第6話 剣聖の課題Ⅰ 剣聖ケンジール
――早朝。
村の入り口につながる崖道の奥から、年齢を感じさせないしっかりとした体つきの老人が歩いてきた。
雲のように白い頭髪と顎髭。腰には反りのある剣、背には使い込まれた旅の荷。ひと目でただの老人ではないと分かる。
「……先生!」
俺は声を上げ、道端から駆け寄った。
「ほっ、ほっ。お主も元気そうじゃのう」
老人は目を細め、白い顎髭をなでて笑う。
自らを『名もなき流浪の剣士』と呼ぶ人物だ。
俺が五歳のとき、この村に滞在していた彼から剣術を習ったのが始まりだった。
その後も年に一度か二度村を訪れ、課題の成果を確認すると新しい技を授けてくれる。
ショータたちからは『剣じぃ』の愛称で親しまれている。
あらゆる剣術に精通し、とりわけ双剣を学ぶパーコには懐かれていた。子どもたちの稽古もつけてくれるし、俺には次の課題を言い渡しては、いつも風のように去っていく。
俺にとっては、師であり、手本であり――そして、追いかけ続けたい背中だった。
――けれど今、胸の奥にある疑問を、どうしても確かめたかった。
「先生……以前、この村に来た人に言われたんです。俺の剣技が『シンケン流』に似ているって」
老人の瞳が、鋭くぎらりと光った。
「……ふむ。とうとう気づかれてしもうたか」
口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「先生……やっぱり、そうだったんですか?」
短い沈黙のあと、老人は深く息を吐いた。
「隠すつもりはなかったがの――そうじゃ。確かにワシは剣聖と呼ばれておる。名を、ケンジールと言う」
静かに告げられたその言葉に、風が止んだように思えた。
「……剣聖ケンジール」
村に出入りを許された行商人から何度も耳にした名だ。
王国最強と謳われ、十年に一度の剣聖祭で優勝しその称号を得た男。
危険な魔獣の討伐や盗賊団の壊滅など数々の武勇譚を残し、王都には数百人の門下生を抱える大道場を構えているという。
シンケン流は様々な剣や魔法に応じた技を備えながらも、その本質は〈身体強化〉を極限まで研ぎ澄ますことで到達した、人類最高峰の剣術体系だ。
俺はイマジンがないため、〈身体強化〉を扱えない。だが、持ち前の身体能力で補うことで、その流派の技の一端を習得できたのだろう。
――その流派こそ、シンケン流だったということだ。
ただ者ではないと思っていた。けれど、そんな流派の創始者が、この辺境の小さな村で俺に剣を教えていたとは。
「ワシは剣に生き、剣に死ぬ男よ。名や肩書などどうでもよい。だが……お主の足さばき、呼吸の間合い、〈身体強化〉が使えずとも確かにシンケン流じゃ。さすがに、ある程度の実力者が見れば流派はわかろうな」
その声には確固たる威厳があった。
「のう、お主。ひとつどうじゃ?」
剣聖は俺の目を真っ直ぐ見据えた。
「王都に来んか。ワシの道場で一番弟子として、ほかの者に剣を教えてくれんかのう。正式にワシの後継者として、お主を迎えたい」
思いがけない誘いだった。
剣聖の後継者――それは剣士にとって最高の名誉だ。王国中の剣士が憧れる地位。そこに立てるなら、俺の人生は一変するだろう。
だが、俺は静かに首を振る。
「……せっかくの誘いなのに申し訳ありません。でも、俺にはこの村があります。守るべき人を置いてはいけません」
「ほぉ……やはりそうか」
剣聖は目を細め、やがて大きく笑った。
「ほっ、ほっ! よいのう。ワシの門下はみな己のために剣を振るう。だが、お主は誰かを守るために振るっておる。――それもまた一つの剣の形よ、実に面白い……。でも、惜しいのう……」
寂しそうに言うと、剣聖は腰の剣を直し、こちらに背を向けた。
「ワシはこれから大森林に入る。魔獣の調査をボーダルの奴から頼まれてな」
「辺境伯に……。お一人で行くんですか?」
「当然じゃ。老骨といえど、まだ腕は鈍っちゃおらん。それにお主は、ここを守るんじゃろ?」
そして剣の柄を軽く叩き、ふと思い出したように振り返った。
「おっと……そうじゃ、数日後にワシの門下生二人がここへ来る。村長にも許可を取ってある。王立学院の二年生、お主の一つ下じゃ。互いに刺激になろうし、村の子どもたちと一緒に稽古をつけてやってくれ」
「門下生、ですか」
「うむ。貴族の子息だが、稽古熱心で才もある。だが、ある敗北が原因で、ふたりとも稽古にも身が入らず、迷いを抱えたままになっておる。ワシもしばらく王都を留守にしておってな、ここに来る途中で文を受け取り、ようやくその事を知った」
俺は黙って頷き、先生の話の続きを待った。
「王都には『悪童』と呼ばれる若手最強の剣士がおる」
剣聖の表情が、わずかに曇った。
「粗暴で、相手を罵倒し、なぶることを楽しむような手合いじゃ。だが、その実力は本物でな。同世代に敵う者はおらん。先日行われた学院対抗の武闘祭で二人は悪童の横暴に義憤を燃やして勝ち進み、決勝まで辿り着いた。取り巻きを次々と倒し、二対一にまで追い込みながらも……最後は、圧倒的な力の差を見せつけられて敗れた」
