第46話 離間の計
月が、薄い雲の切れ間から顔をのぞかせていた。
狗奴国、大殿の裏庭。
昼間は雑役や馬の声でうるさいこの場所も、今はしんと静まり返っていた。
古い井戸と物置小屋がいくつか。土壁はところどころ剝がれ、草がひょろりと生えている。
その闇の端に、ナシリは身を潜めていた。
土壁の陰に背を預け、腰を落とす。
湿った土の匂いが鼻を刺した。
指先で触れる地面は冷たく、混じった小石が骨にひびく。
(……来たな)
息を殺し、気配を読む。
風が草を揺らす音の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
最初に現れたのは、革胴姿の大男だった。
新将軍、イサヒ――
日に焼けた腕には古傷が走り、歩くたびに腰の剣がわずかに鳴る。
その後ろを、武器を持った私兵たちが、影のように散っていく。
少し間を置いて、太鼓腹の男。
倉頭、ハマル――
軽装だが、背には護衛がぴったりと付き従っている。
一本の松明の火が、丸い顔を赤く照らし、額の汗をきらりと光らせた。
最後に、白い衣を揺らして、ひょろりと背の高い男が歩み出る。
祭祀長、アマヂ――
細い腕に骨の輪を絡め、静かに裏庭の中央へ進んでいく。
後ろには、祭祀を守る武人たちが、無言のまま控えていた。
三人が、月明かりの中で向かい合う。
地面に伸びた影同士が、絡み合った。
「……やはり来たか。これでお前の仕業だとはっきりしたな」
イサヒが低い声で言い放つ。
「そちらこそ」
ハマルが、脂の乗った頬をわずかにゆがめた。
「私をおびき出そうとした罠が、見事に実ったわけですな」
「罠だと?」
イサヒの眉が吊り上がる。
「倉の穀を渋り、兵を飢えさせただけじゃ足りずに、この俺の首まで狙うとはな。大した売国奴だ、ハマル」
「それはこちらの台詞ですぞ、将軍殿」
ハマルは、帯にさがった木札を指でなぞりながら、くつくつと笑う。
「倉にこそこそ押し入ったのは誰か。城下では『兵が穀を盗んだ』という噂で持ちきりです」
「……ふたりとも、いい加減になさるがよい」
アマヂが一歩前へ出た。
骨の腕輪が、からり、と静かに鳴る。
「穀を隠し、戦を私物化する者は、誰であれ神の怒りを買う。今宵ここで、真実を白日の下にさらしましょうぞ」
「それは面白い」
イサヒが、せせら笑う。
「神を騙って好き勝手してきたお前の罪も、一緒に明らかになるだろうな、アマヂ」
「何だと……!」
アマヂの目が細くなり、声に怒気がにじむ。
「神を恐れぬ不届き者め!」
三者三様の声が、湿った夜気の中でぶつかり合う。
互いの私兵も、じり、と一歩ずつ間合いを詰めていった。
(いい火種だ)
ナシリは闇の中で、その光景をじっと見つめていた。
月明かりが、三人の顔に刻まれた亀裂を照らす。
怒り、不信、侮蔑。
それぞれが違う炎を、胸の奥で燃やしている。
「戦の邪魔をする腰抜けなど、この国にはいらん」
イサヒが吐き捨てる。
「剣しか知らぬ愚か者が、国を食いつぶすのです」
ハマルが笑い返す。
「神の御前での不敬、決して許されませぬぞ!」
アマヂの声が、ひときわ高く響く。
その瞬間。
ナシリは、ほんのわずかに顎を動かした。
合図だ。
闇に溶けていた衛士のひとりが、小石を指先でつまみ、地面すれすれの高さから軽く弾く。
石は闇を切り裂き、小さな弧を描いて飛んだ。
ヒュッ――
次の瞬間。
乾いた音とともに、それはアマヂ側の護衛の頬をかすめた。
「っ……!」
熱と痛みが走る。
反射的に、男は剣を抜いた。
闇へ向けて振り上げた刃。
その軌道の先に、イサヒ側の兵がいた。
ザシュッ。
肉を裂く感触。
血が飛び、赤い筋が月光の下で弧を描いた。
「おのれ……! やりやがったな!」
イサヒの怒号が、夜を裂く。
抜かれる刃。
倉付きの兵が叫び、アマヂの護衛が応じる。
キィン――!
