第6話:雨夜、黒竜は山を越えた

 山脈が近づくころ、視界の端を黒い影が横切った。

 翼が三つ、四つ、十……いや、群れごと。


「うわ、"山越え燕"の渡り……!」


 とっさに速度を落とし、足元の"空路"を細かく組み替える。

 高度を一段下げて、群れの層を避けようとした――


 ――が、向こうもこちらの風の筋を掴んだらしい。

 燕たちは綺麗なV字を描き、そのまま背後に張りついた。


 ……かわいいけど、めちゃくちゃ邪魔!


「んんんんんっ!?」


 彼女(口布中)が呻く。


「頭下げてください! 右へ旋回しますっ!」


 身体を傾け、風の層を斜めに滑る。

 群れが外へ流れて――いったかと思えば、一羽だけ肩にぴとっ。


「いや近い! かわいいけど近い!!」


 つぶらな黒い瞳がこちらをじーっ。

 息が跳ねる。心臓も跳ねる。なんだこの距離。

 

 そのとき、横合いから白い大きな影。

 伝書ペリカンの《クー》が滑るように並走し、翼を二度叩いて〈航路注意〉を送ってきた。


「お疲れさまです、クーさん! 優先路どうぞ!」


 クーは翼で返礼し、街道側へ滑空していく。

 鳥だけど人間の言葉がちゃんとわかる。誰かの使い魔なんじゃないかって噂もあるけど真相は不明。

 ほんと律儀で、推せる。


「非番の日は、こうして飛んでるだけで楽しいんですよ。……あ、いえ、今日は仕事ですけど」


 返事はない。

 けれど、背中の強張りが少しだけほどけた気がした。


「……って、わ、乱気流!」


 山肌から吹き上げる突風に身体ごと弾かれる。

 反射で空路を二歩踏み替え、再構成。


「掴まって!」


 ぎゅ、とマントの端をつかむ手に、力がこもる。 

 姿勢を落とし、空路を一段、二段、続けて更新。

 風の芯を外し、ようやく水平へ戻す。


「ふぅ……すみません。ここ、山間なので風が悪くて」


 背中で小さく息が漏れた。


 ふと見ると、西の空が灰色に沈んでいた。

 稜線が霞む。木々の匂いが重い。


 稜線の色がぼやけたら十中八九、雨。

 木々の匂いが重くなったら、雷。

 そして鳥の群れが慌てて高度を変えたら……嵐。


「……天気、崩れますね」


 進路を斜めに落とし、尾根の陰へ滑り込む。

 古びた監視小屋が、岩にしがみつくように残っていた。


「今夜はここで一泊しましょう。朝になれば、きっと晴れます」


 その温度を背中で感じながら、

 私は、そっと息を吐いた。


 ――雨の気配が、すぐそこまで来ていた。



 ♢ ♢



  ほこりの匂いと湿った木の匂い。壁の隙間から冷たい風が入り込み、火打ち石の音が小さく弾けた。


 起こした火で、少しだけ濡れた荷を乾かしながら毛布を掛ける。

 湯を沸かして水筒を差し出すと、彼女は慎重にそれを受け取り、目を細めて一口だけ飲んだ。


「……あなた、一人でよくここまで」


「運ぶのは、慣れてますから」


「人も?」


「人は、今日が初めてです」


 彼女の唇が、わずかに吊り上がった。

 それが笑みなのか、呆れなのかは分からない。


「それと、私の名前は"あなた"じゃなくて、カナタ、です!」


 外の雨脚が強くなる。屋根を叩く音に、胸の鼓動が自然と重なった。


「じゃあ、カ……あなたの最初の“荷物”は私ってわけね」


 (今、一瞬言いかけたのに!?) 


「荷物って言い方はアレですが……えっと、“特別便”です!」


 慌てて訂正すると、彼女は小さく肩を揺らした。

 ……あ、今の、笑った? いや、まさか。


「……変わった生き方ね。どうして“飛脚”なんて?」


「十歳のときに授かったスキルが“飛脚”だったんです。適性は“運搬”。……だから運ぶことにしました。ようやく最近、ちゃんと仕事にしたんです」


「……」


 彼女は少し黙り、火のゆらめきを見つめた。

 炎の赤が、金の髪を細い糸のように照らしている。


「母は、病で。私が八歳のときに亡くなりました。父は……行方不明です。生きてるかどうかも分からなくて」


「行方不明……」


「はい、母さんが亡くなる前にどこかに出かけてそれっきり、です。それからはエレノアが――えっと、お母さんの弟子だった人なんですけど、その人がずっと面倒を見てくれました」


 雨が、屋根を叩いていた。

 ぱちり、と火の粉が跳ねる。


「お母さんが言ってたんです。"カナタも、いつかキラキラ出来る"って。だから、せめて誰かを“届ける人”になろうって」


 彼女は目を逸らした。

 火がまた、ぱち、と鳴る。

 沈黙が、ゆっくりと部屋を満たしていく。

 

