第8話 暗殺者の覚悟
朝露がまだ葉先で光るころ、神殿の庭にはもう剣の音が響いていた。
カン、カン、カンッ――
木剣と木剣がぶつかり合い、白い衣がくるりと翻る。
冷たい空気と、草と汗の匂い。
靄の下で、石畳が裸足にひんやりまとわりつく。
ナシリは、真正面から壱与を見据えた。
(……本当に、よくここまで来たな)
足の運び。
腰の据わり方。
柄を握る指の力。
まだ荒い。
けれど、自分の意思で前に出ようとしている。
「はっ……!」
壱与が踏み込んでくる。
眉根を寄せた、真剣な表情。
(強くなろうとしてる顔だ)
強くなりたい。
誰かを守りたい。
その全部が、木剣越しに手に伝わってくる。
パシンッ!
打ち込みをナシリが受け流す。
細い腕がビリビリ震え、それでも壱与は食いしばって踏みとどまった。
「……もう一本!」
壱与の声が、朝の空気を真っ直ぐに貫く。
(まだやるのか……いや、やる顔だな)
木剣を握る指に、ぎゅっと力がこもる。
額の汗が頬を伝い落ち、白い息がふっと靄の中に消えていく。
裸足の足裏には小さな傷。
袖は土で汚れている。
それでも、黒い瞳の奥はまっすぐで――
折れる気配なんて、どこにもない。
(……こんな目で見られて、止めろなんて言えるかよ)
壱与の木剣が、ナシリの手元を正確に狙って飛び込んでくる。
(速い……っ!)
思わず息を呑み、ナシリは反射で全力の受けを合わせた。
ガキン――ッ!
交差した木剣がぴたりと止まり、ふたり同時に息を止める。
「……今日は、ここまでだ」
張り詰めた空気を断ち切るように、ナシリが告げる。
「はぁ、はぁ……うん。ありがとう、ナシリ」
壱与は木剣を下ろし、息を切らしながらもぱっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、ナシリの胸がきゅっと痛む。
(反則だろ、その笑顔……)
朝日に染まった頬が、薄く透けるみたいに赤い。
細い首筋を汗がすべり落ち、風に揺れた髪がきらっと光る。
ただそれだけで、喉がカラカラに乾いた。
――あの日の口付け。
脳裏に浮かんだ瞬間、体が熱を帯びる。
唇の甘く柔らかい感触。
両腕に残る背中の温もり。
触れたい――
もう一度、抱きしめて、そして――
そこまで考えて、慌ててナシリはわざと大きく息を吐いた。
(駄目だ。落ち着け。考えるな。意識するな)
自分に言い聞かせる。
けれど、視線は勝手に追いかけてしまう。
「……最後の一太刀、悪くなかった」
気づけば口が勝手に動いていた。
壱与はぱっと顔を上げる。
「ほんと!? 今ちょっと、押せてた?」
「……少しだけな」
(めちゃくちゃ焦ったけどな)
内心を隠しながら、ナシリはそっけなく答える。
壱与は嬉しそうに笑い、木剣を胸の前に立てて抱きしめた。
「もっと強くなるから、ちゃんと見ててね」
その一言に、心臓がドクンと跳ねた。
(「見てて」とか言うなよ……)
まだ幼さの残る横顔が、光の粒に縁取られて揺れる。
その横顔がどうしようもなく綺麗で、目が離せない。
(俺は……)
壱与の笑顔を見た時の、この息苦しさ。
名前を呼ばれるたびに、胸が跳ねるこの感覚。
(……もう、とっくに分かってるだろ)
好きだ――
認めてしまった瞬間、逃げ場は消えた。
彼女を守りたいという想いが、「壱与を殺せ」という命令を遠くへ押し流していくのを、ナシリははっきりと感じていた。
* * *
昼下がり、神殿の内庭。
サワサワサワ……
竹の葉が風に揺れ、日差しの粒が地面の上でキラキラ踊る。
水を張った鉢の中では、小さな魚が影を縫うように泳ぎ、軒先に吊るされた竹飾りが、カラコロと可愛らしい音を立てていた。
干した藁と木の香り。
心の奥まで染みこんでくるような、優しい静けさ。
「ねぇナシリ、あんたヒイラギ先生に一本取られたって本当?」
アケビの声が、明るく弾む。
昼の光景によく似合う、無邪気な声。
「……そうだな。一太刀だけだ。あの男は強い」
すると、「ほらね!」とアケビが胸を張って笑った。
屈託のない笑顔が眩しい。
「ふふん。アタシだって、まだ先生から一本も取れてないし!」
アケビの笑い声は、いつも通り元気で、どこか柔らかい。
その隣で、壱与がくすりと笑った。
「アケビは毎日突撃してるもんね。剣じゃなくて、恋に、だけど?」
「ちょっ、壱与!? それ今ここで言う!?」
アケビの頬が、あっという間に真っ赤に染まる。
壱与が楽しそうに笑い出す。
その笑いにつられて、ナシリの口元も、ほんの少しだけふっと緩んだ。
(……笑ったのなんて、いつぶりだ)
思い出せない。
訓練では、笑えば殴られた。
感情を見せることは、弱さの証だと教えられた。
それなのに今、こうして自然に笑っている。
そのことが少しだけ怖くて、でも悪い気はしなかった。
「ナシリも何か面白い話ないの?」
アケビがぐい、と身を乗り出してくる。
「……特にない」
「えー、つまんないの。ナシリはもっと愛想よくしなさいよ」
「アケビ、無茶言わないの」
壱与が、困ったように笑ってアケビをたしなめる。
その声を聞いた瞬間、ナシリの胸がまた揺れる。
壱与が笑うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