剣と剣がぶつかり合う、耳障りな金属音。
踏みしめられた土が跳ね、泥が飛び散る。
血と汗と鉄の匂いが、一気に裏庭を満たした。
「イサヒ! この場で我が穀を汚した罪、償ってもらいましょう!」
「笑わせるなよ、豚。先に刃を振ったのはそっちだろうが!」
「神の場を血で汚すとは……恐れを知らぬ者どもめ!」
ドシャッ! ガキィン! グシャッ!
怒号と悲鳴が錯綜する。
肩を斬られた男が崩れ落ち、誰かがその体を踏み越えていく。
松明が一本倒れ、火の粉が乾いた藁に散った。
ナシリは土壁の陰から、そっと一歩だけ下がった。
視界の端で、血煙が薄く立ちのぼる。
「……始まったな」
夜風が、頬をなでる。
「あとは、テメェらで勝手に殺し合え」
――そこに至るまでに、まだ二日しかたっていない。
ほんの二日のあいだに、何があったのか。
ナシリは、湿った土の感触を足裏に感じながら、静かに思い返した。
* * *
二日前の夜。
人の気配の少ない一角。
畑と荒れ地の境目に、屋根の抜けた廃屋がぽつんと立っている。
土壁はあちこち崩れ、竹が突き出していた。
潜伏には、うってつけだ。
「……ここでいい」
廃屋の奥に足を踏み入れる。
土間には乾いた藁が積まれ、獣と古い煙の匂いが混ざっていた。
松明を一本灯すと、ゆらゆら揺れる光が壁を走り、衛士たちの顔を照らし出す。
煤で汚した頬、粗末な麻衣。
狗奴国の民に扮した姿のまま、皆が静かに片膝をついていた。
ナシリは土壁に背を預け、腕を組む。
「よし。順番に報告しろ」
「はっ」
一人目の衛士が進み出る。
「イサヒ配下の兵は、不満だらけでした」
低い声だが、興奮が混じっている。
「『ハマルが兵糧を出し惜しみしている』『腹が減っては戦えるか』と。酒の席で、イサヒ本人も『あの豚が戦を邪魔している』と……」
ナシリは目を細めた。
思ったとおりだ。
二人目が続く。
「祭祀場では、アマヂが供物の少なさに怒っていました」
衛士は慎重に言葉を選びながら続ける。
「『神の怒りを恐れぬ輩よ』と、はっきりハマルの名を出していました」
松明が、ぱちりと弾けた。
ナシリは口の端を、わずかに上げる。
三人目が前へ。
「市では、商人たちの間で、ハマルが『イサヒの戦が穀を食いつぶす』とこぼしていました。また……」
衛士は一拍置いた。
「民の間では『祭祀が続いて倉が空になる』という噂も出始めています」
廃屋に静けさが落ちる。
三者三様。
互いに互いを疎んでいるのが、言葉の端々から十分に伝わってきた。
「軍、祀、倉」
ナシリは、低くつぶやく。
「狗奴国を支えてる三つの柱が、不安定ということだな」
衛士たちの目に、緊張と期待が灯る。
「だったらこっちは、倒れやすい方から押してやればいい」
ナシリは足元の藁を指先でつまみ、弾いた。
「鍵は兵糧だ」
短く言い切る。
「明け方前に、ハマルの倉を狙う。足跡と草履の縄の結び方を、イサヒの兵のものに似せろ」
「承知」
数人がうなずく。
「盗んだ穀は、祭祀場へ運ぶ。供物甕の陰に置け。アマヂが『神に捧げるために穀を置かせた』と見えるようにな」
廃屋の中に、張りつめた空気が走る。
「次に――」
ナシリは声を落とした。
「噂を流す」
松明の火が、ゆら、と揺れる。
「『剣と穀が血を流す時、玉座は神のもとに落ちる』。とでも言ってやれ」
「それは……凶兆のように聞こえますな」
「だからいいんだよ」
ナシリは肩をすくめる。
「よく分からねぇ言葉の方が、勝手に想像して勝手に怖がって広がってくれる。アマヂみてぇな狂信者は、自分に都合よく解釈するだろ」
つまんでいた藁を、ぱらりと落とす。
「これで、ハマルはイサヒを。イサヒはアマヂを。アマヂは両方ともを、心の中で敵に回す」
