第4話 泥まみれの研鑽と嫌な予感
授業という名の公開処刑が終わり、俺は足早に校舎裏の飼育小屋へと向かっていた。
胸に渦巻くのは、煮え滾るマグマのような屈辱感と、それを無理やり押し殺すための無力感だ。
(凡庸? 魂がない? ……ふざけるなよ、クソガキどもが!)
俺の『ファイアボール』がどれだけ洗練された芸術品か、あの節穴どもには未来永劫理解できんだろう。
だが、同時に思う。魔王も、ヴォルカも、教頭も、生徒も、誰も彼もが同じことを言う。もしかして、間違っているのは俺の方なのか?
(……いや、違う!)
俺は思考を振り払うように頭を振った。
俺は間違っていない。間違っているのは、本質を見抜けないこの世界の方だ。
そんな自己問答を繰り返しているうちに、例の小屋が見えてきた。
そして、鼻腔を突く異臭に、俺は思わず足を止める。
「……なんだ、この臭いは」
昨日までの、ただの淀んだ泥とアンモニアが混じった悪臭とは違う。
ツンと鼻を刺す強力な酸の臭いと、何かが腐敗し、溶けていくような甘ったるい死臭。
小屋の隙間から漏れ出す濃紫色の粘液が、地面のアスファルトをジュウジュウと音を立てて侵食していた。
(尋常じゃないな……)
長年の戦場で培った危機察知能力が、脳内でけたたましく警報を鳴らす。
俺は錆びついた鍵で扉を開け、中の惨状に言葉を失った。
「……なるほど。これはひどい」
小屋の中は、地獄の縮図だった。
床はヘドロで覆われ、壁には得体のしれないカビがびっしり。そして、本来いるべき囲いの中はもぬけの殻で、数十匹のスライムたちが天井や壁に張り付き、好き勝手に粘液を垂れ流している。
その光景を見た瞬間、俺の中で何かがプチンと切れた。
(……許さん)
俺は眼鏡の位置を中指で押し上げた。レンズの奥で、職人の瞳が怪しく光る。
(俺は完璧主義者だ。0.001%の魔力ロスすら許せない男だ。そんな俺のテリトリーに、これほどの「無秩序(カオス)」が存在すること……断じて容認できん!)
「おい、そこの軟体生物ども! さっさと自分の寝床に戻らんか!」
俺が怒鳴ると、スライムたちはプルプルと震え、蜘蛛の子を散らすように床のヘドロの上を滑りながら逃げ惑う。
「待て、こら!」
俺は一番近くにいた一匹に手を伸ばすが、ヌルリ、とその体表を滑り、全く掴むことができない。
(くそっ! この不定形生物め! イライラする!)
だが、その瞬間、俺の脳が冷静な分析を始めてしまう。
(待てよ……。今の動き、ただ滑っているだけじゃないな。粘液の膜厚を瞬時に変化させ、接触面の摩擦係数を限りなくゼロに近づけている。同時に、体内の核を不規則に移動させることで、重心を常に俺の予測軌道の外へ……)
一度気になり始めると、もうダメだった。
俺の職人気質の完璧主義の魂が、怒りよりも強く「解析したい」という欲求を叫び始める。
「――面白い」
俺はニヤリと口角を上げた。
スライムの動きが、俺の目には無数の数式とベクトルになって見え始めた。
「――そこだ」
俺は一歩踏み込み、スライムが次に移動するであろう予測地点――そのコンマ3秒先の未来へ、そっと手を差し出した。
逃げ惑っていたスライムは、俺の掌に自分から飛び込むような形で、ピタリと吸い付いた。
「よし、一匹目」
その時だった。
小屋の外から、冷ややかな声が降ってきたのは。
「うわぁ……。何あれ」
ハッと我に返り顔を上げると、そこには下校途中の生徒たちが数人、汚物を見るような目でこちらを見下ろしていた。
その中心には、またしてもあの金髪の貴公子、レオナルドがいる。