剣聖は白い髭をゆっくり撫でた。
「心を折られてしもうたのじゃ。あれほど正義感に燃えておった二人が、今では目に光を失っておる」
先生の声には、珍しく苦さが滲んでいた。
「――田舎で汗を流し、土を踏み、見知らぬ者と交わることが解決するきっかけとなるやもしれん。ワシが大森林から戻るまで、しばらくかかる。その間、お主に託したい。これは課題でもあり、依頼でもある。もし二人に立ち直るきっかけを与えてくれたなら、それ相応の礼を約束しよう」
胸の奥に重く響くものを感じながら、俺は静かに頷いた。
断る理由などどこにもなかったし、なにより先生からの『依頼』とあらばなおさらだ。
「……わかりました。やってみます」
「ほっほ、そうこなくてはな」
先生は満足げに目を細める。
そして、ふと思い出したように背を向けながら言葉を添える。
「……ああ、それと。今回でワシが教えられることは最後となる。お主への課題の確認は、ワシが大森林から戻ってからじゃ。楽しみにしておるぞ」
最後に、剣聖は振り返って穏やかに微笑んだ。
「お主はよい弟子じゃった。誇りに思うぞ」
俺は言葉が出なかった。ただ、深く頭を下げる。
「――では!」
それだけ告げると、白髪の背は悠然と大森林の奥へと消えていった。
残された俺は、深く息を吐く。
先生の言葉はいつだって重い。門下生二人――貴族の子息というだけでも気が重いのに、心に傷を抱えたまま来るとなればなおさらだ。
それでも、俺にできることがあるのなら。
村を守る剣と同じように、誰かを導く剣を振るうこともまた、俺の役目なのかもしれない。
◇
――数日後。
村の入り口に俺と村長、ショータたちが並ぶと、崖路の下から王都の客人が姿を現した。
最初に見えてきたのは、短い赤髪を逆立てた少年だった。
背筋は真っ直ぐ、締まった体つきに剣士らしい気配がある。腰には立派な剣を帯び、その動作には隙がない。だが――その瞳にはどこか冷めた光が宿っていた。
続いて現れたのは、薄い青色の髪を中心で分けた少年。
耳のあたりで髪がはね、無造作に揺れる。同じく鍛えられた体格をしているが、うつむき加減で言葉を発しようとしない。その表情には、何かを諦めたような影が落ちていた。
「「「うっ……」」」
子どもたちが、思わず後ずさった。
ショータが俺の服の裾を掴む。パーコとリーロも緊張した面持ちで二人を見つめている。
二人とも隠しようのない気品を纏っており、まぎれもなく貴族の出だった。
その雰囲気は田舎の村とは異質で、まるで別世界から来た者のようだった。
最後に三人目の姿が見えた。
けばけばしい色の服をまとった、派手な男だ。
金髪を前髪ぱっつんに切り揃え、濃い化粧を施した顔。手には扇を持ち、腰をひねりながら降りてくる。
そして――。
「オ~ッホホホホホ!」
場違いな高笑いが村に響き渡った。
「これが、ド・田舎の――土の匂い! これぞ素朴な暮らしってやつね」
男は扇をパタパタと揺らしながら、大げさな仕草で周囲を見回す。
「わたくしは剣聖ケンジール様の代理、シンケン流師範代のアドレナ。アドレナ・ド・ドパミンよ! ド・田舎の皆さん、ごきげんよう~!」
……誰もが言葉を失った。
村長が呆れ顔で俺を見る。俺も思わず額に手を当てた。
「(……なんか、聞いてるだけで元気になりそうな名前だぜ)」
パーコが小声で呟く。
「(ドがいっぱいなの。ドパドパなの)」
リーロも困惑した様子だ。
ショータは俺の服を握る手に力を込めている。
「……ケンジール様、弟子が二人だけって言ってたはずなんだけど……」
村長がため息交じりに言う。
アドレナは得意げに腕を組み、弟子二人を背後に従えた。
「さあ、わたくしの
俺は静かにため息をついた。
(先生は知らないな、これは……)
弟子二人は無言のまま、アドレナの後ろで無表情に立っている。
アドレナは弟子二人に向き直り、扇で二人を指し示した。
「さあ、あなたたちもド・田舎の人たちに自己紹介なさい!」
逆立った赤髪の少年は、不機嫌そうに名を名乗った。
「……イグナス。イグナス・モン・サウゼルだ」
薄い青色の髪の少年は消え入りそうな声で「……ユリウス。ユリウス・モン・ノーゼル」とだけ言い、再び目を伏せて足元を見つめた。
都会の匂いを纏った三人組。
田舎の村に、異物が投げ込まれた瞬間だった。
「……なんだよ、あの態度」
パーコがむっとした声を漏らす。
「なんか……感じ悪いの」
リーロも不満げだ。
「兄さん……」
ショータは不安そうに俺を見上げる。
俺はショータの頭に手を置き、軽く撫でた。
「大丈夫だ。任せておけ」
「面倒なことになりそうだね……」
村長は額に汗を浮かべながら言った。
俺は静かに頷き、胸の奥に広がる嫌な予感を噛みしめた。
村の日常は、大きく揺れようとしていた。
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