第3話:助けたいなんて、ほんとは言える立場じゃないのに


 外れかけた『飛脚便』の看板をしっかりと掛けなおす。

 

「……よし!」

 

 朝の風が頬を撫でる。昨日の夕方と同じ場所なのに、空はこんなにも澄んでいる。

 あんなに泣いた夜が嘘みたいだ。


 こんなにいい天気なのに、下を向いててもしょうがない。

 それに、私ももう十五歳。ちょっとは大人にならなきゃ。


「上を向いて、元気にいこー!!」


 気分を上げるため、今日はいつもより高く飛ぶことにした。

 ひらひらと流れる雲を追いかけ、風を切る。そんな他愛のないことなのに、心が少しだけ軽くなる。


 眼下に広がるレーンベルの町並み。

 市場のざわめき、馬車の軋む音、商人の呼び声、子どもたちの笑い声――お祭りみたいに騒がしいこの街もいつも通り。

 ただ、今日はその喧騒の中に……不自然な「渦」が見えた。


「……いや、今日はさすがに遅れるわけにはいかないから。私よ」


 昨日、あんなに怒られたばかりじゃないか。

 いくら母さんが『人助けはするものよ、カナタ』なんて言ってたとしても、今日ばかりは……。


 フードを深く被った一人の人物……たぶん女性。

 明らかに、誰かに追われている。

 

「見なかったことにします……!」

 

 ――と言いたいところだけれど、

 

 唇を噛んで葛藤した末、私の足は……自然に地上に向かっていた。

 空路を蹴り、急降下。

 

 ――あぁ、もう。


「また余計なこと、しちゃってる……」


 そんな自分自身に呆れながら、真っ逆さまに降りていく。


 上空では見渡せるだけだった市場の喧騒が、近づくごとに音の壁みたいに押し寄せてきた。荷車の軋む音。威勢のいい売り声、値切り合戦の叫び。笑い声と怒鳴り声と、楽器の音まで混ざっている。

 音も匂いも視界も、すべてがごちゃ混ぜだ。汗と香辛料の匂いが熱気に乗って渦を巻き、鼻腔を突く。立ち並ぶ屋台の布がはためき、視界までもがざらつくように濁って見えた。


 その雑踏の中を、フードを被った人物がすり抜けていく。

 その遥か後ろには、黒づくめの男たちが数人、執拗に追いすがるように見えた。


 ……でも、街の人たちは気づいていない。

 いや、気づけるわけがない。

 この密集、この喧騒、この匂い――視覚も聴覚もごちゃ混ぜで、世界そのものがざらついている。


「盗賊……? いや、でもあの服……どこかで……」


 ふと、昨日の朝の記憶が蘇る。

 ボタンを拾ったときに見かけた、あの人物。

 ……あれと、同じ服だったような――。

 

 人混みを抜け、やがて人影がまばらになる。赤茶けた石畳の先には――時計塔。

 レーンベルを象徴する建造物で、子どもの頃から見てきたけれど……中がどうなっているのか、私は知らない。

 

 その重厚な扉を、フードの人物が勢いよく押し開け、内部へと駆け込んだ。


 ……でもこの先は袋小路だ。逃げ込んだら、追っ手に囲まれて終わり。


「あちゃ〜……」

 

 ドン、ドン、と黒づくめの男たちが扉を叩く。

 鈍い音が辺りに響き、いつ破られてもおかしくない緊張感が走った。

 

「……ほんとに、余計なことしかしないなぁ、私」


 そう呟きながらも、放ってはおけなかった。

 息を整え、足元に“空路”を編む。そこを蹴って――ふわりと屋根の上に着地。


 屋根瓦が足音にカン、カンと乾いた音を返す。重厚な壁、縦長の窓。ガラス越しに差し込む陽光が、塔の外皮を細く切り裂くみたいにきらめいていた。


 すぐ脇に、人ひとりがやっと通れるくらいの通風孔――あるいは鳴りを外へ響かせるための穴。

 身体を横にして、埃の匂いのする隙間へ身を滑り込ませる。

 

 ……うわ、埃まみれ。誰も通らないよね、こんなところ。

 ――私くらいだ、空から入れるのなんて。

 

 薄闇に目が慣れる。

 巨大な歯車と鎖、重錘の柱が縦横に走り、ひとつひとつが脈打つみたいに微かに震えている。鉄が擦れる音が塔全体に反響して、私の鼓動まで勝手に早くなっていく。


 梁から梁へ、“空路”を編みながら一気に駆け上がる。

 足裏が触れるたび、宙に編んだ星の路がきらりと弾け、見えない糸が空間を縫っていく――私だけの軌道。


 ――ゴーン、ゴーン。


 鐘の音が腹の底まで響き、塔全体がびりびりと震えた。

 薄暗い螺旋階段を抜け、最後の梁を蹴った瞬間――視界が一気に開ける。


 そこに、いた。


 窓の縁。外の街並みを見下ろすように、フードを深くかぶった少女が立っていた。

 風が吹き抜け、外套がはためく。足先は……もう、空へと向けられている。


「やめ――!」


 反射的に空路を蹴って飛びつき、背後から彼女の身体を抱きかかえる。

 強い風と重力が、二人まとめて外へ引きずろうとした。


「離して!」


「離したら……落ちますよっ!」


 即座に脚下へ星を組み、思いきり踏み鳴らした。

 空路が弾ける――瞬間、身体が逆方向に弾き飛ばされる。

 

