世界を味わいすぎた男
侘山 寂(Wabiyama Sabi)
世界を味わいすぎた男
料理が上手くなりたい――ほんとに、それだけだった。
最近の俺は、とにかく料理の才能がなかった。
味噌汁は日によって「しょっぱすぎる」か「味がほぼない」かの二択で、サラダは「生野菜のはずなのに渋い」と言われ、カレーに至っては「これ……カレー味の砂利?」と家族に真顔で聞かれた。
そんな俺が、焦げたカレー鍋を前にうずくまっていた夜のことだ。
スマホ画面の下から派手な広告がすべり上がってきた。
《五感ブースト・料理脳ヘッドギア!味覚センスが一夜で覚醒!》
歯が異様に白いモデル。
色彩がサイケすぎて見てるだけで不安になるフォント。
レビュー欄には「夫が泣きました!」「人生が変わりました!」の胡散臭すぎる言葉。
(え? 怪しいだろ、どう見ても……)
と心の中で突っ込んだ。
……が、焦げた鍋を洗う気力が湧かず、そのまま深夜テンションで「購入」を押してしまった。
数日後、届いたそれは、思ったより軽かった。
片手でひょいと持ち上がる。
プラスチック全開のチープさで、端を押すと「ペコッ」と軽い音がした。
「……大丈夫か、これ……?」
説明書は文字が妙に小さくて読みづらい。
『睡眠前に装着することで、五感の連携が促進され――』
五感の連携……? 説明が雑すぎるんだよな……。
不安を抱えたまま、俺はベッドに入った。
(明日の味噌汁……せめて“普通”の味になってほしい……)
半泣きで願いながら、眠りについた。
***
目を開けた瞬間、違和感に殴られた。
まず天井が目に入り――同時に、舌の上にふっと広がる味。
薄いコンソメ。
冷めた牛乳。
ほんの少しのレモン。
「……ん?」
寝起きのぼんやりした頭が、一気に冴えていく。
味がする。いや、味が“届く”。
もう一度しっかり天井を見る。
コンソメのあの淡い塩気。
牛乳の膜が張る寸前の、ぬるい甘み。
最後にレモンが舌の先をつまむように酸味を残す。
どれも、味として感じられている。
しかし天井が、だ。
「コンソメで牛乳でレモンの天井……? どういうことだよ……?」
起き上がるのが怖くなった。
とりあえず窓を開けて外の風を吸う。
朝の空気は本来爽やかなはずなのに――
冷たい空気。
薄いスポーツドリンク。
醤油の後味。
「外気が“醤油の余韻”出してくるってどういう世界線なんだよ……!」
本当に、何もかもが味に変換されていた。
***
アパート前の道路に、昨夜の雨が作った泥水がたまっている。
小さな水たまり。光を反射してぬらっと揺れる。
それを、視界の端で捉えただけで――
昆布出汁のまろやかさ。
冷めた麦茶の渋さ。
黒酢の刺すような酸味。
「……っ、うわ……!」
昆布出汁は落ち着く味だし、麦茶は分かるし、黒酢も味としては理解できる。
でも“三ついっしょ”はもう食べ物じゃない。
そもそも泥水は味わうもんじゃない。
味わっているのに、何を口にしているか判別できない。
脳が「知らない料理です」とエラーを吐いている感じ。
そのとき、地面を小さな虫が走った。
黒い点のような存在を目で追っただけで――
海老の殻の香ばしさ。
正露丸の強烈な苦味。
黒糖の湿った甘さ。
「いや黒糖!? どこから参戦してきたの!?」
三つとも単体では理解できるのに、同時に来るともう無理だ。
「……味、寿司みたいに“一貫”ずつ出してくれよ……なんで全部盛りなんだよ……」
(これ絶対ヘッドギア会社、集団訴訟になるぞ……俺もう原告気分なんだけだけど……)
***
会社に向かう電車。
朝のラッシュでぎゅうぎゅう。
人、人、人の圧力。
その瞬間――視界に入るすべてが、味として襲ってきた。
乗客の服に触れれば、いつもの毛羽立った感覚と、さらには――
即席味噌汁の塩気。
ガーリックポテチ。
薄いコーヒー。
満員電車では不可抗力な若い女性との接近……、いつもなら役得なその瞬間も――
ほのかなシャンプー。
ミルク飴。
柑橘の後味。
「……まずい、これはマジでまずい」
喉の奥がざわつき、身体を折りながら必死で込み上げるのを抑えた。
駅に着くなり、無言のままカニ歩きで人混みを突破し、その勢いのままトイレへ直行した。
***
「やっと着いた……!」
会社の自動ドアをくぐった途端、空調の流れが舌へ触れる。
冷たい空気。
消毒液の薄い苦さ。
なぜかポン酢。
「ここもか……空調がポン酢混ぜてくるなよ……」
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。
白い画面の淡い甘さ。
キーボードのプラスチックの塩気。
カーソル点滅の妙に冷たい感触。
「これじゃ集中できるわけないだろ……」
***
同僚たちが弁当を開けると、
白米の湯気。
卵焼きの甘さ。
醤油の香り。
「……あ、これは普通……よかった……」
一瞬だけ安心した。
本当に一瞬だけ。
しかし、向かいの同僚がレジ袋をくしゃっと鳴らした瞬間――
薄いプラスチック。
空気の乾いた味。
遠くにお菓子の匂い。
「袋よ……お前まで味になるなよ……!」
***
夕方。
疲れ切ったまま会社を出た。
街灯がにじんで、風が少し湿っている。
前からスーツ姿の男性が歩いてきた。
普通の人。
本当にただの人。
視界に入った瞬間――味が落ちてきた。
生肉の淡い脂。
レバーのような鉄分。
ミルクのやわらかい甘さ。
「……は……?」
意味が分からない。
でも、舌だけは勝手に判断する。
これは“肉”だ。
本当に、普通の肉に近い。
「ちょっと待て……いや待てって……」
頭が追いつかないまま、過去に味わった“虫”の味がよみがえる。
海老の殻。
正露丸。
黒糖。
(これと……あれを……あの比率で……)
気づけば、息をするのを忘れていた。
「……可能性が広がるな……」
舌の奥だけが静かに“料理”を組み立てようとしていた。
世界を味わいすぎた男 侘山 寂(Wabiyama Sabi) @wabiisabii
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