おかえり

@kagerouss

第1話

祖母の家を訪れたのは、もう何年ぶりだろう。

祖母が亡くなり、遺品整理を終えたらこの家は手放すことになっている。祖母は長年一人暮らしだった。亡くなる前はひとり言が多くなり、認知症になった。病気になってからもっと祖母孝行しておけば…と後悔したものだ。

祖母宅の立地は便利のよい土地なので、売りに出すと即日買い手がついた。最後に訪れる機会は今日しかないと思い立ったのだ。


玄関の引き戸を開けると、ふわりと懐かしい匂いが鼻をくすぐった。

長年人が住んでいなかったはずなのに、家の中には確かに祖母の気配が残っている。埃っぽく、古びた木の香りと、どこか甘い香りが入り混じった、昔から変わらない匂いだ。


玄関で靴を脱ぎ、リビングの畳に足を踏み入れ、ふと周囲を見渡す。

リビングを歩くと、ほこりが舞い上がった。リビングのカーテンを開けて、窓を全開にした。外から冷たい風がほほをかすめた。


茶箪笥の上には、祖母が毛糸で作ったドレスを着た人形が飾られている。台所には、愛用していた湯呑みがそのまま残っている。窓辺には、小さい頃に何度も遊んだ古びたオルゴール。蓋を開くと、軋むような音を立てながら、かすれたメロディが流れ出した。


懐かしさに浸りながらも、手早く整理を進めていく。タンスの中からは、祖母の着物がいくつも出てきた。桐の箱に入った手紙や、小さな木箱に収められた指輪。どれも古いものだが、大切にされていたのが伝わってくる。

そのとき、ふと頭に浮かんだ。

(そういえば……屋根裏にも荷物が何かあった気がする)


幼い頃、よく遊んでいた場所だ。小さな梯子を登って上がる、狭くて埃っぽいけれど、秘密基地のように感じていた屋根裏部屋。いとこが大勢集まると、かくれんぼでいつもそこに隠れていた。


懐中電灯を手に取り、和室の天井にある点検口を開ける。古びた木の階段を引き出し、ぎしぎしと音を立てながら慎重に上がった。


屋根裏は予想通り、埃まみれだった。空気が重く、かすかにカビ臭い。動物の糞だろうか…黒っぽいゴミがたくさん落ちている。

懐中電灯の光を頼りに周囲を見渡すと、想像していたよりも殺風景な景色が広がっていた。隅に古い木箱がひとつ、ぽつんと置かれて、その下には本が置かれている。


そっと蓋を開けると、中には一台の古びたカメラと、分厚いアルバムが収められていた。


「おばあちゃんの思い出かな……?」


そう思いながらアルバムを開くと、そこには幼い頃の自分と家族の写真が並んでいた。

夏祭りの写真。縁側でスイカを食べる写真。お正月に親戚で撮った集合写真。

懐かしさが込み上げた。


だが、ページをめくるごとに、何か違和感を感じる。


……すべてに知らない女が写り込んでいる。


最初は気のせいかと思った。親戚にいたかな?と見過ごしていた。写真の隅、ぼやけた影のように、ほんの小さく写っているだけだったから。


しかし、ページを進めるたびに、その女ははっきりと姿を現していった。


そして、縁側の写真。父と母の後ろに、その女が立っている。


運動会の写真。母の肩越しに、じっとこちらを見ている女の顔。

遠足の写真。自分の真後ろに、白いワンピースの女が、無表情で立っていた。

こんな写真あっただろうか?


背筋がざわりと粟立つ。

この女は、一体誰なんだ?