「――どっせい!」

 

 思わず声が出た。

 勢いそのまま、彼女を内側へと放り投げる。軌道は完璧。ガラス窓を割ることなく、彼女の身体は鐘楼内へと吸い込まれるように滑り込んでいった。


 続けて私も、星を踏みながら半回転。

 逆さまに塔内へと飛び込み、肩から床に転がり込む――


 カシャン、と金属音。彼女の細剣が床を滑って跳ねた。


 肩で息をする彼女と、埃まみれの床にうつ伏せになった私。

 鐘の音だけが響く空間に、妙な静けさが満ちていた。


 あ、危なかった。ほんとに、間一髪。

 息を整えながら、思わず声が出る。


(;´Д`)「あ、あの~……ダイジョブ、ですか?」

 

 内心ビビりながら声をかけると、彼女がびくりと顔を上げた。

怯えた瞳が、まっすぐこっちを射抜く。逆光の縁で陽光を受けた金の髪が、埃舞う空気の中できらりと輝いた――その一瞬、時間が止まったみたいだった。

 

 綺麗。人形みたいな瞳。……いや、今はそれどころじゃない!


 宙からすっと降り、膝をついて目線を合わせ、そっと手を差し伸べ――

 

「近づくな!」

 

 細剣が閃いて喉元すれすれで止まった。

 あ、危ない……! でも本気だ。敵と思われてる。


「くそっ....どこから....!」


「て、敵じゃないでしゅ! あなたが何に追われてるか知りませんが、とにかく敵じゃない、です……あはは……」

 

 両手をぶんぶん振ってニコッと笑顔――のつもり。でも普段笑わないし……多分引きつってるかも!

 警戒心むき出しの怪訝な瞳にたじろぐ。でも、逃げるつもりなんてない。


「信用、できないですよね……。私、カナタって言います。"飛脚"のカナタ。荷物を届けるのが仕事で、人を傷つけたりとかは……しません!」


 足元に“空路”を一段だけ編んでみせる。

 宙に浮かぶ星がきらりと煌めいた。

 

「ほら、こんな感じで……空を、ちょっとだけ歩けるんです。上からあなたが困ってるのが見えて――おせっかい、しに来ました。えへへ」


 彼女の瞳がわずかに揺れた。

 階下から扉をこじ開けようとする音が響く。時間がない。


「気味が悪いわね……さっさと消えてくれるかしら」


「で……ですよね、よく言われます。気味が悪いとか、役立たずとか……あはは……」

 

 胸の奥がちくりと疼く。でも言葉を飲み込まない。


「でも、誰かに必要とされるなら――私は絶対に逃げません!」

 

「必要……? 私は、助けなんて求めていない」

 

「それ、……ほんとに本心ですか?」


 言い切ってから、はっとした。

 

「あ、あの……すみません。出しゃばった真似を……でも、だったら――どうして、そんなに寂しそうな目をするんですか」


 剣先が、ほんのわずかに揺れた。


「……わかるんです。私も、そうだったから」

「誰も信じられなくて、何も信じたくなくて……助けなんて、いらないって顔して」

「でも、本当は――心の奥で、誰かに止めてほしくて……!」


 一瞬だけ、沈黙が落ちた。

 私の鼓動だけが、鐘の音と一緒に高鳴る。

 

「信用も信頼もいりません。でも……!」


 それは――命がけの、わがままだった。


「あなたの命がここで終わるのを、見過ごせないんです!」

 

 ……でも、それが私の全部だった。


 一瞬、剣先が震えた。彼女の視線がほどける。

 ――その、ほんのわずかな揺らぎで十分だった。


 私は彼女の手首をぐっと掴み、引き寄せる。驚きに目を見開いた彼女が息を呑む。

 その瞬間――


 塔の下で、重い扉が破られる轟音が鳴り響いた。

 同時に、私は"空路"を高速で紡ぐ。踊り場から壁の縁、縦長窓の外枠へと、星の光を一直線につなぐ。


「しっかり掴まっててください!」


 窓枠を蹴った。風が顔を叩き、視界がぐるりと反転する。

 胸の前で、彼女の鼓動が跳ねた。


 私たちは、朝焼けの空へ――風を切って飛び出した。

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