魔術師の杖
粉雪
第1話 その時は、突然に
その時は、突然にきた。
老錬金術師グレン・ディアレスが荒野に建てた家の庭で、居候のわたしは洗濯物を干そうとしていた。
いつも通りの淡々とした日常。季節は夏のはじめで、デーダス荒野を吹く乾いた風が、屋根の上にある風見鶏をユラユラと揺らしている。
家のまわりはぐるりと粗末な木の柵で囲われていた。
グレンが設置した魔法陣のおかげで、デーダス荒野を吹きすさぶ風も、柵の内側ではそよりとやわらぐ。庭では小さな菜園も育てていた。
地面に打ちこんだ杭から家の壁まで、ロープを張っただけの物干し場に、洗濯物を干すのはわたしの日課だ。
浄化の魔法も使えるようになったけど、シーツはお日さまの香りがするのが好きだった。
ここは大陸の西、ドラゴンに守護される魔導大国エクグラシア。その王都はシャングリラと呼ばれ、魔導列車のターミナルがある大都市だという。
そこで錬金術師団長を務めるグレンは、なんと三十年前に魔導列車を開発し、当代一の錬金術師と呼ばれる天才だ。けれど今では偏屈で人嫌いな老人として、ここデーダス荒野に引きこもっている。
王都シャングリラから魔導列車で、北西に三日進むとエルリカの街に着く。そこからさらに人里はなれた辺境の荒野に、ポツンと建つあばら屋があった。
まわりを見渡しても、地平線までほかに人家は見当たらない。
三年前、まだ高校生だった十七歳の春休み、わたしは友だちと乗った高速バスで事故に巻きこまれ、その衝撃でこの世界へ飛ばされた。
大怪我を負ったわたしを助けたのが、荒野に住む錬金術師グレンだった。
偏屈な老錬金術師にとって、異界から堕ちた娘を助けたのは、ただの気まぐれか、それとも未知なるモノへの好奇心か。見つけたのが彼じゃなかったら、わたしはきっと荒野でそのまま死んでいた。
彼に保護されたとき、事故のショックでひどく混乱したわたしは、自分の名前すらちゃんと言えなかった。
グレンはそんなわたしを『ネリア・ネリス』と名づける。
治療には医学や薬学だけでなく錬金術も使われた。気づけばわたしの長かった黒髪は、なぜか赤茶けたくせっ毛に変わり、瞳の色も黒ではなく濃い黄緑で、ペリドットのように輝いていた。
ケガが回復するまで、彼はつきっきりで世話をし、辛いリハビリに音をあげるわたしを、辛抱強く励ましてくれた。
そうしてデーダスで一年間、わたしは寝たり起きたりの生活を送りながら、彼の元で治療とリハビリを受けた。
回復したあとはそのまま二年間、彼を手伝って錬金術を学んだ。この世界に来て三年たった今、事故当時十七歳だったわたしは二十歳になっていた。
――この世界はわたしがいた世界じゃない。
その事実はデーダス荒野の空に浮かぶ、ふたつの月が教えてくれた。
――もう帰れない。帰りかたも知らない。
嘆くよりも先に、わたしには覚えなければいけないこと、やらなければいけないことがたくさんあった。
グレンがどこからか調達してきた服は、わたしの小柄な体にはゆるゆるで、ヒモを使って調節しないと着られなかった。
ふわふわとした赤茶の髪は、デーダスの風では邪魔になる。とびはねる髪に悪戦苦闘して、わたしはギュギュっと編みこんで、耳の脇でひとつにまとめた。
暖炉のあるリビングから数段上がった中二階、そこがわたしに与えられた部屋だった。壁にかかる小さな丸い鏡を見れば、濃い黄緑の瞳をした小柄な女の子が映っている。
鏡に向かって笑いかければ、その子も楽しそうにほほえみ、生き生きとした瞳が光を反射してキラキラと輝いた。
(骨格はもとのわたしと変わらないはずだけど……)
鏡に映る彼女には確かにもとの名前より、『ネリア』のほうがふさわしい気がした。明るくて元気な子、きっとそんな感じ。
その日、グレンは師団長の仕事で王都シャングリラにでかけ、ひとり残されたわたしは留守番をしていた。荒野を吹く乾いた風が、辺境にある寂れた家の扉をギシギシときしませる。
わたしだけだから、洗濯物もそれほどない。デーダスを吹く風は冷たいけれど乾燥していて、シーツも干せば半日で乾く。風が強い日は砂ボコリがきついけど、今日の風は穏やかにそよいでいた。
(洗濯物を干し終えったら昼食を準備して、午後は素材の精錬でもしようかな)
ロープにかけたシーツのシワを伸ばしながら、わたしはそんなことを考えていた。
けれど『その時』は突然にきた。
「!」
首にかけていた護符が、いきなり光を放つ。わたしが二十歳の誕生日にグレンから贈られたもので、震える指でそれにふれると、指先に激しい魔素の流れを感じた。
そこからどんどん術式が展開し、周囲に魔法陣がいくつも構築されていく。同時に荒野の家に仕掛けられた魔法陣も、勝手に動きはじめた。
ヴオオオォ……ン!