アルバムをめくる手が止まらない。


写真の中の女は、ページを追うごとにどんどん近づいていて、存在感が増している。

家族写真の端にいたはずが、次には家族のすぐ後ろに、さらに次には、自分の隣に。

──そして、最後のページを開いた。


そこに映っていたのは、見覚えのあるリビングだった。

誰もいないはずの、さっき、自分が立っていた下の部屋。


その中央に、白いワンピースの女が一人で座り、こちらに向かって微笑んでいた。


ゴトリ。


下の階から、何かが落ちる音がした。

息が詰まる。何も聞こえないはずなのに、耳鳴りがするほどの静寂。

喉がひりつくほどに、乾いた息を呑み込む。


――パタン。


背後で、屋根裏の点検口が閉まる音がした。


喉がカラカラに乾いていた。アルバムの最後のページを見た瞬間から、心臓が速く、強く脈打ち始めているのがわかる。


今見た写真をもう一度見た。


リビングの写真は今のものだった。自分がこの家に入ってからカーテンを外して開けた窓がそのままうつっている。外には今日乗ってきた車も…。


そんなはずがない。

祖母の家には、自分以外の誰もいないはずなのに。

このままアルバムを閉じよう──そう思った瞬間だった。


パラリ。


一枚の写真が、アルバムの間から零れ落ちた。何の気なしに拾い、指でつまむ。だが、目に入ったその一瞬で、全身が凍りついた。


──これは、昨夜の自分だ。


写真に映っているのは、自分の寝姿だった。シーツをかぶり、静かに寝息を立てている自分。枕元に、昨夜読んでいた不動産会社からの書類が散らばっているのだ。


それに、それを撮影した位置がおかしい。これは、ベッドの足元からの視点。

まるで、自分の寝顔をじっと見つめていた何者かが、そこでカメラを構えていたかのようなアングル。

胃の奥がひっくり返るような感覚が襲う。そんなはずはない。昨夜、あの家には自分しかいなかった。


──いや、本当にそうだったか?不意に、背中が粟立つ。

昨日、床につくときの記憶をたどる。確かに一人だったはず。寝る前に玄関を施錠し、窓もすべて閉めた。誰も入れるはずがない。


──だったら、誰が撮った?


震える指先で、アルバムのページをめくる。ふと、何かが挟まっているのに気づいた。もう一枚、見覚えのない写真があった。手に取って見た瞬間、心臓が喉元までせり上がる。


──これは、今の自分だ。


埃っぽい屋根裏部屋。その中央で、アルバムを覗き込んでいる自分の後ろ姿。髪の毛の先まで、じっとりと冷たい汗が流れる。この家には誰もいない。


誰もいない空間で、どうしてこんな写真が撮られている?


ゾッとして、勢いよく振り返る。


誰かが背後に立っているような、そんな気配を感じた。

だが──屋根裏には、自分以外の誰もいない。


息が苦しい。胸が圧迫されるような、強い恐怖が全身を締め付ける。

ゴクリ、と喉が鳴る。目をこらして、暗がりの奥を見つめる。

 

──誰もいないはずだ。でも、耳を澄ますと……すぐ近くで、微かな音がした。


カシャ。


──シャッター音だ。首筋の毛が逆立つ。


今、すぐそばで、誰かが写真を撮った。屋根裏の暗闇の奥。懐中電灯の光が届かない、闇の中。何かが、そこにいる。


──自分の姿を撮影した、"誰か"が。何かがいる

それを意識した瞬間、全身の毛が逆立ち、理性が吹き飛んだ。屋根裏の闇の奥、確かにあのシャッター音が響いたのだ。誰かが、そこにいる。自分を撮っている。その思考だけで、もう駄目だった。


足が勝手に動いた。アルバムもカメラも放り出し、点検口を開けて屋根裏の梯子を飛び降りるように駆け下りる。バランスを崩し、転げ落ちるように畳に叩きつけられたが、それどころではなかった。背後から、何かが追ってくる──そんな錯覚すら覚えるほど、背中にじっとりとした視線を感じる。


廊下を駆け抜け、リビングへ飛び込む。息が荒い。心臓が喉から飛び出しそうだ。

震える指で電気のスイッチを探り、部屋に明かりを灯した。温かみのある照明が部屋全体を照らし、不気味な暗闇を消し去る。


はずだった。


──ゴトリ。何かが転がる音がした。反射的に振り返ると、床の上に、さっき屋根裏で見つけた古びたカメラが落ちていた。


──いや、屋根裏に置いてきたはずだ。いつ、どうやってここに?


じっとそれを見つめる。すると、カメラのレンズがこちらを向いていることに気づいた。

まるで、まだ撮影を続けているかのように。その瞬間、スマホが震えた。

ビクッと肩を揺らし、ポケットから取り出す。画面には「不動産業者」の文字。


手が震え、なかなか応答できない。だが、この恐怖から逃げたくて、震える指で画面をスワイプした。


「……もしもし……?」


自分の声がかすれていた。


「お疲れ様です。不動産会社の者ですが」


電話の向こうの声は、どこか困惑しているようだった。


「昨日、新しい買い主の方が下見に来たそうなんですが……」


息が詰まる。


「……え?」


そんな話、聞いていない。昨日? 誰かが?業者の声が少しだけ低くなる。


「家の中に……誰かいたって言うんです」


背筋が凍りついた。


「……何、ですって?」


「リビングの椅子に女性が座っていたそうで。それで、その女性が……」


言葉を詰まらせる。電話の向こうで、不動産業者が息を飲む音が聞こえた。


「微笑んで、『おかえり』って言ったそうなんです」


全身の血が引いた。息ができない。言葉を発しようとしても、喉がひりつくように痛む。


「……おかしいですよね?」


業者の声が、どこか上ずっている。


「な、何が……おかしいんですか……?」


「だって……その写真、送ってもらったんですが……」


業者が、ためらいがちに言う。


「あなた、その隣に座ってましたよ」


頭が真っ白になった。そんなはずはない。昨日、ここには自分しかいなかった。息を詰めたまま、スマホの画面を見つめる。次の瞬間、「ピロン」と通知音が鳴り、新着画像が表示された。指が震え、タップするのもためらわれる。だが、見ないわけにはいかなかった。


