第5話 警告はゴミ箱へ、死亡フラグは建設中

あれから数日。

 俺の完璧主義は、あの地獄絵図だった飼育小屋を、学園のモデルルーム並みに変貌させていた。


「よし、汚泥指数ゼロ。粘液残留率0.02%以下。悪臭レベルはほぼ無臭。完璧だ」


 俺は白衣にも似た清潔な作業着をまとい、ピカピカに磨き上げられた床を眺めて満足げに頷いた。


 スライムたちは色別に分けられた清潔な囲いの中で、俺が調合した栄養満点の餌を食べて、プルプルと幸せそうに震えている。


「いいか、お前たち。食後はちゃんと運動するんだぞ。メタボリック・スライムになったら承知しないからな」


「ぷるるー!」


 もはや完全に手懐けたスライムたちが、元気よく返事をする。


(……元魔王軍四天王が、スライムの健康管理に情熱を燃やす。シュールすぎる)


 だが、この地味すぎる研鑽が、俺のスキルを新たな領域へと押し上げているのも事実だった。


「よし、訓練の時間だ。3番、俺の顔面めがけて突っ込んでこい。殺す気でだ」


「ぷるきゅい!」


 指名された一匹が、喜び勇んで弾丸のように飛んでくる。

 俺はそれを避けもせず、ただ静かに待ち構えた。


(皮膚表面の魔力コーティングを展開。接触直前に粘性を最大化し、衝撃エネルギーを流体運動に変換……今だ!)


 ヌルンッ。


 高速で飛んできたスライムは、俺の頬に当たった瞬間、まるで石鹸の上を滑るように軌道を変え、俺の頭上を綺麗に飛び越えて背後の壁にぺちょりと張り付いた。

 俺の顔には、傷一つ、汚れ一つ付いていない。


「……まだまだだな。今の一撃、俺の首の骨が0.01ミリほど軋んだ。衝撃吸収率99.8%。目標は100%だ。次!」


 俺が地味すぎる研鑽に没頭していた、その時だった。


 ズゥン……。


 足元の地面から、低く、重い振動が伝わってきた。


「……ん?」


 囲いの中のスライムたちが、一斉に動きを止めた。さっきまでの元気はどこへやら、怯えるようにプルプルと震えながら、全員が一箇所に集まって塊になっていく。

 まるで、天敵の接近を察知した草食動物の群れのように。


 ドクン……。


 まただ。今度はもっとはっきりと聞こえる。

 まるで、巨大な心臓が地底深くで脈打っているかのような、不気味な鼓動。

 それと同時に、俺の『魔力感知』スキルが、とてつもなくおぞましい反応を捉えた。


(なんだ、これは……! この魔力の波長……貪欲で、飢えていて、ただひたすらに「喰らう」ことしか考えていない!)


 背筋に、氷を流し込まれたような悪寒が走った。

 この学園の真下で、災害級の厄ネタが目を覚まそうとしている。このまま放置すれば、数日と経たずに地上に現れ、この学園にいる豊富な魔力源――つまり、生徒たちを根こそぎ喰らい尽くすだろう。


「……クソが! なんで俺がこんな面倒事に!」


 俺は作業着を脱ぎ捨て、職員室へと全力で疾走した。



 円卓を囲むのは、この国の魔法教育を担う錚々たるメンバーだった。

 そんな荘厳な職員会議の末席に、泥とスライムの粘液が微かに香る男が一人。


(……帰りてぇ)


 周囲のエリート教師たちから向けられる視線は、もはや空気を見るそれですらない。高級レストランのスープに浮かんだ羽虫を見るような、生理的な嫌悪感を含んだものだ。


「……では次に、施設管理に関する報告事項だが……ゼクス君。何か、緊急の報告があるとか?」


 教頭が汚物を見るような目で俺を促す。


「はい。単刀直入に申し上げます。学園の敷地内、北校舎裏の地下深くに、極めて危険な魔力溜まりが発生しています」


 俺がそう切り出すと、会議室の空気が白けたものに変わった。


「観測された魔力波長は『捕食・消化』の特性を示しています。振動係数はマグニチュード・マナ換算で3.8。さらに、地下150メートル付近から、規則的な『脈動』が観測されました。これは自然現象ではなく、巨大な生物の心拍である可能性が高い」


