時駆《ときかけ》の邪馬台国 〜少女王と少年暗殺者、滅亡ルートからのやり直し〜
Maya Estiva
第一部
第1話 滅びゆく邪馬台国
ガシャアアアン!
夜の
それは、この国の「終わりの合図」。
ヒュウウウ――
風が炎を煽る。
茅葺きの屋根から屋根へ、火の舌が次々と跳び移っていく。
燃えている。
邑も、神殿も、全部。
東の
ふたつの国の連合軍が、女王の国・
盾を構えた兵たちが、邑々を焼き払い、逃げ惑う民を切り捨てていく。
空気は煙と血の匂いでいっぱいで、女たちの悲鳴と子供たちの泣き声が、風に乗って夜空を震わせていた。
(これが……私の守ってきた国……?)
二十五歳の
ついさっきまで政を司っていた場所が、今は巨大な焚き火の芯になっている。
邪馬台国――
かつてこの国では、偉大な女王
幼い日の壱与は、豊穣を告げるその音をただ遠くから聞いていた、名もなき子どもだった。
(私が……この国の女王になるなんて、思ってなかったのに……)
卑弥呼が病に倒れ、「女に国は任せられぬ」と男たちが叫んだ日。
それでも、神々が選んだのは壱与だった。
卑弥呼の死後、十三歳で即位。
震える足で玉座に座り、それから十余年。
祈りと政務に、彼女は身を削ってきた。
(ちゃんとやってきたつもりだった。それなのに――)
今、壱与の祈りは何ひとつ届いていない。
大倭と投馬の軍勢は黒い波のように押し寄せ、邑々を踏み潰しながら神殿へ迫っていた。
邪馬台国の兵たちはよく戦った。
けれど、数の差はどうにもならない。
灯の尽きかけた神殿の階段のすぐ近くまで、その黒い波が押し寄せてきていた――
* * *
神殿の石段では、ひとりの女がまだ剣を振るっていた。
女戦士、アケビ――
明るい栗色の髪が、汗と血で濡れて頬に張り付き、荒い息が白く宙へ漏れていく。
手に握るのは鉄の剣。
その前で、大陸仕込みの矛や槍を構えた敵兵たちが包囲の輪を狭めてくる。
ガキン! ガキン!
刃と刃がぶつかり合う甲高い音。
火花が散り、熱い閃光がアケビの頬をかすめた。
「はあ、はあ、はあ……っ」
息が切れる。
足元がふらつく。
限界なんて、もうとっくに越えている。
「くそっ……! このアタシが……こんなところで……!」
歯を食いしばり、アケビは最後の一太刀を振り抜いた。
けれど、その刃は空を切る。
次の瞬間。
ズブリ、と鈍い感触が脇腹を貫いた。
「……ぐあっ!」
温かいものが腹から溢れ出し、石段をじわりと赤く染めていく。
剣から力が抜け、膝が折れた。
(ゴメン……壱与……)
届かない腕を伸ばしながら、アケビの視界は炎と闇にかき消されていった。
* * *
神殿の内部。
彼は、最後まで扉の前に立っていた。
剣を構え、その背で女王を守るために。
副衛士長、ヒイラギ――
次々と雪崩れ込んでくる敵兵。
汗と血で濡れた床。
その中心で、美貌の剣士は静かに息を吐いた。
バシッ! ガッ!
疲労で重くなった腕で敵の攻撃を受け止め、ヒイラギは反撃の剣を振るう。
しなやかで無駄のない剣筋に、大陸の兵たちが次々と倒れていく。
「……まだです」
小さく呟き、血に濡れた長い黒髪を振る。
しかし――多勢に無勢。
視界の端から、一本の矛が滑り込んできた。
避けるより早く、鋭い穂先が胸を深く貫く。
「ごほっ……げほっ……」
熱い血が喉を焼き、ヒイラギは膝をついた。
それでも、扉から手を離さない。
「まだ……終わらせはしません……」
震える手で横木を押さえつける。
体から力が抜けていっても、その手だけは必死に扉を支え続けた。
やがて――
ヒイラギの手が、すとんと力を失う。
重い扉が、自重でドスンと音を立てて閉じた。
* * *
神殿の広間。
崩れかけた屋根の隙間から、次々と火矢が飛び込んでくる。
柱が燃え、梁が悲鳴をあげ、あっという間に炎があたり一面を包み込んだ。
その炎の真ん中で、壱与はひざまずいていた。
目を閉じ、最後まで祈り続けている。
(私がここを離れれば、邪馬台国は本当に終わる。女王が逃げた国には、もう何も残らない)
焼け焦げた白い神衣。
灰と煤で汚れた顔。
胸元の勾玉だけが、炎に照らされて鈍く赤く光っている。
パチパチパチ……
梁から火の粉が落ち、壱与の足元で弾ける。
熱風が頬を撫で、煙が容赦なく喉を刺す。
遠くでまだ、殺されていく人たちの声がする。
金属のぶつかり合う音。
男たちの怒号。
女子供の泣き声。
(皆……ごめんなさい……守れなくて……)
その時だった。
「……お前だけは、絶対に死なせない!」
炎の向こうから、よく知った声が飛び込んできた。
黒い影が炎を裂き、壱与に覆いかぶさる。
衛士長、ナシリ――
即位の日から、昼も夜も問わず、壱与のそばに立ち続けてくれた男。
女王としてではなく「壱与」というひとりの女を見てくれた、たったひとり愛した人。
革の鎧は、もはや元の色が分からないほど血に染まっている。
全身に走る傷。
それでも彼はその身を盾にして、焼け落ちる柱から壱与を抱きしめて守った。
ドゴオオオン!
