第12話 選択

 あの日――

 明日香の言葉が一度に押し寄せてきて、

 雪乃の頭は真っ白になった。


 明日香。

 凪。

 妹。


 どれも大事で、どれも重くて、

 どれも急すぎて、

 雪乃は結局、何ひとつ答えられなかった。

 『急がんでええよ。

 雪乃が決めるまで、うちは待つから』

「……でも、明日香さん待たせたら悪い」

『悪ない。

 雪乃の人生やもん。

 それに、どんだけあんたを待たせたん?』

 

 雪乃は迷っていた。

 たとえ“姉”と言われても、

 いままで姉ではなかった人に――

 甘えていいのか、甘えたら壊れてしまうのか、

 その境界がまだわからなかった。

 

 胸の奥がざわついて、

 何を選べばいいのか、

 そもそも“選ぶ”という行為がどういうものなのかさえ、

 わからなくなっていた。


 明日香は、しばらく雪乃の沈黙を待っていた。

 責めるでもなく、急かすでもなく、

 ただ、そこにいてくれた。

 けれど――

 気がついたときには、

 明日香はもう帰っていた。

 玄関の扉が静かに閉まった音だけが、

 部屋の中に残っていた。

 

 ***


 季節は、気づかないうちに巡っていた。


 制服の袖は短くなり、

 朝の空気には湿り気が混じり始めていた。


「今のうちにアルバイトとかしてたら、将来のことも考えられるんとちがうかな?

 もちろん、夢のプロレスラーっていうのもあるけど」


 施設の職員は、

 “現実的ではないよね”

 とでも言いたげな顔をしていた。


 雪乃は、あの日の答えを出せないまま、

 そして――明日香のことを誰にも「姉」だとは言わなかった。


 言った瞬間、

 世界が変わってしまう気がした。

 その変化を、まだ受け止める準備ができていなかった。


 動物が好きだったから。

 いや、“好きな気がしたから”。

 そんな曖昧な理由で、職員の知り合いの保護動物カフェで、施設の許可を得てアルバイトを始めた。


 排泄物の処理に顔をしかめながら、

 何度も「向いてない」と思った。


 それでも辞めなかった。


 ――明日香さんに、どうせ頼るんやろ、なんて思わせたくない。


 なんとなく生きてきて、

 なんとなくプロレスラーになれたらいいなと思っていた雪乃は、

 明日香に「妹」だと告げられてから、

 その“なんとなく”が許されない気がしていた。


 だから、黙って水を替え、

 我慢して床を拭いた。


 猫や犬は、こちらの事情なんてお構いなしに寄ってくる。

 名前を呼べば尻尾を振り、

 疲れた顔をしていても、ただそばに座る。


 いやいや働きながらも、

 気づけば仕事の流れは体に馴染んでいた。

 水の替え方も、餌の量も、

 鳴き声の違いから体調を察することも。


「雪乃ちゃん、助かるわ」


 そう言われると、

 胸の奥に、ほんの小さな居場所ができた気がした。


  凪の消息は、わからなかった。


 アイリス・レガシーの入団テストを受けた形跡もなく、

 ほかのプロレス団体に所属している噂もなく、

 SNSにも名前は出てこない。


 まるで、世界のどこかで静かに消えてしまったみたいに、

 行方がつかめなかった。


 プロレス番組を見る回数は減ったのに、

 聞き流せばいいはずの話題に、

 胸だけが反応する。


「最近の新人、勢いあるよな」


 客の何気ない一言に、

 心臓が一瞬だけ跳ねる。


 ――違う。

 凪じゃない。


 スマホが震えた。


 画面に表示された名前を見て、

 雪乃の胸がきゅっと縮む。


 **速水明日香。**


 姉。


 まだ、その呼び方に慣れない。


「……はい」


 通話ボタンを押すと、

 明日香の落ち着いた声が耳に届いた。


『雪乃。決めた? どうするか』


 雪乃は、息を整えるようにゆっくり口を開いた。


「……東京いっていい?」


 その声は、思っていたよりも小さかった。

 けれど、確かに“前へ進む”方向を向いていた。


 電話の向こうで、明日香が一瞬だけ息をのむ気配がした。


『……もちろんや。

 雪乃が来たいなら、いつでもおいで』


 その声は、迷いがなくて、

 雪乃のためだけに開かれた扉みたいに聞こえた。


 雪乃は、小さな声で、

 自分でも驚くほど頼りない声で尋ねた。


「……高校、いかせてくれる?」


 言っていいのか。

 甘えていいのか。

 その境界がまだわからなくて、

 喉の奥がひりついた。


『行かせてくれる?って……当たり前やん。」


 その言葉が、

 雪乃の胸の奥に、そっと落ちた。


 “家族”という言葉が、

 急に近づきすぎて、

 触れたら壊れてしまいそうで。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 でも、その熱をどう扱えばいいのか、まだわからなかった。


 電話の向こうで、明日香がやわらかく続けた。


『高校行ってる間に、いろんなもん見つかると思うで。

 レスラーだけやなくて、動物の仕事でもええし、

 それ以外の道が見つかるかもしれへん』


 雪乃は、受話器を握る手に力が入った。


「……レスラーになる自信、まだないねん」


『ええよ。

 自信なんか、最初からある人のほうが少ないわ。

 やりたいと思ったらやったらええし、

 違うと思ったらやめたらええ。

 雪乃の人生やからな』


 雪乃は、ゆっくり息を吸った。


「……うち、明日香さんのとこ行きたい。

 レスラーになるかどうかは、まだわからんけど……

 行きたい」


『うん。

 それでええ。

 雪乃が来てくれるだけで、うちは嬉しい』


 その瞬間、

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 “家族”という言葉が、

 ほんの少しだけ輪郭を持ち始めた。


 ***


 しばらくして――

 郵便ポストに、雪乃あての手紙がはいっていた。

 胸がざわつく。

 

 封を開けるとき、雪乃は小さく息をのむ。


 **凪。**


 その名前が、

 頭の中に、鮮やかに浮かんだ。




 

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君は土曜日19時に燃えていたか!! 久イサミ @tokiokoete

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