 俺は言葉を区切り、円卓を見渡した。


「結論を言います。地下には封印された古代生物、あるいは変異種が潜伏しており、現在、急速に活性化しています。直ちに生徒を避難させ、討伐隊を編成すべきです」


 完璧な報告だ。魔王軍の作戦会議なら「即採用」レベルの的確さである。

 数秒の沈黙の後、嘲笑の波がドッと押し寄せてきた。


「あはははは! 地下に巨大生物? スライムのフンの掃除をしすぎて、ついに頭がやられたんじゃないか?」


「お言葉ですが、ゼクス君」


 教頭が憐れむような笑みを浮かべて、やれやれと首を振った。


「地下には初代学園長が設置した『絶対封印』が施されているのだよ。何者であろうと、そこから這い出ることはできん」


「その封印術式自体が、経年劣化で摩耗している可能性を指摘しているのです! 魔力漏出の数値を見てください! 0.005%の誤差が生じています!」


「0.005%? ハハハ! たかが誤差じゃないか! そんな微々たる数字で大騒ぎして避難勧告? 君は本当に、器が小さいねぇ!」


(誤差じゃねぇ! 結界術式において0.005%の綻びは、ダムに開いた穴と同じだぞ!?)


 俺が内心で絶叫していると、会議室の扉がノックもなしに開かれた。


「失礼します」


 現れたのは、黄金の髪をなびかせた学園のアイドル、レオナルド・フォン・ローゼンバーグだった。


「……なるほど、ゼクス先生がまた何か、珍妙な『芸』を披露していらっしゃったのですか?」


 レオナルドは俺の提示した資料を一瞥し、興味なさそうにテーブルへ放り投げた。


「先生。僕たちは忙しいんですよ。来週には王都での対抗戦が控えている。そのための訓練や、勝利のための戦略構築に時間を割きたいのです」


「だからこそ、足元の危機を――」


「危機なんて存在しない!」


 レオナルドが声を荒げ、ダンッ、とテーブルを叩いた。


「もし仮に何かが出たとしても、僕たち『黄金世代』と呼ばれる生徒会メンバーと、この優秀な先生方がいれば一捻りでしょう? 先生のように、泥遊びをして臆病風に吹かれている敗北者とは違うんです」


 レオナルドは俺を見下ろし、絶対零度のアイスピックのように冷たい声で続けた。


「根拠のない妄想で、僕たちエリートの貴重な時間を浪費するのはやめていただきたい。貴方の存在そのものが、この学園の品位を汚しているんですよ」


 会議室は再び爆笑に包まれた。

 俺は、拳を固く握りしめた。爪が食い込み、掌に血が滲む。


(……あぁ、そうかい)


 俺の中で、何かが完全に冷え切った。


「……承知いたしました。出過ぎた真似を、お詫び申し上げます」


 俺は深々と頭を下げ、逃げるように会議室を出た。



 廊下に出た瞬間、俺の表情から「人の良さそうな教師」の仮面が剥がれ落ちた。


「……クソが」


 俺は資料を丸め、ゴミ箱に叩き込んだ。


「どいつもこいつも、節穴ばかりか! 平和ボケもここまで来ると芸術だな!」


 廊下を早足で歩きながら、俺は独り言を吐き捨て続ける。


「0.005%の誤差を『たかが』だ? あのな、魔道工学においてその数値は『崩壊』と同義なんだよ! 橋の設計図で5ミリのズレがあったら作り直すだろ!? なんで結界だと無視するんだ馬鹿どもが!」


 ゴッ、と鈍い音がして、壁に蜘蛛の巣状のヒビが入る。俺は思わず、壁に拳を叩きつけていた。


「もう知らん! 俺は警告した! あとは勝手に滅びればいい!」


 そうだ。俺は魔族だ。人間共がどうなろうと知ったことではない。


 だが、脳裏に浮かぶのは、あの眼鏡の少女――リリィの顔だ。俺の魔法の本質に気付きかけた、数少ない「見込みのある」原石。そして、俺の指揮を信じ、命を預けてくれた、魔王軍時代の部下たちの顔。


「……チッ。これだから『先生』なんて柄じゃないんだよ……」


 俺は重い足取りで飼育小屋へと戻った。

 地面からは、相変わらず不気味な脈動が伝わってくる。昨日よりも確実に強くなっている。


「おい、スライムども。起きろ」


 俺が声をかけると、綺麗に整列していたスライムたちが、一斉にプルプルと震えてこちらを向いた。


「今日から特訓だ。餌の量を三倍に増やす。これから来る客は、少々行儀が悪いらしいからな。……俺たち底辺の意地、見せてやろうぜ」

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