「……気にならないの?」


 低い声だった。

 少し間を置いてから、私は顔を上げる。


「え?」


「私が、なぜヴァレオラへ行こうとしているのか。なぜ“届けろ”なんて言ったのか」


 真っ直ぐな視線。

 その奥にあるものは、怒りでも悲しみでもない。試すような、静かな問いだった。


 私は息をのみ、そして笑った。


「気になりますよ。めちゃくちゃ気になります」


 彼女の眉が、かすかに動く。

 でも私は続けた。


「でも……言いたくなさそうですし。だから、無理には聞きません」


「……どうして」


「だって、私は“飛脚”ですから! 信じるかどうかより、まず“届ける”ほうが先です」


 その言葉に、炎の明かりが彼女の瞳を照らした。

 氷のようだった色が、ほんの少しだけ解けたような気がした。


「……ほんと、変な子ね、あなた」


「よく言われます」


 苦笑すると、彼女は目を伏せ、もう何も言わなかった。

 火がまた、ぱちりと音を立てる。


 私は炎を見つめながら、心の中で呟く。


 (たぶん、この人には故郷に帰りたいというだけの、“普通ならざる理由”があるんだ)

 私の中で、そういう確信が静かに膨らんでいった。それを聞ける日が来たら、それこそ本当の“特別便”になるんじゃないかって──そんな気がした。


「で、でも、名前くらいは教えてほしいです!」


「関係ないでしょ。運ぶことと、私の名前は」


「……ですよね。えへへ」


 火が小さくはぜる。

 それだけが、私たちをあたためていた。

 

 明日の明け方には出発。余計なこと考えてないで、今は体力を残しておくためにも、ゆっくり休もう――。



   ♢ ♢ 



 どれくらい経っただろうか。瞼が重くなり、寝息が聞こえ始めたころ──

 大地が裂けるような轟音が、夜を引きちぎった。


 ドドドンッ。

 

 椅子がひとつ跳ね、壁が低く震える。

 炎が細くゆらぎ、谷を撫でるように重たい風が吹き抜けた。


 (今の音……落雷じゃない)


 胸の奥で、なにか黒いものがざわりと動く。

 窓の隙間から外をのぞくと、雨越しの闇に“巨大な影”が稜線を切り裂いていた。


 尾。鱗。

 山肌をぬめるように滑る、不気味な黒の軌跡。


「……黒竜だ」


 その名を口にした瞬間、喉がひりついた。

 ここで竜を見たなんて、聞いたことがない。


 竜の出没地帯はもっと東――ヴァレオラ高嶺の向こう側。

 ここに現れるなんて、ありえない。

 なのに。

 なのに、目の前にいる。


 雨の中、黒い影がゆっくりと旋回する。

 世界を削り取るような軌跡で、音もなく。


 横を見ると、彼女の肩が小刻みに震えていた。

 

「なんで……嘘、なんで――」

 

 その声が消え入りそうだった。

 私は反射的に布をつかんで窓を覆い、光と匂いを出来るだけ遮断する。


 黒竜は雨の中、鼻先をわずかに動かす。

 獣が“確かめる”ような仕草。

 見つかったら――終わる。


 胸の奥がぎゅっと縮まる。

 怖い。逃げたい。

 足の震えが止まらない。


 けれど。


 横の彼女を見た瞬間、息が詰まった。


 手は白くなるほど握り締め、噛み締めた唇が震えている。

 ただの恐怖じゃない。もっと深い……“痛み”に似た震えだった。


(この竜と、この人の間には……何かある)


 嫌な予感が背骨をつたい、心臓を冷たく撫でた。


 逃げろ、と。

 理性も本能もそう言っていた。


 ……なのに。


 気づけば、私は立ち上がっていた。


「……陽動してきます。だから、ここにいてください」


 自分の声が、自分のものじゃないみたいに震えていた。


 手首を掴まれる。

 振り向くと、彼女が泣きそうな顔で、必死に首を振っていた。

 

「だめ……! 死ぬわ! あの竜は……あれは……っ!」


「大丈夫。逃げるのだけは得意ですから」


 無理に笑って、極力自然に「ふんす」と、小さく拳を握って見せた。

 

「気を引いて、遠ざけるだけです」


「お願い……やめて……もう、誰にも……死んでほしくないの……」


 その瞳が、不安そうに、今にも泣きそうなほど揺れていた。

 炎の光を受けて、宝石みたいにキラキラと輝いて――


「……もしかして、心配してくれてるんですか?」


 反射的に茶化してしまったけれど、返事はなかった。

 雨音と、火のはぜる音だけが響く。


「死にません。約束しますから」


 そう言って、私は扉を押し開けた。

 冷たい雨が頬を叩く。夜気が肺に刺さる。


 空路を一段編んで、魔法ランタンだけを掲げて闇へ跳んだ。


 大丈夫。逃げる練習なら昔、少しだけやったことあるし。

 でも――竜を相手にするのは、もちろん初めてだ。


 ……怖い。

 足が震えてるのが分かる。

 でも躊躇したら、その一瞬で全部終わる。

 やってやる――しかない!

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2025年12月20日 07:40

「飛脚」スキルで、何処でも何でも届けます!――でも人間だけは聞いてません(;´Д`) 瑛狛 @Eikoma

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