第3話 女神の視線
一歩進むごとに、靴底が小石を弾く。
その乾いた音だけが、闇に響く。
立ち止まれば――今度は自身の心臓が、鼓動を耳元で脈打つ。
グランツは、その夜、“闇”に骨の髄まで怯えた。
第三十二区の深夜は、文字通りの闇だった。
街灯など望むべくもなく、民家の灯りも疎ら。指で数えられるほどだ。
――この暗闇の中から幽霊でも飛び出してきたら、魂ごと持っていかれるな。
冗談のつもりでそう考え、すぐに打ち消す。
むしろ幽霊のほうがまだマシかもしれない。
ここは異世界だ。
この闇の奥に潜んでいる“何か”を想像するだけで、背筋が粟立った。
だからこそ――
空が白み始め、太陽の気配を感じたとき、グランツは心の底から安堵した。
一晩、まったく眠れなかった。
思考は鈍く、目は焼けつくように重く、足取りさえ覚束ない。
それでも、彼は心の中で固く誓う。
――もう二度と、あんな夜に飲み込まれない。
――どんな手を使ってでも、今日中に金を手に入れる。
「最低でも……一泊分の宿代だけは……」
そうして彼は第三十二区を彷徨い、地面に落ちた小銭を探し続けた。
……言うまでもなく、成果はゼロだった。
考えてみれば当然だ。
この最貧区で、拾う価値のある金が転がっているはずがない。
拾う気にもならないほど金を余らせた連中が集まる場所。
――狙うべきは、富裕層の区画。
そう結論づけ、グランツは繁栄する東部地区へと歩き出した。
道すがら、妙にちょろそうな相手がいないかと視線を泳がせつつ、ふと考える。
――昨日、嘘をついても何も起こらなかった。
――もしかして【女神の視線】って、ハッタリなんじゃ……。
そう思いかけた、そのときだった。
「――待て」
主幹道に近い大通りの中央。
馬車が二台、余裕ですれ違えるほどの幅の道路で、ひとりの男が土下座していた。
その正面に立つのは、坊主頭に髭面、全身が筋肉の塊のような男。
誰がどう見ても、“関わると碌なことにならない”タイプの人間だった。
「待て? ずいぶん待ってやったがな?」
筋肉男は、額を地面にこすりつける男を見下ろし、低く唸るように言った。
「約束を守れねぇなら――カエルになるしかねぇだろ」
「お、お願いします! それだけは……! どうか……!」
「残念だが、女神様の決まりだ」
「待って……待ってください……!」
男は鼻水と涙にまみれながら、筋肉男の脚にしがみつく。
筋肉男は嘲るように、どこか愉快そうに叫んだ。
「――女神の視線!」
筋肉男の叫びが宙を切り、男の全身を淡い光が覆う。
光は白から濁った黄色へ、
そして内臓の腐敗たる汚らしい赤へと変じた。
「や、やめ——」
男の声は、ガラスの割れる音と共に、跡形もなく切り裂かれた。
次の瞬間、そこに男の姿はなかった。
地面に残されたのは、衣服と所持品、そして――
体長三十センチほどの、一匹のカエル。
「……あれが、さっきの……?」
思わず二歩、後ずさる。
――現実だ。嘘は、そういう形で罰される。
(……あの時、あの食堂の娘に、ああしろこうしろと……)
思考が、ぷつり、と止まる。
喉の奥から鈍い鉄錆の味が込み上げて、呼吸を少しだけ妨げた。
「じゃあな。家も、家族も、財産も――全部、俺のもんだ」
筋肉男は愉快そうに笑いながら、地面に散らばった品々を拾い集め始める。
カエルは必死に跳ね、男の脚にしがみつき、鳴き続けた。
「……触るな、クズが」
蹴りは鈍い音を立ててカエルの腹を貫く。
小さな体はゴミのように宙を翻り、地面に叩きつけられた。
「今この瞬間、お前は“人”じゃねぇ。
ここで殺しても、誰ひとり文句は言わねぇ。
分かったら、俺の視界から消えろ」
怒声に打たれ、カエルはふらふらと立ち上がる。
助けを求めるように周囲を見回すが――
誰ひとり、視線を合わせようとしなかった。
それどころか、蔑むような目ばかりが向けられる。
――人でなくなった瞬間、権利もなくなる。
カエルは肩をすくめるようなしぐさをし、涙を浮かべたまま、西へと跳ね去っていった。
――あの方角には湿地帯がある。
……呪われた者たちは、そこへ集められるのだろう。
――これが、この街の“ルール”。
この土地を支配する“神”の掟。
恐ろしすぎる。
グランツは、その場から立ち去ろうとした。
だが、さきほどの筋肉男と目が合うのが怖くて、身体が言うことをきかない。
――俺は、これまで嘘をつきっぱなしだ。
――あれを向けられたら、終わりだ。
仕方なく、近くの店へと逃げ込む。
四角いテーブルと椅子が無造作に並ぶ、簡素な酒場。
入った瞬間、頭巾を被り、垂れた犬耳を持つ大柄な男が、
「いらっしゃい」
と、低い声で迎えた。
グランツはカウンター脇を通り、空いている席に腰を下ろす。
すぐに若い女の店員がやってきた。
「ご注文は?」
小麦色の肌。
垂れた犬耳に、揺れる尻尾。
――犬人族の店、か。
尻尾に視線が吸い寄せられると、少女はトレーで素早く隠し、頬を膨らませた。
「もう、やらしいんだから」
……正直、ちょっと可愛い。
今日くらい、少し贅沢しても――
……いや、俺、金なかった。
――逃げればいいじゃん。
背中の悪魔が囁き、なぜか天使まで、無言でうなずいた。
「……酒は?」
「ワイン、ビール、果実酒があります!」
満点の笑顔。
ビールを頼みかけて、ふと我に返る。
このあと全力で走る可能性が高い。酔ってる場合じゃない。
「……飲み物は?」
「りんごジュースと、ぶどうジュースです!」
「じゃあ、ぶどうで」
注文した瞬間、少女はにっこりと右手を差し出した。
「二十銅貨になります!」
「……は?」
先払いだった。
――なるほど。
――食い逃げ防止ってわけか。
恐る恐る犬耳店員を見る。
相変わらず、丁寧に手を差し出したままだ。
「お客様」
少女は笑顔のまま、そっとトレーを置いた。
「食い逃げなんて……そんなひどいこと、しませんよね?」
その目は、もはや“客”を見る目ではなく、獲物を見据える瞳だった。
……完全に、詰んでいる。
(どうする……どうする、俺……)
頭の中が真っ白になる。
逃げることも、弁解することも、すべてが無意味に思えた。
――そのとき。
「――おい、小僧。
そこは俺の席だろ。どけ」
荒々しい怒号が、酒場の入口から飛んできた。
詐欺師の俺が、嘘が通じない異世界で食堂経営をすることに ざわざわ @saber_
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