誰も口を開かない。
だが、喉を鳴らす音が小さく重なる。
ナシリは土間にしゃがみ込み、指先で地面に円を描いた。
「最後だ」
描いた円の真ん中に、爪を立てる。
「明後日の夜、三人を同じ場所に集める。ここみてぇな、人目につかねぇ場所がいい」
一本、線を引く。
「イサヒには『ハマルが盗みの罪をお前に着せて、失脚させようとしてる』って話を届けろ」
もう一本。
「ハマルには『イサヒが穀を盗んだ。ついでにお前の首も刎ねるつもりだ』とな」
さらに一本。
「アマヂには『ふたりが王の首をすげ替えて、邪魔な祭祀を一掃する相談をしてる』って噂を入れろ」
三本の線が、円の真ん中で交わる。
「三人とも、自分こそが狗奴国の要だと思ってる。だからこそ、その座を誰かに脅かされるのを一番嫌う」
ナシリは爪を円から離した。
「その恐れと怒りが頂点まで膨らめば──」
立ち上がって、肩を回す。
「後は勝手に潰し合う」
穴の空いた屋根の向こうに、細い月がのぞいていた。
流れる雲の間から、白い光が土壁を照らす。
「行くぞ」
* * *
翌朝。
まだ東の空が白む前。
ナシリたちはハマルの倉に忍び込んでいた。
衛士の影が走り、倉の戸口へ滑り込む。
軋む戸に布を噛ませ、音を殺しながら、ゆっくりと押し開ける。
中には、穀袋がいくつも積まれていた。
「予定どおりだな」
ナシリの合図で、衛士たちは何袋かを担ぎ上げる。
言葉は交わさない。
足音だけが、土間に淡く響く。
松の影をすり抜け、祭祀場の供物小屋へ。
甕の陰にそっと穀袋を滑り込ませた。
「……よし」
鳥の声が、遠くでひとつ鳴いた。
朝になるとすぐ、倉から怒鳴り声が上がる。
ハマルが「兵が倉を荒らした」と怒鳴り、イサヒが「アマヂが供物と称して盗ませたのではないか」と罵り、アマヂは「神に捧げる穀を惜しむ罰あたり」とふたりまとめて責め立てた。
(これで、ひとつ目の楔)
騒ぎを遠巻きに聞きながら、ナシリは心の中で数を刻んだ。
* * *
祭祀場の片隅。
香の匂いが重く漂う中、白い衣を干す棚の下で、若い祭官があくびをかみ殺していた。
そこへ――
「なあ、聞いたかよ」
雑役に扮した衛士ふたりが、さも内緒話のように身を寄せる。
「王が変な夢を見たんだとさ。『剣と穀が血を流す時、玉座は神のもとに落ちる』ってよ」
「なんだそれ」
「さあな。でもよ、なんか嫌な響きだろ」
こっそり聞いていた祭官が、報告のためアマヂのもとへ走っていく。
翌日には、その話に尾ひれがついて邑を駆けた。
「王が凶兆を見たらしいぞ」
「将軍の兵が穀を盗んだって聞いた」
「この先、狗奴国はどうなるんだ……」
人々の声の調子が変わっていくのを、ナシリの耳ははっきりと捉えていた。
不安と恐れと苛立ちが、少しずつ混ざり始めている。
(これでふたつ目)
残るは、最後の一押し――「密告」だ。
それぞれの側近の口を通じて、三人にそれぞれ別々の噂を届ける。
「今夜、あの裏庭で相手が自分を罠にかけようとしている」と。
こうして仕込んだ罠が、今まさに。
大殿裏の暗がりで、火花を散らしている。
* * *
剣戟の音が、さらに激しくなる。
誰かが叫び、誰かが倒れる。
血が土に染み込み、松明の火が大きく揺れた。
怒号の合間に、かすかな呻き声が混ざる。
(こいつら三人とも、自分がハメられたと思ってんだろうな)
ナシリは、土壁の陰で目を細めた。
実際は、自分たちの欲と疑いが、勝手に刃を振らせているだけだ。
血と鉄の匂いを胸いっぱいに吸い込み、喉の奥が熱くなる。
「……これでいい」
低くつぶやき、ナシリは闇の奥へと身を引いた。
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