第2話 向陽屋へようこそ

「こんな遅い時間にいらして……すみません」


「いえいえ! こんな時間に来てくださるだけでありがたいです。食材もまだたくさん残っていますし、ぜんぜん気にしないでくださいね!」


――客にここまで正直に言うか、と思った。


彼女の表情は警戒心ゼロ。あまりにも開けっ広げで、太陽に晒されたようだ。

職業的な目で見れば、これは間違いなく“肥羊”。注意なんて無駄だ。


「では、すぐに準備しますね! お好きな席へどうぞ!」

そう言うと、彼女は小走りで奥に消えていった。


店内を見渡す。古いが整頓され、床は少しべたつくが、壁や天井の傷も手入れされている。

――一人で回しているのか。鈍いわけではない、使いどころを間違えているだけだ。


グランツは最も頑丈そうな椅子に腰を下ろす。奥から金属音——厨房がある。音から料理水準も把握できる。


メニューを開きつつ、意識は別のところへ。

――食べたあとどこで寝るか、いつ抜けるか。警戒心ゼロなら、少し間を見れば消えられる。


――ちっ。でも、腹が立ってきた。

あのドジで警戒心ゼロの態度……明日にはどこかの悪徳業者に骨までしゃぶられる。たまんねえ。

せっかくの飯が不味くならねえよう、一言だけ言ってくるとするか。タダ飯の礼ってな。


「お客様」


「……っ?」


心臓が跳ねる。彼女はいつの間にかそばに立っていた。

呼吸を整え、冷静を装う。


「ご注文はお決まりですか?」


「もう、作り始めてるのか?」


「はい、つい途中まで作ってしまって……今になって『あ、注文聞いてない』って気づきました」


――徹底的に無防備。


「じゃあ、そちらで」


「本当ですか!? お優しいですね!」


メニューを見る:

『野菜くず炒め 20銅貨』

『川魚の炙り焼き 25銅貨』

『獣肉の煮込み 30銅貨』

『川魚の煮込み 30銅貨』

『黒パン 25銅貨』

『白パン 80銅貨』(取り消し線)


“くず”表記、白パン取り消し……可愛いが危険。


「どうぞ」

彼女は背中に手を回し、微笑む。


グランツは箸をつける。味は正確で、寄せ集めの端材もまとまっている。


皿が空になる。今なら気づかれずに消えられる。だが、胸には複雑な感覚が残る。


(放っておけば、この手の人間は骨までしゃぶられる……先に社会勉強をさせてやろう)


――ちっ、余計なことだ。


「店員!」


「は、はい!」


「トイレはどこですか?」


「外です、裏手にあります」


「……外か」


「すみません、店内にはありません」


グランツは小さな布袋をカウンターに置く。中身は金ではなく小石——空財布の偽装だ。

布越しに伝わるゴツゴツした冷たさ。置くと「こつん」と鈍い音。金貨の軽やかさとは似ても似つかぬ、偽物の証。


彼女は安心した表情を浮かべる。それだけで十分、中身を確かめようなんて発想は微塵もない。


「すぐ戻ります」

外へ出る。裏手の穴式トイレ、悪臭が鼻を突く。夜風が冷たく肩を押す。


胸の奥には小石が一つ、どうにも飲み込めない異物感。

後悔でも満足でもない。ただ不快な感触が、内臓に引っかかり続ける——今夜の“プロの仕事”の余韻だ。


街道を進む影の中、古びた家屋の輪郭がぼんやり浮かぶ。窓から洩れる光は点々とまばらだ。目的地も隠れ場所もなく、ただ警戒心を保つ——次の機会や脅威に備えるために。


胸の小石の感覚が告げる——この世界は食堂のように清潔で明るくはない。善意と危険が入り混じり、優しさと愚かさが同居する。すべての選択、すべての行動がプロの仕事の一部なのだ。


夜は深く、街は静まり返っている。グランツは襟を立て、次の角へと駆ける——無一文、孤独、寒さ、そして消えない夜の余韻を抱えながら。

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