「レオ様、見てくださいよあの姿。泥だらけですよ」
「プッ、似合いすぎてて笑えるんですけどー」
取り巻きの女子生徒たちがクスクスと笑う。
レオナルドは優雅にハンカチで口元を抑え、憐れむように首を振った。
「見ちゃいけないよ。あれが『落ちぶれる』ということだ。才能を持たぬ者が、身の丈に合った場所へ行き着くと、ああなるんだよ」
(……聞こえてんぞ、クソガキども)
俺は内心で悪態をつきながら、ペコペコと腰の低い笑みを浮かべた。
「いやぁ、お恥ずかしいところを。掃除も仕事でしてねぇ、へへへ」
「ふん。まあ精々、泥水と仲良くやりたまえ。君には、その臭いがお似合いだ」
レオナルドたちは高笑いを残して去っていった。
再び獣臭い現実が戻ってくる。
「……ケッ。泥水だぁ? 分かってねぇな」
俺はブラシを地面に突き刺し、再びスライムに向き直った。
まずは床にこびりついた、あの濃紫色の粘液汚れだ。
俺はしゃがみ込み、汚れの魔力構造を解析する。
(なるほど。強力な酸性であると同時に、魔力分解の特性も持っているのか。……ならば)
俺は発想を転換した。汚れを「消す」のではなく、汚れの魔力構造そのものを「無力化」する。
自身の魔力を、汚れが放つ魔力波長と完全に「逆位相」の波長に変換し、薄い膜として床全体にコーティングした。
すると、濃紫色の汚れは、まるで最初からそこになかったかのように、スッと透明になって消えていった。
(ふん、完璧だ。これは使えるな。あらゆる属性攻撃を「無かったこと」にできる、究極の防御理論の雛形だ)
気分を良くした俺は、次にスライムの動きの解析に戻った。
「おい、次はタックルしてみろ。全力でだ」
「ぷるる!」
スライムが弾丸のように飛んでくる。
俺はそれを避けず、最小限の動きで受け流した。
(来る瞬間に、俺も体の表面の魔力を流体化させる……こうか!)
ヌルリ。
スライムの体当たりが、俺の腕を滑って背後へ逸らされる。作業着には汚れ一つ付かない。
完璧な『受け流し』だ。
(面白い! この『流体防御』、人間相手の剣撃や打撃にも応用できるぞ! 皮膚の表面に魔力で『ヌメリ』の層を作るだけで、あらゆる物理攻撃を無効化できる!)
俺は泥まみれの中に立ち尽くし、ブツブツと独り言を呟きながらニヤリと笑った。
だが、その興奮はすぐに冷水を浴びせられることになる。
この『流体防御』を突き詰めていくと、ある一つの究極的な結論(スキル)に辿り着いてしまうことに、俺は気づいてしまったのだ。
スライムの「打撃無効」や「不定形移動」を完璧に模倣するためには――。
(……俺自身の骨格を、消さなきゃならない)
想像してみる。
人の形を捨て、骨を溶かし、内臓をゲル状の魔力袋に置換する自分を。
グニャグニャで、ドロドロで、地面を這いずり回る俺の姿を。
「……嫌すぎる」
俺は頭を抱えた。
「確かに最強の防御性能かもしれんが……ビジュアルが最悪だ! 四天王としての威厳以前に、人間としての尊厳(プライド)が終わる! なんだその『軟体中年』って!」
ヴォルカに見られたら、一生笑いものにされるだろう。
(封印だ。このスキルツリーは封印する。俺はあくまで、スタイリッシュな魔法使いとして生きていくんだ……!)
そう固く心に誓い、俺は清掃作業を完了させた。
床はピカピカに磨き上げられ、スライムたちは色別に整列し、排泄物は完全に処理されている。
完璧だ。これぞプロの仕事。
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