恐る恐る開いた写真──そこには、リビングの椅子に腰掛けた見知らぬ女が写っていた。白いワンピースを着た女。


──そして、その女の隣で、同じように微笑む自分がいた。


……そんな記憶はない。そんな写真を撮られた覚えもない。それどころか──昨晩、自分は“誰か”に見られていた。スマホを持つ手が震える。そのとき、ふと気づいた。画面に映る自分の顔。その目線が……まっすぐ、カメラのレンズを見つめていた。


もう、ここにはいられない。胸が締めつけられ、まともに息ができないほどの恐怖に駆られて、玄関へと走った。


アルバムも、カメラも、整理するはずの荷物もそのまま。今はただ、一刻も早くこの家から離れなければならない。玄関の引き戸を乱暴に開け、夜の冷たい空気が肌を刺す。

それでも、あの屋根裏の空気よりはずっとましだった。振り返らない。考えない。すべてを置いて、このまま去る。もう二度と、この家には戻らない。そう決めた。車に乗り込み、震える指でエンジンをかける。バックミラーに映る家を直視できないまま、アクセルを踏み込んだ。


あれから数日が経った。日常に戻ったはずだった。朝起きて、仕事に向かい、同僚と他愛のない会話を交わし、何事もない一日を過ごす。けれど、どこかが変だ。仕事に集中しているはずなのに、ふとした瞬間に背後の空気が重く感じられる。誰かがじっと見つめているような、そんな感覚が拭えない。電車に乗っているとき、窓に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。つり革につかまりながら、何とはなしに目をこらす。


気のせいだろうか。窓越しに映る自分のすぐ後ろ。そこに、もうひとつの影がある気がした。慌てて振り返る。だが、後ろには誰もいなかった。自分の席の背もたれと、つり革が静かに揺れているだけだった。


いや、考えすぎだ。そう自分に言い聞かせる。お風呂に入っているとき。シャンプーを洗い流し、目を開ける瞬間。鏡に映る浴室の扉の向こうに、何かの気配を感じる。

テレビを見ているとき。画面の光がぼんやりと壁に反射し、そこにうっすらと影が差す。しかし、部屋には自分しかいないはずなのに、その影は動いたように見えた。夜、明かりを消し、ベッドに横たわる。心を落ち着けようと、ゆっくりと息を吸い込む。

その瞬間、すぐそばで誰かが立っているような気配がした。


あの家を出るときに、すべてを捨てたはずだ。アルバムも、カメラも、あの女の影も。それなのに、背中に焼きついたような感覚は、未だに消えない。

違和感が、ずっと続いている。そして、その違和感が確信へと変わる瞬間が訪れた。


何気なく、スマホの写真フォルダを開いたときだった。スクロールする指が、ある一枚の写真の前で止まる。見覚えのない写真だった。


そんなはずはない。自分のスマホに、写真を撮った覚えはない。嫌な予感がして、指が震えながらも画面をタップする。写真が拡大され、はっきりと映し出された。そこに写っていたのは、自分の後ろ姿だった。夜の玄関前。家の前に立ち、ドアノブに手をかけている自分。けれど、何かが違う。目を凝らし、じっと見つめる。ぞわりとした悪寒が背中を走った。


これは……いつ撮られた写真なんだ?まじまじと画面を見つめながら、思考がぐるぐると渦巻く。自分の後ろ姿。家の前に立ち、玄関を開けようとしている自分。


だが、妙な違和感がある。この服装…シャツとネクタイの柄──これは、さっき帰宅した時のものではないか?


今日、玄関のドアを開ける時、スマホをポケットに入れたままだったはずだ。誰かが、どこかから撮っていた……?


いや、そんなはずはない。家の周りには、誰もいなかった。誰かがいたなら、気づかないはずがない。喉の奥が乾く。飲み込んだ唾がひどく重たく感じられた。


瞬間、心臓がひとつ、強く跳ねた。全身の血の気が引き、背中がひやりと冷える。何か、おかしい。


この写真……誰が撮った?どこから撮った?


写真のどこかに、答えがあるはずだ。スマホの画面を睨みつけながら、視線を巡らせる。そして、そのとき、ふと気づいた。


写真の背後。玄関のすぐ横にある、小さな窓。そこに──暗闇の向こうから、誰かがこちらを見ていた。心臓が、ぎゅっと掴まれるような感覚がした。じわじわと視線をずらしていく。そして、そこに──白いいワンピースの女がいた。


窓ガラス越しに、静かに微笑んでいる。ただじっと、まるでそこに立っているかのように、はっきりと。


瞬間、背筋を冷たい針で貫かれたような感覚が走る。心臓の鼓動が、耳の奥で響く。

スマホを持つ手が震えた。写真を閉じようとしても、指が動かない。


──そのときだった。耳の奥で、はっきりと囁く声が聞こえた。


「おかえり」


息が止まる。空気が凍りつく。その声は、確かに聞こえた。はっきりと、すぐ近くで。──この部屋の中で。

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