ですね」


 その時だった。

 ゾクリ、と背筋に冷たい戦慄が走った。勝利の余韻など一瞬で吹き飛ぶほどの、圧倒的な「死」の予感。

 青かった空が、毒々しい茜色に染まっていた。上空を覆いつくすほどの巨大な魔法陣が、夕焼けよりも赤く輝いている。


「見つけたぞ、役立たずのゼクス」


 空から、聞き覚えのある傲慢な声が降ってきた。

 真紅のマントを羽織った赤髪の男――元魔王軍四天王『煉獄』のヴォルカが、残虐な笑みを浮かべていた。


「テメェがこんなぬるい学校で、スライム遊びに興じてると聞いたときは耳を疑ったぜ。魔王様もお怒りだ。『あいつの顔を見るのも飽きたから、痕跡ごと消してこい』とな」


 ヴォルカの手のひらで、太陽のごとき火球が膨れ上がる。

 俺一人を殺すために、この学園ごと焼き尽くす気だ。


「安心しろ。痛みを感じる暇もねえ」


 ヴォルカが高らかに詠唱を開始する。

 世界が終わる音がした。


「灰になれ! 極大魔法『終焉の焦土(メギド・フレア)』!!」


 上空の太陽が、落ちてくる。

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