天井の太い梁が崩れ落ちる。
直撃を受けたナシリの背中が、ぎしりと不穏な音を立てた。
「うぐっ……」
苦痛に顔を歪めながらも、ナシリは壱与を離さない。
温かい液体が、ぽたぽたと壱与の頬を濡らした。
血の匂い。
彼の匂い。
「ナシリ……ナシリ……! どうしてここに来てしまったの……!」
壱与は彼の名を何度も呼ぶ。
すがるように、その逞しい胸に顔を押しつけて泣いた。
「もう……みんな死んじゃったの! 私を守るために……アケビも、ヒイラギも、みんな……!」
涙が止まらない。
鼻の奥がツンと痛み、喉が詰まって声が震える。
「お願い……お願いだから、あなただけは生きのびて、ナシリ……!」
さっきまで、壱与はこの場所で死ぬ覚悟をしていた。
女王として、国と運命を共にするつもりだった。
それなのに。
たったひとりを失いたくないという想いが、全てをひっくり返してしまう。
ナシリはそんな壱与を見て、ほっとしたように笑った。
彼女の涙さえ愛おしい、そんな微笑みで。
「……お前は……俺の誇りだ」
血で汚れた顔に、優しい表情が浮かぶ。
「お前を守ると決めた日から……ずっと……お前だけ……」
火の音に紛れそうな声。
それでもその一言一言は、はっきりと壱与の胸に刻み込まれていく。
「女王じゃなくても……きっと俺は……お前を……愛し……た」
それは、最後の愛の告白で。
同時に、別れの言葉でもあった。
「ナシリ! 行かないで! ナシリ!」
壱与の腕の中で、ナシリの体温が少しずつ失われていく。
壱与の手が、必死に彼を掴んで震える。
どれだけ強く抱きしめても、命は指の隙間から零れ落ちていく。
「嫌……嫌よ……! こんな……こんなの、絶対に認めないから……!」
その瞬間――
壱与の胸元の勾玉が力強く脈打ち、赤く光り始めた。
古の力が、壱与の身体の中で燃え上がる。
血管を駆け上り、頭の先まで熱が一気に駆け抜ける。
* * *
壱与の脳裏に、別の夜の光景がよみがえる。
即位の少し前。
病の床にあった卑弥呼が、壱与にだけそっと打ち明けた秘密。
白い帳に囲まれた寝所。
香の匂いが重く漂っている。
痩せ細った卑弥呼が、枯れ枝のような手で壱与の手を握った。
氷みたいに冷たい手。
「壱与……」
かすれた声が名前を呼ぶ。
かつて邪馬台国全土に神託を告げた、あの張りのある艶やかな声は、もうどこにもない。
「お前に……これを……」
卑弥呼の手から渡されたのは、ひとつの勾玉だった。
赤い光が、その場を不気味に照らし出す。
「この力を使えるのは、一度きりじゃ」
老いた女王はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「一度使えば、勾玉は砕ける。二度目はない。どこで使うのか……誰のために使うのか……それを決めるのは、お前自身じゃ」
女王だけに許された、鬼道の最終奥義。
『
時間を遡る、禁断の術。
一度きりの、究極の切り札。
その意味を、このときの壱与はまだ分かっていなかった。
* * *
今、炎の中で。
壱与の瞳に、涙とは違う光が灯る。
ナシリを救えなかった世界。
愛を告げられたあとで、すべてを奪われた世界。
(私、分かったの……)
壱与は震える唇を噛んだ。
(たとえ国が滅びても、この命が尽きても、それでも――ナシリ、あなたには生きていてほしいって)
もう、悲劇は繰り返さない。
絶対に。
壱与は叫んだ。
「もう一度……もう一度、生きてあなたに会いたい……ナシリ!」
爪が掌に食い込み、血がにじむ。
握りしめた勾玉が、まるで心臓みたいに激しく脈動する。
焼け焦げた床に刻まれた古代の紋様が、ぼうっと光り出した。
空気が揺れる。
ゴゴゴゴゴ……
不気味な唸り声が、神殿全体に響いた。
熱気の流れが逆転し、炎が逆向きに巻き戻るようにゆらめく。
時の流れそのものが、無理やりねじ曲げられていく。
(もう、迷わない……!)
世界が軋む音がする。
だとしても、選ぶべき答えはひとつだけ。
鬼道の力が、限界まで解き放たれる。
崩れゆく神殿の真ん中で、壱与の身体が眩い光に包まれた。
ズゴゴゴゴ……!
天井が崩れ、巨大な瓦礫が降り注ぐ。
だが、光はそれより速く、壱与の姿を時の彼方へと連れ去っていく。
女王が捧げた「一度きりの願い」が、炎の夜から飛び出して――
物語は、もう一度「始まり」へと巻き戻っていった。
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