35

the memory2045

いつものバス停

待てど暮らせど、目的のバスは来なかった。

このバス停は、人生の「来るはずのないもの」の待合室として機能している。


フユキは冷たい雫で濡れそぼるライターをカチカチと鳴らし続け、春風は、持っていた薄い文庫本の表紙で、自分の髪の毛から滴る水滴を拭っていた。彼女の指先には、小さな傷があった。それは、昨夜、栓抜きのないワインの蓋を、無理やりスプーンでこじ開けようとした名残だ。


「ねぇ」


と、春風が言った。


声は、水に濡れた子猫のように、少しだけかすれていた。


「僕のことはいいよ」


と、フユキはライターを鳴らすのをやめずに答える。その「カチッ、カチッ」という音は、二人の間に流れる暗黙のリズムだった。


「私ね、昨日、元カレからのメールを読んだの」


「ああ。それはまるで、もう二度と履かないはずの破れたスキー靴を、わざわざ山小屋まで持って行くような行為だね」


彼は、アメリカン・ジョーク的な比喩のナイフを、いつだって、すぐにポケットから取り出せる準備をしていたのだった。


「そうね。でも、そのスキー靴の中に、私が本当に欲しかった、小さなマッチ棒が隠されているような気がしたの」


春風はそう言って、濡れた文庫本を閉じた。その本は、タイトルも著者名も、雨で滲んで読めなくなっていた。


「見つかったの?」


「いいや。マッチ棒じゃなくて、破れて読めなくなった古い地図が見つかったわ。どこの世界を示す地図なのか、もうわからないの」


フユキは、濡れた手のひらを広げ、その上に雨を受け止めた。


「その地図は、もう世界を記すためじゃないんだよ」


「それじゃあ、何のため?」


「『人生には、まだ、意味不明な秘密が残されている』ってことを、時々、ポケットの中で確認するための、ただの重りさ。僕のこのライターとおんなじだ。火はつかない。でも、鳴らし続ける。鳴らさないと、自分がただの水浸しの西瓜のかけらだってことを、認めることになっちゃうから」


春風は、それを聞いて、小さく笑った。その笑い声は、雨音の中に、かすかに溶けていった。彼女の笑い方が、フユキの心を、まるで図書館の奥で静かに埃をかぶった、誰かの置き忘れた手紙のように、そっと暖めた。


「ねぇ、フユキ」


「なんだい?」


「私たちは、きっと、この雨で全てが濡れて、何もかもが、少しだけ重たくなった、この地面そのものね」


「ああ、そうだね。どこへも行けないし、暖かくもない。でも、なぜか、二人とも、ここに立っている」


フユキは、諦めたように、最後の力を込めてライターを鳴らした。カチッ。火はつかなかった。


春風は、濡れた文庫本を強く抱きしめた。

その時。

遠くで、バスがようやく、そのエンジン音をチューニングの狂ったパイプオルガンのように響かせた。



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