「グレン爺っ! なにこれっ!? まさか……!」
わたしは王都にいるはずの、錬金術師の名を呼んだ。
『ネリア、お前に頼みがある』
錬金術師グレンからそれを渡されたのは、彼が王都に出発する三ヵ月も前のことだ。それから折にふれ、何度も言い聞かされていた。
『もしもわしが帰ってこなければ、お前はそれをつけて自分で王都へこい』
(でもまさか、その時が今きたというの?)
「グレン!!」
『ネリア、もしも……わしが死ぬようなことがあれば、その時は』
『グレン何言ってんの、縁起でもない。そういうの、死亡フラグって言うんだよ』
そう冗談っぽく返したのに、彼はわたしの言葉など耳に入らないかのように、真剣な顔でさらに言い募った。
『わしはもうそう長くはない。その前に王都に連れていき、お前がひとり立ちできるようにしてやろう』
動きだした魔法陣により、家のあちこちに設置された術式が、わたしの目の前でどんどん色を変え、騒がしい音を立てて書き換わっていく。
それは決して戻らない、不可逆的な書き換えで。心の準備はできていたはずなのに、突然起こった現象に体を流れる魔素が反応し、わたしの全身はカアッと熱くなる。
めまいがして体がぶるりと震えた。ゾクゾクとした寒気が全身に走り、熱がでてきたかもしれない。力の入らない腕で洗濯物のカゴを持てば、わたしはよろけて足元がふらついた。
なんとか戸口にたどり着き、家に入ろうとするとドアがひとりでに開いた。
ガタついてペンキが剥げかけたあばら屋には、そぐわないほどの立派な金文字があらわれて、炎が走るようにさっと光る。魔素が火の粉みたいに輝いて散った。
──家の権限を変更。〝グレン・ディアレス〟から〝ネリア・ネリス〟に──
その字が跡形もなく、扉の上からふっと消えた瞬間、わたしは唐突に実感した。グレンは死んだ。
(あぁ、グレンはもういない。いなくなったんだ……)
心臓の魔石化が緩やかに進行し、グレンに残された寿命がそう長くないことは聞かされていた。
『もう少しだけ待て。ちゃんとお前を王都に連れていく。だがもしもそのような時がくれば……』
あのときグレンが語った言葉が頭をよぎる。
『自分で王都へこい。ネリア、お前にこの家も、わしが錬金術師として築いた長年の研究も……称号も、すべてを』
(グレン……どうして。まだ時間はあるんじゃなかったの?)
ボサボサの銀髪に、くすんだヨレヨレの白いローブ。デーダスの地下にある工房を、猫背でせかせかと歩き回っていた老錬金術師グレン・ディアレス。
『すべてを譲る。だからそのかわりに……頼まれてくれるか?』
なぜあんなに、必死に言い募ったのだろう。
ミストグレーの瞳で鋭く事象をつぶさに観察して検証する……研究にかける情熱は年老いてなお衰えなかった。
(いかなきゃ……王都シャングリラに!)
