試し書き

近年、日本列島、特に北海道と本州以北の中山間地域において、クマの出没と人身被害が過去に例を見ないほど深刻化しています。これは、単に「山にいる動物」の問題ではなく、クマの個体数増加、奥山の環境変化、そして人間社会の構造的変化が複雑に絡み合った結果として生じた、現代的な課題と言えます。

まず、現状としてクマの生息分布域と個体数が拡大傾向にあることが挙げられます。北海道のヒグマ、本州以南のツキノワグマのいずれも個体数が増加し、活動範囲が人の生活圏に近い低標高域にまで広がっています。この結果、人里での遭遇リスクが大幅に高まり、人身被害は統計開始以来最悪水準で推移しています。特に秋の冬眠前、クマが体力を蓄えようと活発になる時期には、その警戒感のなさが多くの悲劇を引き起こしています。

この問題の根源には、クマの餌環境の悪化と人里の誘引物の存在があります。クマの主要な食料であるドングリなどの木の実が不作に見舞われると、クマは生存のために代替の餌を求めて人里へと下りてきます。また、ナラ枯れの蔓延や、中山間地域の過疎化・高齢化に伴う里山の荒廃も、奥山での餌不足を加速させています。

さらに、人間側の無自覚な行動がクマを人里に定着させています。集落周辺に放置された生ゴミ、農作物の残渣、あるいは処理されない柿や栗などの果実が、クマにとって「労せずして得られる高効率な餌場」となり、その警戒心を薄れさせています。こうした環境で育った若いクマたちは、人間社会を利用する方法を学習し、人間を恐れない「新世代グマ」として被害を引き起こす主体となっているのです。これは、かつて山と人里の間に存在した「境界線」が、両者の無意識のうちに失われつつあることを示しています。

こうした現状に対し、行政や地域社会では、個体数調整のための計画的な捕獲や、農地を守るための電気柵の設置、集落周辺の緩衝帯整備といった対策が急務として進められています。しかし、緊急的な対策だけでは根本的な解決には至りません。今後は、被害をもたらすクマを排除するという「対処」から、クマの生息域全体を管理し、人間の生活圏と野生動物の領域を明確に再定義し直すという「管理」の思想への転換が求められています。

私たち人間は、里山の恵みを享受する一方で、野生動物との共存という重い責任を負っています。クマ問題は、自然と人間の新しい関係、すなわち「新しい共生の形」を社会全体で模索する必要性を突き付けていると言えるでしょう。