目が合うと、心臓が跳ねて、呼吸が乱れる。
手を伸ばしたら、何もかも失ってしまう気がして。
それでも、触れてみたくてたまらなくなる。
誰かを好きになるなんて、考えたこともなかった。
けれど、ヒイラギを見るアケビの横顔をながめていると、少しだけ分かる気がした。
理由なんていらない。ただ、その人の幸せを願ってしまうこと。
誰かを好きになるって、きっとそういうことなんだろう。
「……アケビ」
「ん?」
「お前は、強いな」
「は? 何よいきなり」
「怖がらない。好きな相手への想いを、素直に口にする」
アケビは一瞬ぽかんとしたあと、すぐにカラカラと明るい笑い声を上げた。
「そりゃそうよ。アタシが何年片想いしてると思ってるの? 言わなきゃ伝わるものだって伝わらないじゃない?」
竹の影が風に揺れて、地面に揺らめく模様を描く。
壱与が笑い、アケビがはしゃぎ、そしてナシリも、気づけば一緒に笑っていた。
三人で過ごす、穏やかな昼下がり。
(こんな時間が、ずっと続けばいい――)
ナシリは、生まれて初めてそんな願いを胸に抱いた。
* * *
数日後。
壱与とナシリの稽古に、ふいにヒイラギが顔を出した。
「おふたりとも、ずいぶんと息が合ってきましたね」
穏やかな微笑み。
けれど何かを見抜かれている気がして、ナシリは落ち着かなかった。
ナシリは答えず、無言で構えを整える。
額から伝う汗が顎を伝い、木剣を握る指先に自然と力が入る。
「壱与は、強くあろうとしている。それは、誰かを守りたいからでしょう」
ヒイラギの言葉が、ナシリの胸に突き刺さる。
「ナシリ。君が壱与の剣でいてくれるなら、私も安心して、背中を預けられます」
その声音の奥に潜む本当の意味を、ナシリは測りかねた。
自分の正体に感づいているのか。
それともただ、壱与を思っての言葉なのか。
しかし、ヒイラギの眼差しには、一切の嘘がなかった。
まっすぐな眼差しと、壱与を託そうとする意志。
その真摯さに、ナシリは言葉をなくす。
「…………」
ただ、静かに頷くことしかできなかった。
* * *
夜の帳が落ちて、蝉の声もすっかり消えたころ。
ナシリはひとり、神殿の屋根の上にいた。
下を見下ろせば、月明かりに照らされた中庭。
そこに、小さな影がひとつ。
フッ、フッ、フッ――
壱与が、ひとりで木剣を振っていた。
規則正しい呼吸。
吐く息が白く浮かんでは、すぐ夜気に溶けて消えていく。
足を滑らせて転んでも、すぐに立ち上がる。
手のひらはもう、何度も剣だこで裂けている。
それでも柄を離さない。
(……ほんと、真っ直ぐな奴だな)
その細い腕に、どれだけの覚悟を抱えているのだろうか。
月明かりが壱与の輪郭を淡くなぞり、白い衣がふわりと揺れる。
それはとても綺麗で、だけど、胸が少し痛くなるくらい、か弱く見えた。
カラン……コロン……
軒先の竹飾りが、やけに遠くで鳴る。
(……明日だ)
狗奴国から言い渡された、暗殺の期限。
壱与を殺さなければ、次は別の刺客が来る。
そのときは、自分も一緒に消されるだろう。
(任務を果たせない「道具」に、価値はない……か)
暗殺部隊の掟を、ナシリは思い出す。
本来なら、簡単な仕事だった。
標的に近づき、隙を突いて、一度で終わらせる。
けれどそれはもう、過去の話。
中庭で剣を振るう壱与が、ぐらりと体勢を崩し、膝をついた。
それでも木剣を支えにして、ふらつきながら立ち上がる。
「……もう、誰も死なせない」
小さな声。けれど、はっきり届いた。
夜の風が、その言葉を屋根まで運んでくる。
(……壱与は、強いな)
剣の腕じゃない。
守る者が持つ、心の強さだ。
(そこまでして、誰を守ろうとしてるんだよ……)
守るために剣を振るう姿。
誰かを救いたいと願っている、その小さな背中。
それを見ていると、壱与を殺せという命令が、本当にどうでもいいことに思えてくる。
(壱与……)
名前を心の中で呼んだ瞬間、胸がじんと熱くなった。
(暗殺者と女王、どっちの命が大事かなんて、考えるまでもねぇよな)
彼女が笑ってくれれば、それでいい。
彼女が生きていてくれるなら、それだけで、この世界が少しマシに見える。
胸の奥で、ぐらぐらと落ち着かなかった熱が、ようやく形を成していく。
「守りたい」と願う、静かに燃え続ける炎へと変わっていく。
(……決めろよ、ナシリ)
壱与を生かすか、殺すか。
迷っている時間は、もうない。
「……俺は」
誰もいない屋根の上で、ナシリは小さく呟いた。
「お前を殺さない、必ず守り抜いてみせる」
自分に言い聞かせるように、はっきりと言葉にする。
たとえ狗奴国を敵に回しても。
たとえ自分がどうなろうとも、それでいい。
今なら胸を張って言える。
心が落ち着いていくのを感じながら――
ナシリは、静かに目を閉じた。
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時駆《ときかけ》の邪馬台国 〜少女王と少年暗殺者、滅亡ルートからのやり直し〜 Maya Estiva @mayaestiva
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