わたしは洗濯カゴを床に置き、グレンの書斎に向かう。
資料や本が机の上だけでなく床にも山積みで、わたしはその山を崩さないよう、かきわけるようにして書斎の中央に進んだ。
──資料庫の権限を〝ネリア・ネリス〟に。──
──地下研究室、及び工房の権限を〝ネリア・ネリス〟に。──
すべての権限が委譲されたとき、わたしはこの世界では誰も知らない自分の……生まれたときに両親がくれた本当の名前をつぶやく。
「─────」
なぜだろう、ひさしぶりに聞いた自分の名前に、涙がでそうになる。
──封印の呪文を変更しました。──
彼が仕掛けていた魔法陣は、役目を終えるとすべてが光を失い、家はもと通り静かになった。
デーダスを吹く風がガタガタと、窓ガラスを揺らす音がするだけだ。
そして辺境にぽつねんと建てられた、老いた錬金術師のわびしい住まいは、ただの居候だったわたしのものになった。
王都シャングリラに錬金術師団の本拠地があり、『研究棟』と呼ばれている。師団長のグレンに用意された住まいは、そこにもあるらしい。
もともと、来月の〝竜王神事〟までには、わたしを王都に連れていくという約束だった。
(まずは王都に行ってグレンの死を確認しないと。聞いていたより早すぎる)
この世界にきて三年、いちどだけグレンが転移を使って、近くにあるエルリカの街に連れていってくれた。けれどわたしは着いた瞬間、ひどい転移酔いを起こしてしまった。
それにグレンがいない今、わたしひとりで転移するのはムリだ。
(魔導列車を使おう。駅まではあれに乗っていこう!)
はじめて荒野の家を離れると思うと、心臓の鼓動がさらに早くなる。それでも階段を上がって自分の部屋へ行き、荷造りをはじめた。
用意ができたらこの家を封じて王都に向かう。王都では錬金術師団長だったというグレンが建てたこの家には、貴重な資料や素材がたくさん保管してある。
留守にするのは不安だけれど、今はそうも言っていられない。
(偏屈なお爺さんだったけど、グレンとの暮らしはわりと楽しかったな)
鼻の奥がつん、とした。ひとりぼっちは嫌だ。彼がいたからつらいリハビリにも耐えられ、何もない荒野での不自由な暮らしも楽しめた。
わたしにとって名付け親であり、庇護者にして後見人。この世界にきたばかりで何の知識もないわたしに、さまざまな知識を与えてくれた錬金術の師。
錬金術師グレン・ディアレス……彼は気難しく人嫌いで、偏屈な老人だったから、わたしは日常のささいなことでケンカして、何度も言い争った。
だけどどこか不器用で優しいところもあった。三年も一緒に暮らしたのに、わたしは彼のことをあまり知らない。
(王都にいけば彼のことも……何かわかるかもしれない)
王都の錬金術師団で師団長をしていた偉い人物が、どうしてこんな人里離れた場所に一軒家を建てて、ひとりで住んでいたんだろう。
本や資料が山積みの書斎から、リビングを見回せば、暖炉の前に置かれた安楽椅子や、彼が使っていた皿やコップ、クローゼットにかかったままの、ヨレヨレのくたびれた白いローブが目に入る。
主を失ったこのデーダスの家には、グレンの痕跡がそこかしこに残されているのに、彼はすでにこの世にいない。今度こそ本当にわたしは、異世界でひとりぼっちだ。
(王都にでて自活しないと。それもなるべく早く)
書斎の中央に立ったままで、わたしは壁に向かってつぶやいた。
「わたしは『ネリア・ネリス』、職業は錬金術師……かな?」
書斎の壁にはグレンがつけていた、無機質な白い仮面がかかっていた。
錬金術を使うとき顔を保護する魔道具でもあり、人前では決して彼は仮面を外さなかった。
わたしはそれに手を乗ばす。
デーダスの家と地下の工房、錬金術師の肩書き……。
「どうせ引き継ぐんだもの、仮面ももらっていくね」
わたしは壁からグレンの仮面をはずし、自分の顔にそっとかぶせた。
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